2007-07-29

芭蕉自筆本真贋論争考 栗林浩

芭蕉自筆本真贋論争考 ……栗林 浩

初出:「琅」第20号(2007年7月・編集人宗内敦)


平成八年に、近世俳句史のうえで希に見る発見があった。芭蕉の『奥の細道』の自筆本である。世上を賑わした真贋論争の末、本物に間違いないとの斯界の判断が定まったかのように、少なくとも私には見えた。

 ***

その前に唐突だが、「狭山事件」のことを少しだけ書く。筆跡鑑定が絡んでいるからである。

昭和三十八年五月一日、埼玉県狭山市で女子高校生が殺された(善枝ちゃん事件)。その夜二十万円を要求する脅迫状が被害者宅に届いた。警察は金の受け渡しの際、犯人を取り逃がした。そのころ村越吉展ちゃん事件でも犯人を逃がす失態があり、国会で取り上げられ、警察庁長官が辞任。警察は面子をかけた捜査を展開し、二十三日近在の青年石川一雄を別件逮捕。自白の後、裁判で否認したが、脅迫状の筆跡鑑定が判断のひとつの材料となり、半年のスピード審理で浦和地裁は死刑を宣告。すぐに上告して最高裁まで行ったが、昭和五十二年に無期懲役が確定した。その後、再審請求・棄却・異議申立て・棄却・特別抗告・棄却・第二次審査請求・棄却・異議申立てを繰返し、平成十七年三月棄却判決が出た。被告側は目下、第三次再審申立てを準備中である。

脅迫状を石川青年が書いたのかどうかの筆跡鑑定が、ひとりの人間の運命を左右するのである。芭蕉筆の真贋鑑定より、ある意味で、より切実な問題である。

石川青年の筆跡鑑定は、異同判定不可能領域にあるというのもあるが、概ね白黒の真ふたつに分かれている、と言ってよい。弁護側は、十以上の鑑定および意見書がそれぞれ無罪を証明していると主張した。筆勢・筆圧・配字形態・字画形態・字画構成・筆順・誤字・文字の巧拙・書品・文字の大小・書体・運筆を精査し、かつ筆跡計測学の手法を使い、被告の国語能力不足をも考慮し、万全と思える弁護を行った。しかし、裁判官は、有罪を示唆する検察側が出した三つの鑑定を合理性あるものとし、特別抗告を棄却したのであった。しかし、「狭山事件」はまだ続くようである。

 ***

本題に入ろう。曾良を調べていたら、『奥の細道』の所謂「曾良本」が芭蕉自筆であるという村松友次氏の説に行き当たった。氏は、「曾良本『おくのほそ道』の研究」で学位を受けた俳文学研究者であり、元東洋大学短期大学学長を務め、芭蕉・蕪村・一茶らに関する論文を多数発表している。また俳句の実作者でもあり、虚子・素十に師事、結社「雪」の前主宰、新俳誌「葛」の現主宰である。

一方、冒頭に述べたとおり、行方知れずになっていた芭蕉の、これこそ自筆本だと信じられる本が平成八年に発見された。大発見である。この発見について、俳文学の世界でどんな議論がなされていたのかをも概観しよう。

芭蕉が奥の細道を書き、これを何度も自分で推敲した(これを「野坡本」と呼ぶ――後出)のだが、あまりにも手を入れ過ぎたので、読みやすくするため誰かに頼んで清書してもらった。この清書版を読み返したら、また気になるところがあったので、朱書きを入れた。それでもまだ気に入らない。墨で消したり加えたりした。この推敲本を旅の功労者である曾良に与え、それが回りまわって曾良の家系(信州諏訪の河西家)を通して伝わって来たので「曾良本」と言われている。曾良本は暫く日の目を見ず、昭和二十五年になってようやく議論の俎上に乗った。当初、曾良が清書したと言われていたが、字体が違うため、最近では、蕉門のひとり越後屋の手代池田利牛が書いた、とされている。

ところが、村松氏は、「曾良本は芭蕉自身が清書した可能性が高い」と主張するのである。この曾良本は、誰が清書したにせよ、蕉門の当時の一番しっかりした完成稿である、とされており、これをもとに素龍という能筆家が書き写し、柿衛本・西村本として今に伝わり、芭蕉研究の大きな礎となって来たのである。

曾良本が、村松氏の主張するように、真筆である、というのはむしろ少数意見であるが、朱書き訂正(第一推敲)の部分やそれに続く墨書き訂正(第二推敲)は、芭蕉の自筆である、とするのが定説になっている。さらに第三推敲まで議論されている。


では、芭蕉が初めに書いて何度も手直しをした自筆の『奥の細道』はどこにあるのだろうか。これは門人志太野坡(やはり越後屋の手代)が持っていたといわれているので、所謂「野坡本」と呼ばれてきたが、長い間行方不明で、半ば伝説的なものだった。

これが、平成八年に神戸で見つかった、というのだ。慎重な検討により、これを最初に、間違いなく自筆本で、しかも「野坡本」であると発表したのが、上野洋三氏と櫻井武次郎氏であった。近年まれに見る国宝級大発見である。この本、仮に所有者の名をとって「中尾本」と呼ぶことにするが、これが本物であることを、両氏は次のように説明する。なお櫻井氏はのちに芭蕉の研究における顕著な功績をもって、文部科学大臣賞を受けた。

▼「中尾本」が自筆本「野坡本」であるとする根拠

 上野・櫻井両氏は、「中尾本」の筆跡が芭蕉真筆とされている他の資料と比較して、筆跡・書き癖・書体・書風・用字などのどの点からも芭蕉の特徴が顕著に出ている、という。たとえば「予」という字を芭蕉は「箒」のように書く癖がある。いくつかを示そう。

 予→箒  佳→隹  府→苻  
 聞→門の中に「歹」を書く
 直→「置」のように書く  
 求→求の上に余計な「一」を書く

などである。上野氏は「中尾本」のすべての文字を、一文字ずつ写真に取り、比較検討した。一万六百枚におよぶ単文字の比較検討のほかに、文字どうしのつながりや、全体的な書風などを精査した。慎重に慎重を重ねた議論の結果、芭蕉真筆に違いないとの結論に達し、マスコミに発表した。今や、両氏の真筆説は俳文学の世界の定説となったと言って良いように思える。

大きな発見には必ず疑問を投げる向きがいる。学会で科学的に議論され、大勢の意見が収斂してひとつになるのが望ましいのだが、それには時間が必要なようだ。

▼「中尾本」が芭蕉自筆ではないと主張する意見

最初に異論を唱えたのは山本唯一氏である。その根拠は、芭蕉のものとして伝わっているものに偽物が多いという事実を重要視し「中尾本」を調べたが、まったく教養のない者が書いたような誤字が多いと言うのである(平成九年五月)。例を挙げる。

正    中尾本(原) 中尾本(推敲後)   曾良本(原) 曾良本(推敲後)
道祖神    道岨神               道祖神
縁起     縁記                縁記
開基     開記                開記  →  開基
白妙     白砂  →  白妙         白妙
西の木    栗の木               西の木
討死     射死                射死  →  討死
永平寺    平永寺 →  永平寺        永平寺

芭蕉自身の筆であるとすれば、確かに酷い。「曾良本」が三度も推敲されていることは前に書いたが、「中尾本」も張り紙があったり、墨で直したり、刃物で削ったりされている。右の表中の矢印「→」は訂正を示している。このような誤りを芭蕉が犯すであろうか、というのが山本氏の疑問である。さらに氏は想像を逞しくして、芭蕉の甥の桃印が書いたのではなかろうかという。

▼反論

櫻井氏は山本氏へ反論する。要旨は、「思いもよらぬ誤記は、芭蕉の書簡などにも例が少なくなく、私どもの体験の中でもよくあることで、誤記が多いからといって、芭蕉の自筆であることを否定する根拠にはなりません」という俳文学会の大御所の言葉のとおりであり、筆者が甥の桃印である証拠も無い、と主張した。

桃印の筆跡資料が残されていないし、彼が労咳で間もなく他界してしまうので、少なくとも桃印清書説は少し無理があるように私は思う、がどうだろうか。

▼さらなる否定論

続いて自筆論に異論を出したのは増田孝氏であった。「新潮45」(平成九年九月)にセンセーショナルな見出し「『奥の細道』芭蕉真筆の大ウソ」として……国文学者の先生方は「書」の真贋をみきわめる眼をお持ちなのですか……と挑戦した。結論的には、書跡史研究家でプロの「書」鑑定者である増田氏から見れば「中尾本」は「書」としての魅力のない、程度の低い「写本」だという。日ごろ偽物の書画骨董を扱い慣れているひとの意見として、貴重であろう。

氏はいう。一般論として、偽物書きは必ず原本の書き癖をまねて書くから、書き癖が似ているからということだけでは判定できない。「書風」が自然かどうかを第一の眼目とすべきである。字間の自然な脈絡・安定した字体などである。

たとえば、あるひとつの字母に基づく仮名をみてみると、「中尾本」の「は」(「盤」を字母とする)のように、素直なものから大きく歪んだものまで様々な「は」を含んでいる。これは、お手本を必死に写したものであるという証拠である、という。

また、以前から、あの有名な山寺の一節で、「岩歩院々」と「岩上の院々」のどちらが正しいかの議論があった。字のくずし方が微妙なので素人には判読できないが、上野氏は、「中尾本」では「岩上の院々」と読めるので、これが真筆の決定的な証拠であると、いう。一方、増田氏は、「中尾本」は「岩歩院々」としか読めないので、これこそ決定的な偽物の証拠であると主張する。平成十年には、三重大学の先生も自筆論を疑っている。

さらに平成十二年、「同志社国文学53」で、山村孝一氏が「芭蕉自筆を否定する文字たち」として、自筆説を批判する。上野氏が、芭蕉に特有な字体として挙げた「葦」や「佳」など二十三文字のうち、十九文字が「曾良本」にも出ており、「曾良本」を芭蕉自筆でないとするならば、上野氏は自らの二十三文字中十九文字を否定せねばならなくなるのである、と山村氏はいう。つまり、曾良本が真筆でないなら、中尾本も真筆ではない、というのだ。

▼再び反論

上野・櫻井両氏は反論する。ここでいう「書き癖」とは、他人が真似することのできる表層的なものではなく、本人が無自覚に身体で覚えてしまった「癖」を分析的科学的手法で見つけようとしているのである、という。最近の言葉でいえば、「DNAのような書き癖」というべきであろうか。

また、「書風」という「感じ」のみで筆跡鑑定するのは、それはそれで大切だが、細かい分析的研究の積み重ねによって、裏づけされるべきである、という反論である。
また、「は」についても「岩歩院々」についても丁寧に答えている。

私は個人的には、「中尾本」を美術作品として鑑るのか、あくまでも文学作品の下原稿として見るのかで、判断が分かれるように思えてならない。

▼では、「曾良本」はどうなったか?

簡単にいえば、「中尾本(=野坡本)」の発見後、「曾良本」の朱書き第一推敲と墨書きの第二推敲部分に関する限り「中尾本」の筆跡と一致するし、原文作者でないとできない修正があるので、芭蕉のものであることが再確認されることとなった。一方、「曾良本」の本文の方は、上野氏の推論により、利牛という芭蕉一門の俳人が書いたものである、と決め付けられた。数少ない利牛の筆跡を参考にしたものだった。

その上、この「曾良本」をもとに、「柿衛本」「西村本」が素龍の手で遺されるのであるが、第三推敲を入れたのは、この素龍ではなかろうかと、言われ始めた。芭蕉の文には、送り仮名が省略されている例が多いのだが、和歌に詳しい素龍が藤原定家の「仮名文字遣」に則って歌の世界で確定している送り仮名を、この「曾良本」に取り入れたのだという。これは、藤原マリ子氏の「『おくのほそ道』本文研究」(新典社、平成十三年)による。

「曾良本」の第二推敲までの芭蕉真筆が再確認されたことは、村松氏にとっては当然のことであったが、本文が利牛筆であろうとの説には、大いに反論した。「中尾本(=野坡本)」の出現がむしろ「曾良本」芭蕉自筆説の裏づけになるのだという(「東京新聞平成十年五月二十・二十一日夕刊」による)。

第一の根拠は、癖字が両本に共通しているからだ。「予」が「箒」、「佳」が「隹」となることである。これは、もともと村松氏が最初に学会に発表したことであった。

第二の根拠は、「中尾本(=野坡本)」を手本に「曾良本」が書かれたのだが、手本にはまだ誤りの箇所が残っていた。ところがこの箇所が「曾良本」本文には正しく書かれているのである。本文にである。しかも手本は訂正されていない。手本はあくまでも下書本であり、後で捨てるであろうから、訂正はいらないのだ。芭蕉本人でないとできない清書行為であるという。「中尾本(=野坡本)」をそばに置きながら、しかし一字一句正確に写すというのではなく、頭の中にある文章をすらすらと書いて行ったのである。たとえば、「中尾本(=野坡本)」→「曾良本」への変更の例は、

  かすかに見えて→幽かに見えて
  栗といふ字は栗の木と書きて→栗といふ字は西の木と書きて
  いかなる故ある事にや→いかなる事にや
  箕張の庄→三春の庄

である。たしかに芭蕉自身か、あるいは、そばに芭蕉がついていないとできない直しである。

第三は、利牛の筆跡とされている「利牛詠草」と「曾良本」の字が似ていると言われるのだが、決して似ていない。むしろ「利牛詠草」の字は芭蕉のに似ていやしないか……と村松氏はいう。また、兵庫県の柿衛文庫に利牛の自画賛があるのだが、それにある「利牛」の署名と「利牛詠草」のそれとは、はっきり別物と見える、とも主張している。

両者の写しを見ると、私にも別物に見えるのである。「曾良本」利牛筆説は、「中尾本(野坡本)」真筆説と同じように慎重に精査されて出た結論なのだろうか。
 

議論はまだ継続している。山本唯一氏は『芭蕉の文墨―その真偽』を平成九年十月に思文閣出版より出版し、批判を緩めなかった。勿論、櫻井・上野両氏を擁護補強する研究が圧倒的に多い。雲英末雄・深沢真二・藤田真一・尾形仂らの各氏である。田中善信氏は『芭蕉の真贋』をぺりかん社から平成十四年に出して、真筆説を強化している。

しかし、増田氏はさらに異論を吐く。『書の真贋を推理する』を平成十六年一月に東京堂出版から出した。その中で興味あることは、
「中尾本」が騒がれ始めるずっと前に、実は三人の専門家が否定的な判断をしていた。
さらに、四人目として、柿衛文庫のあるじ岡田利平兵衛氏(芭蕉の筆跡の鑑定家・蒐集家として著名、昭和五十七年年逝去)に見てもらったが、結果は「黒」であったらしい。

とある。

▼自筆説・村松氏に聞く

さて、「曾良本」本文は芭蕉の自筆ではないと宣告されたが、自筆説の村松友次氏は、肝心の「中尾本」の方は本物、つまり「野坡本」だと思っておられるのだろうか。
平成十七年の秋のある日、東村山市の自宅を訪ねた。一階応接間は壁面すべてが蕉門関係の文献で一杯である。二階も地下室もそうだという。本の重みで家が傾きそうだと心配していた。机の上には書きかけの原稿や、手紙や本が所狭しと置いてある。

氏は私の早速の質問に、
「『中尾本』は自筆だと思いますよ」
と答えてくれた。根拠は、「曾良本」が芭蕉自筆であると思う根拠と同じだという。

「『曾良本』の方は、今でも芭蕉自筆とお考えですか」
と訊くと、
「そうです。『中尾本』が真筆で、あの『野坡本』だったということですよね。だが『曾良本』も真筆です。しかも『中尾本(=野坡本)』に誤りのまま残されている部分を、『曾良本』ではただしく(推敲まえの)本文に書かれているのです。つまり原作者でないと書けないような転記をしているのです。字体や全体雰囲気が違うという意見もありますが、芭蕉が罫線入りの下敷きを敷いて、机に向かって正座して……つまり、色紙や巻紙を宙に浮かして書くやり方ではなく……書いたおそらく唯一のものなのです。多くの研究家は、色紙や巻紙の字ばかりを鑑ておられますから、ちょっと違和感があるんでしょうねえ。それに紙が『中尾本(=野坡本)』と違って、墨をあまり吸わない質のものですから、流麗な筆跡になっているんですね」

「上野先生が『曾良本』=利牛筆説を出して、多くのひとびとが同意しているようですが、『利牛詠草』の利牛の署名が、素人の私でも別人ではないかと思うのですが……」

「そのとおりです。筆跡鑑定すれば良いのでしょうが……どうも水掛け論になりそうですからねえ。別の角度からの状況証拠が必要です。時間が必要ですねえ」

「蕉門文学の世界に『真筆奥の細道』がふたつあると、学会は困るのですか」

「いや、そんなことはない。ただ、このことに限らず、世の中で定説が罷り通ると、すべてがその通りに整理されて、それを前提に次の研究が展開されるでしょう。だから路線変更は大変なんですよ。素龍清書本が『奥の細道』の定本として、斯界の研究のベースが出来上がっていますから、いまさら『曾良本』が完成稿で、すべてこれに基づいてやり直しとなると……」

「学会のヒエラルキーを感じますが、それはどこにでもあるんですね。ところで、先生の説を支援している方は……」

「いやあ、あまりいないです。そう、作家の嵐山光三郎さんくらいですかねえ」
といって、読売新聞平成十一年十一月二十八日の記事を見せてくれた。嵐山氏は、

『奥の細道』は私にとってまぎれもなく「事件」であり、事件現場に残されたのは、野坡本、曾良本、素龍本の文字である。芭蕉探偵団となった村松氏は、書き文字のひとつひとつを拾い出して読みくらべ、推理を重ねている。その作業を続けるうちに、曾良本がまぎれもなく芭蕉自筆の最終本であることが見えてきて、感動的である。なるほど国文学者というものはこういう愉しみがあるのだな、とわかった。
と、村松氏が発表した『芭蕉翁正筆奥の細道』(笠間書院、平成十一年)の読後感を書いている。

▼科学的年代測定法

文化財の年代測定に科学的な方法がある。先の増田孝氏は名古屋大学の年代測定研究センターと古文書年代測定に関する共同研究を行っており、科学的に「中尾本」の紙の年代を測定しようと思った。「中尾本」側にその旨の申し入れの手紙を出したが、丁重な断りの返事を受けた。その必要はない、ということである。「中尾本」の紙質については、その道の権威が、あの時代の高級なものであるとのお墨付きを与えているので、もう十分だというのであろうが、折角科学的な年代測定方法=炭素同位体法があるのだから、試みて欲しかった。もっとも、測定のための試料=紙は極微量でよいのだが、燃やさねばならず、断られて当然かも知れない。

ただし、注意しなければならないことがある。年代測定法には誤差がある。私は、前記研究センターの鈴木・小田両先生に尋ねてみた。その結果は、鎌倉時代のものは精度良く測定できるのだが、江戸中期以降の紙は難しい、と言われた。それに、元禄以前の紙であると分ったとしても、芭蕉真筆の十分条件は満たされないということである。もし江戸中期より若い紙であるとすると、大変なことになるのではあるが……。

▼筆跡鑑定技術

さて、私は好奇心に駆り立てられて、プロの筆跡鑑定人を取材した。根本寛氏である。氏は遺言状や契約書などの鑑定に当たっており、マスコミでも活躍している。民間では遺言状の鑑定が一番多い。筆跡心理学をも研究しており、大阪の池田小学校の犯人の文字からその性格を推察したり、芭蕉の文字からの性格診断も行ったそうだ。取材の目的は、筆跡鑑定の精度高い科学的な方法が、現時点で確立されているのかどうかを訊くためであった。

答えは否定的であった。本格的なデータベースが確立されていないというのである。たとえば、「口」という文字の場合、書くひとによって、右上を丸く書くとか、第一画が斜めだとか、最後の横棒が長く延びているとか、いろいろな特異点の頻出度を、大掛かりな調査を行ってデータベースを作らないと、真に説得力のある鑑定にはならないという。たとえば、百人にひとりしか書かないであろう得意点が三つ重なったとすると、百万人にひとりの確率ということになる。それがデータの裏づけを持って説明できれば、多くのひとを説得できる。しかし、そのような、稀少な筆跡個性のデータが揃っていないのが現状であるそうだ。

ただ、このような統計確率論的手法といえども、もし誰かが故意に、十分な訓練の後で似せて書いた場合、それをどう見抜くかが問題となる。

勿論、自分では自信を持って真贋を見抜けるが、それを、司法関係者を含む第三者に納得させることが難しい、という。現在は経験と勘で個別の文字の特異点を抽出し、じっくり解析して結論を出すのだが、この方式では、いくら自分で自信があっても、相手にその理解力がなければ、鑑定結果が割れることになるという。

また、総合的な書体の風合いなどは、とても科学的に扱うことは困難で、経験豊かなひとの眼識に俟たざるを得ない。

いま日本に五十人ほどの筆跡鑑定者がいるが、その八割は科学警察研究所の出身者で、その鑑定能力はさておき、民事事件の関係者に理解できる鑑定書をまとめるひとは少ないそうだ。根本氏の想定する高度な鑑定水準から見ると、現状は鑑定技術も伝達技術もまだまだであるという。

芭蕉筆真贋論争は、狭山事件の有罪無罪と較べても、平和な議論なのだが、まだまだひとの生身の眼が物を言う舞台であるようだ。

▼最近の知見

ここまでは平成十八年三月までの調査である。その後、私はしばらくこの問題から離れていた。ところがある日、別件で俳句結社「創流」主宰の宗内数雄氏を訪ねる機会があった。氏との会話のなかで中尾本の「芭蕉自筆本真贋説」が出てきたのである。歯に衣着せずに語る氏の話は強烈であった。あれは偽物で、俳文学会としても、定説となった自筆説を今更覆せず困っているらしい、と言うのである。私は驚いた。多くの研究者は、冷静であるべき真贋議論が、どろどろした個人攻撃的論争になることを好まず、だれも火中の栗を拾わないようだ。

氏が紹介してくれた文献は、「落柿舎」百六十九号(平成十六年六月刊行)である。私の調査から漏れていたものである。芭蕉研究の第一人者である富山奏氏が、次のように書いている。

岩波書店発行の雑誌「文学」平成十二年三・四月合併号に、この「中尾本」に関して論評した記事の中で、こうした資料の用紙に就いて、これは極めて高価な上質紙であって、「そもそも種本自体に斯様な上質紙を使用すること」は「非常識である」と評している。とすると、貧しい芭蕉にはとても考えられないことである。また、芭蕉は未完成の草稿は破り捨てることはあっても、それを上質紙に記して保存するような趣味はなかった。従って、その内容からして、これは極めて初期の(恐らくは最初の)「おくのほそ道」全巻を通して書き上げた芭蕉の自筆草稿を、その門弟が極めて忠実慎重に模写したものであろう。芭蕉を尊敬している門弟であれば、その自筆原稿を宝物として常識はずれの高級料紙を使用して模写しても不思議はない。要するに偽物だということだ。

「中尾本」の紙質については、その道の専門家が鑑定し、元禄時代の上質紙であるとの結論を得ていたのであるが、芭蕉が高級紙を使うはずがない、と断定した人はいなかったように思う。

この点はさておき、重要なのは、真贋論が「真筆」に落ち着いたと思っていた平成十六年のこの時機に、以前からの贋作説の山本唯一・増田孝両氏ならいざ知らず、学会の重鎮である富山氏がこのようなことを書いている事実である。なお、山本氏は平成十二年に逝去されていた。

これに刺激されて、私は最近の真贋論をインターネットで探してみた。驚いたことに議論がまだ燻っているのである。インターネットの記述は一般に公正さを欠くおそれがあるので、そのまま引用はできない。しかし、その記事は、奈良女子大学の井口洋教授が退官記念の講義で、「中尾本」についてチャレンジングな講義をした、とあるのである。

私は、富山・井口両氏を取材したいと思っている。しかし、この真贋論は冷静な学術論をはずれて、人間関係をも損ねかねないレベルに成り下がっているので、とても応じては貰えないであろう、とも思っている。

もうひとつ追記する。平成十八年五月二十四日の新聞に「狭山事件の石川さん第三次再審を請求」として、短い記事が出た。脅迫状を書いたのは石川氏ではないとの新証拠を、金沢大学の半沢英一助教授が提出した。「脅迫状には一筆書きされたひらがなの出現率が高かったが、石川さんが当時残した文字では極めて低かった」として、無罪を主張した。

さらに二ヶ月が過ぎた。私はひとを介して前記の井口洋氏の論文のひとつが載っている同学国語国文学会の論文集「叙説」三十三号(平成十八年)を送ってもらった。先に、「中尾本」についての講演のことを書いたが、論者の井口氏がその論のごく一部をまとめたものである。

その論点は、自筆真贋に直接触れるものではないが、「中尾本」の張り紙部分の下に書かれている本文を吟味して、その張り紙訂正が芭蕉ではなく、森川許六を含む誰かによってなされたものである、と井口氏は言うのである。筆跡鑑定以外の証拠によって推理したものであり、その推論手法を手短に説明することは、私の能力を超えているが、結論的には、
「中尾本」の『壷の碑』部分の本文では、当該の碑の高さを「七尺」となっていたが、これに張り紙がなされ、「六尺」と訂正された。このような訂正ができたひとは、それ以前に編集された許六の他の史料に同じ「六尺」という表現があるので、芭蕉以外の許六を含む誰かであろう。
という趣旨である。

氏の他の研究論文もあたってみた。「国語と国文」(東京大学、七十八巻二号)、「国語国文」(京都大学、六十九巻三号)である。その論考は、芭蕉なら書かなかったであろう誤記が存在することを論じているのだ。たとえば、『曾良旅日記』『曾良書留』『自筆句文』『猿蓑』などにある「名取郡」「左」の記載が、中尾本・天理本・西村本では、すべて「笠島の郡」「右」と記されている。「左」が正しいはずである。これを芭蕉本人の単純な誤記として良いのだろうか、と疑問を投げるのである。「中尾本」には芭蕉自筆にしては不可解な校訂が多く、また本文もそうなので、『中尾本』はおそらく『奥の細道』の現存の本の中では成立の最もはやい一異本ではなかろうかと、いうのである。

真贋論は結局迷宮入りなのであろうか? 「曾良本」は、どう考え直したらよいのであろうか? 俳文学会に、公正に白黒をつけて貰えないものであろうか。

                                        
後記 櫻井武次郎氏(神戸親和女子大学名誉教授)は平成十九年一月二十二日逝去された。大切な真筆説主張者を失った。ますます迷宮入りするのであろうか。



1 comments:

匿名 さんのコメント...

なぜか、このような簡単なことがわからないのが不思議です。中尾本は偽物です。すぐわかる方法は,俳句、と文の文字の、大きさでわかります。真蹟を見れば、すぐわかります。芭蕉は、さる蓑が、出版された時、ケチをつけています。すなわち、「書きやうはいろいろあるべし。唯さわがしからぬ心つかひ有りたしと也 猿みの能筆也 されども今少し大也 作者の名大にていやしく見へ侍ると也」[三冊子)でわかります。つまり、字の大きさに違いがあるのです。然し、中尾本には、この違いがないのです。ですから。偽物なのです。  以上