2007-10-28

『俳句』2007年11月号を読む さいばら天気

『俳句』2007年11月号を読む ……さいばら天気



11月にもなって、こんなところに目をとめるなんて、ヘンかもしれないが、表紙にある「戦後俳句とともに創刊55周年」のロゴ。5の倍数でゾロ目ではあるが半端といえば半端な「55」という数字には、何か意味があるのだろうか? ご存じの方、教えてください。

さて、大特集から。

大特集・日本のしきたりと季語 p59-

儀礼と儀式とが密接に関連するにしてもあくまで異なるものであるにもかかわらず、しばしば無分別に語られる事情に似て、「しきたり」と行事も区別を欠いて語られることが多い。この特集の15篇の各論も同様。もっとも、編集意図がそもそも、行事その他にまつわる季語へと話題を広げてもらって結構といったスタンスとも想像されるので、テーマの拡散などと野暮を言ってもしかたがない。そんななか、櫂未知子による総論「究極のしきたり文芸」が話題の広がりへの抑制がよく利き、「しきたり」の核の部分をきちんと押さえる。

俳句はモノ重視の文芸である点においてかなりユニークだが、相手に対する感謝の気持をすぐに品物であらわす国民性も多少かかわっているのではないかと思える時がある。(櫂未知子前掲)

納得性のある指摘。ただし、「感謝の気持をすぐに品物であらわす」のは日本人に限ったことではない。「感謝の気持をすぐに品物であらわさない」文化を挙げるのはむずかしい。それほどに普遍的である (註1)

総論は、いくつかのエピソードのあと、「しきたり」を「幸福を願う生活の知恵であり、人々の祈りを具現化したもの」と結論づけ、俳句を次のように「しきたり」に関連づける。

俳句はその季語と定型を柱とする究極の「しきたり文芸」であるといってもよい。季節と向き合い、折々の行事をこなし、その喜びをわれわれは一句にする。季語を面倒と思い、窮屈と思う人は(極言すれば)俳句と関わる資格はない。季語も定型も、俳句が俳句として存在するために先人が残してくれた「先例」なのだから。(同)

しきたりについての、また季語についての(肯定的)正論として読みやすく、まとまりがよい。


小川軽舟 くびきから放たれた俳人たち第11回・岸本尚毅

まず誰からも訊かれていないのに自分から白状してしまうと、私は、岸本尚毅俳句の大ファンである(あ、やっぱり要らないことでしたか?)。それもあって、たいへん興味深く読んだ。

岸本の妻の岩田由美が面白いことを書いている。岸本は「言葉で景色を追いかけても絶対に追いつかない。言葉を罠のように立てて待っていると景色の方から飛びこんでくる」と言っていたそうだ。

(…)岸本は既に見てきたように、物の存在そのものを描くことを目指す。季題がまとっているのは、岸本が消し去ろうとした意味の世界だ。岸本はそれに取り囲まれるのではなく、写生によって季題という意味の世界を揺さぶろうとするのである。

このスタンスは俳句の世界において稀なものと言っていい。季題が称揚されるとき、その(意味の)豊かさ、イメージ喚起力、情緒的な了解性にしばしば言及され、その季題の「力」を引き出した句が高く評価される傾向が強い。それはある意味では、季語への「依存」に過ぎないともいえる。季語に負荷をかけすぎないよう一句をハンドリングするという手際を超え、「季題という意味の世界を揺さぶ」る。小川軽舟のこの記事、的確な引用と的確な把握に溢れ、さまざまのことに思いが到る。岸本尚毅ファンは必読。


大輪靖宏・筑紫磐井・櫂未知子・合評鼎談11「選と句会は俳人を鍛えるか」 p221-

冒頭、インターネット句会やらの話から、筑紫氏が「週刊俳句賞」を話題として取り上げる。

『週刊俳句』関係者のひとりとして、ここで大声で申し上げる。「誠にありがとうございます!」

安倍内閣と同じで、お友達句会のような気がする(笑)。(筑紫)といった揶揄にも、にこにこと親愛をこめて「時の内閣を話題や比喩に使うなんて、懐かしい昭和の香り(笑)」と反応しつつ、「週刊俳句賞って、句会じゃないんですけどー?」と注意を喚起しておく(ただ、句会のような雰囲気もありましたね、たしかに)。鼎談の流れでしかたのないところもあるが、インターネット句会と『週刊俳句』そのものとがなんだか密接に関連するかのような印象を醸し出してしまっているのは奇妙な感じも少々。

まあ、そんなことより、ともかく、『週刊俳句』という名前を露出していただいたことが関係者としてはなによりうれしい。何度でも高らかに申し上げる。「筑紫さん、櫂さん、誠にありがとうございます!」

…と御礼申し上げたところで、ちょっと正気に戻ると、インターネットと『週刊俳句』の関係といったことも、私自身(あるいは私たち自身)、すこし整理して、それを外にわかるかたちにしないといけないかもしれない。


第53回角川俳句賞決定発表 p110-

津川絵理子さんの「春の猫」が受賞。あらためて「おめでとうございます」とお祝い申し上げます。

余談めくが、この11月号表紙にある「9年ぶりに30代女性が受賞!」の感嘆符付きの文言を、どう受け止めていいのか。読者にとってなかなか複雑でコクがある。


(つづく、かも)


(註1)俳句言説における「日本」「日本人」
一般論へとやや話題が逸れるが、俳句に関する言説には、「日本の」「日本人の」という観念があまりに大きくアタマに覆いかぶさりすぎる傾向が強い気がしている。わざわざ日本と限定する必要のないことのほうが多い。多くの場合、「人間の」と置き換えられる。つねづねそうした俳句の言説を奇妙に思っているが、俳句を「日本」「日本人」と結びつけずにはいられない性向は根強く広く存在するようだ。この特集の各論部分に、こんな一文があった。

日本の四季は春夏秋冬に分かれているが(…後略…)(大場鬼奴多「美しい庭園」)

あのー、日本でなくても、四季は春夏秋冬なんですけど?

言葉尻を拾い筆の滑りを誹るのが本旨ではない。〔日本→四季→季語→俳句〕という思考のセットが、俳人全般に染みわたっていることのひとつのあらわれであると言いたいのだ。

季節のない国・地域は、ない。季節に対する思いや関心の存在しない文化は、ない。にもかかわらず、俳句の言説の多くが、「季節」を日本の、「季節感」を日本人の「特徴」のように扱う。このことは稿を改めたいが、じつに不思議なことである。



7 comments:

匿名 さんのコメント...

鮟鱇です。天気さん、こんばんは
 俳句言説における「日本」「日本人」をめぐって、ひとこと。
 私の先祖は江戸時代、代々大番に列し、江戸城の廊下に夜通し坐って小便を堪える生活を200年以上続けていました。彼らが骨身にしみて見上げた月は冬の月であって、秋の月ではありません。また、年越しそばは、町方のシキタリだから無縁、祭りの神輿かつぎは、町方のやることだから、見に行くこともご法度。
 俳句=日本の四季論は、そういう無粋な日本人が江戸時代にはいたことをまったく考慮していませんね。私の家の玄関の花は、国産ではあるがハイビスカス、家内が買うのはいつも、国産ではあるが、洋花です。和花は仏壇のみ。お墓にバラを供えることもありますけど。
 俳句→日本人論には、大きな弊害があります。芭蕉=日本人、私=日本人、ということで、芭蕉と私は同胞だと考える俳人、私のまわりにもいます。でも、忘れてはいけないのは、芭蕉の手柄は芭蕉のものであって、「日本人」などという得体の知れない総体のものではないということです。日本人がみんなで芭蕉を盛りたてて、芭蕉を世界の芭蕉にしたのではありません。
 俳句は個々の俳人が作るものです。その俳人が日本文化の中心にいようと縁辺にいようと、そんなことはどうでもよい。もっといえば、その俳人の個々の作品が問題なのであって、それぞれの傑作にどれだけ「日本であること。日本人だること」が貢献しているかなどという論を立てることは、作者に対して失礼だ、とわたしは思うのですが、俳句=日本論は、根強いですね。
  有蝴蝶,梦尋唐土,討俳諧。(中華新韻三皆の押韻)
  原玉:唐土の俳諧問わんとぶ小蝶  芭蕉

匿名 さんのコメント...

ことばがあれば、文芸がある。それだけの話です。日本だけの事情ではありません。

季節も同様。日本だけの事情ではありません。

〔日本-季節-季語-俳句〕は、阿呆な俳人の妄言です。

匿名 さんのコメント...

鮟鱇さんのご指摘、前回の季語についてのコメントに引き続き、興味深く拝読しました。
深く共感いたします。

>芭蕉の手柄は芭蕉のものであって、

その通り

>「日本人」などという得体の知れない総体のものではないということです。


「日本人」という得体の知れない総体、という捉え方にも共感。少し俳句から話がずれるようですが、最近「日本が好き」「日本を誇りに思う」という言説を身近に聞きます。彼らが指す「日本」は結局、都合よく作り上げたファンタジーのように思います。日本の先人の文学・芸術を世界に誇るのもそう。「武士道の美学」などはその最たるもの。

>俳人の個々の作品が問題なのであって、それぞれの傑作にどれだけ「日本であること。日本人だること」が貢献しているかなどという論を立てることは、作者に対して失礼

こういう論は、本当に作品がさらけ出しているものを誤りますね。

季語を中心とする俳句にも、既成の美意識で塗り固める弊害があるのでしょう。もちろん、俳人次第・使い方次第なのですが。
私は縁あって宮本常一の著作に触れる機会がよくあります。彼は柳田國男とは別系統の民俗学者です。山間の村々(今は殆ど限界集落)に暮らしていた大正・昭和初期の人々の語りを丁寧に残しています。それを読むと、「日本の伝統」のファンタジーをまざまざと感じます。

鮟鱇さんは、江戸時代までお家柄を辿れるのですね。自分とは何か、世間で言われている伝統とは何か、振り返る感覚が自然に身についていらっしゃるように思えました。(不躾でスミマセン)
>年越しそばは、町方のシキタリ
とても面白い。

一方で、現代の人は、まぁ誰でも一度は年越しそばに触れる機会があると思います。一人ひとりに思い出があれば、それは句になることだと思う。(もちろん思い出がなくても、言葉の持つイメージだけを一人歩きさせて句をつくることもできますが)
ただそれはそれは「日本人てそば食うものらしい」という画一的な考えから生まれたことかもしれない。
季語を勉強して句を上達させようとしても、「日本とは~というものだ」というファンタジーをもとに自分のイメージを重ねていっても句景は浅くなりますね。
(もっとも「日本論」に限らず「○○は~いうものだ」という捉え方は、俳句にはご法度ですね)

匿名 さんのコメント...

天気さん 鮟鱇です。
 阿呆の相手をしているとこちらも阿呆になってしまうのですが、深海の底で漢語俳句などをやっていると、そこは「日本の領海」であるという陸の人らの声が聞こえてきて、うるさくてかなわないのです。鮟鱇が食うべきは、塩分の濃密な海の魚。だのに、たまたま流れてきた俳句などという淡水魚を少しばかり食ってしまったために、「日本の」と言う言葉が、腹のなかから聞こえてくるようになってしまった。〔日本-季節-季語-俳句〕論に私が苛立つのは、漢語俳句のおかげで、少し陸地に近付き過ぎているせいかもしれません。
 さて、阿呆な俳人にも秀句があります。そこを、秀句は、阿呆な俳人でなければ作れないかのように説くのが、〔日本-季節-季語-俳句〕論。私が作るのは漢語俳句ですから、関係ないといえば関係ないのですが、日本=俳句とされてしまっては、愚劣な立論で日本の俳句の歴史が恣意的に歪められると思えて、面白くない。〔日本-季節-季語-俳句〕論は、日本に生まれてよかったと考えるようになった高齢者には俗受けする論であるでしょうし、俳句は、そういう大衆の文芸でもあるのでしょうが、日本の俳句の歴史に節目をつけてきたのは、そういう大衆性ではありません。私も60歳を越えて「俳句の富」を盗もうと思うようになった年寄りですが、日本=俳句論に騙されるわけにはいかない。
 芭蕉の「おくのほそ道」は、行き倒れ覚悟の旅です。〔日本-季節-季語-俳句〕などという阿呆な句観のもとでそれが挙行されたとすれば、芭蕉の愚挙に他ならないでしょう。持病を抱えていた子規に、芭蕉の真似ができなかったことは確かです。しかし、彼にとって幸いだったのは、まわりに短歌を「国歌」であると権威付けている歌人がいたり、俳句のしきたりに妙に詳しい老人が尊敬される月並み句会があったりで、そのあほらしいことどもと闘いながら、病床にありつつも志を高くできたことです。芭蕉にしても子規にしても、生きている間に自分に何ができるか、という問いが核心にあったのであって、〔日本-季節-季語-俳句〕論の多くの支持者の身辺が、まっとうな市民生活のなかで常に安全が保たれている状況とは、大いに異なっているのです。〔日本-季節-季語-俳句〕論の俳人には、芭蕉や子規の覚悟がない。個々の俳人にはその覚悟があっても、〔日本-季節-季語-俳句〕論がそれを駄目にするのです。
 なぜなら、個個の俳人は早晩滅ぶが、日本はそれと較べれば長生きだからです。肉体とともに早晩滅びる自らの句観は、「日本」という胎内に身を置く限りは、身の安全を確保し続けることができる、だから覚悟が萎えるのです。
 〔日本-季節-季語-俳句〕論は、体の良い寄らば大樹の陰であったり、お友達クラブの社交であったり、だと思います。そこで、

>安倍内閣と同じで、お友達句会のような気がする(笑)

 は比喩としても揶揄としても、何をかいわんや、ですね。「週刊俳句」は、政権のもとに集っているわけではないし、そもそも権力や名利を目的に集うということがあるようにも思えません。「週刊俳句」の編集のどこに「お友達」の共通項があるのか、わたしにはわからない。わかるのは、くだんの鼎談での「(笑)」は、笑わせた人にとっても笑った人にとっても、「お友達鼎談」であることへの自嘲であったのだろう、ということです。仲間うちでは侃々諤々の議論ができず、和気藹々とお茶を濁しておいて、他人様を「お友達句会」と揶揄するとはなにごとか、です。この種の風習、人前ではモノが言えず、外国人とまともな議論ができずに過ごした日本人が、日本人だけで固まった時によく見かけるもので、自分たちだけにわかる日本語で存分に溜飲をさげるための、隠微な笑いに他ならない。
 「週刊俳句」は、もし句会であるとすれば、編集者が声をかけなければ来ない人らの句会ではなく、みずから進んでやってくる「無党派」の句会だと思えます。そこで、俳人のみなさんには一人一人にそれぞれの顔があることが、読者の私に伝わってきます。わたしは、「日本の俳句」を読むためにこのページを拝見しているのではなく、俳人のみなさんの個個の俳句を読んでいます。それがいい。

匿名 さんのコメント...

asimoさん
 コメントありがとうございます。
 「季語」を俳句が発明した一個の詩法と考えれば、個々の俳人のみなさんがそれぞれに柔軟に取り扱えばいいのですが、必ずそれを用いなければ俳句ではないと説かれると、なぜか私の頭はぶち切れてしまうのです。
 私がいつもケシカランと思う「季語」観は、実は虚子とホトトギスによって誇張された「季題」で、それが日本人を欺くためになされた俳句の歪曲であることが私には許されないのです。
 その歪曲のキーワードが「日本」。われわれが日本人になったのは、明治維新以後のこと。芭蕉や蕪村や一茶が、行き掛かりで四季を詠むことはあっても、それが「日本の四季」などという国粋的なものであったり、国民的なものであったはずはありません。漢学と対抗した本居宣長の短歌にはそれがあったかも知れませんが。
 明治の「ご一新(私の叔母はそういってました)」までは、たとえば私の母は伊予の国の者、私の妻は長州の者、そういう意識がしっかりとあったと思います。そして、殿様は知っていたかも知れませんが、京都におわす天皇陛下はまさに雲の上。旗本の六男だったわたしの曽祖父は、薩長に対抗して上野の彰義隊に加わろうとして、お前はまだ子供だから足手まといだと諭されて自重を余儀なくされました。そして、その恨み、今こそ晴らさんと榎本武揚に随って函館へ渡り、明治政府の軍人となっていた五男の兄と戦場で遭遇しました。そして、何を馬鹿をしているかと一喝され、東京に連れ戻された次第。そういう曽祖父にとって「日本」は、私たちが抱く日本と同じものであるはずがありません。明治が「日本」を作ったのです。
 もちろん私は、そのことが悪いとは思いません。ただ、その歴史的事実に立てば、〔日本-季節-季語-俳句〕論は、明治政府が進めた「日本化」のプロパガンダと無縁ではなく、俳句そのものの歴史や伝統とは切り離すべきものを、時流に乗って上手に混同していると思います。芭蕉や蕪村がそれを説かれれば、ただただ目を白黒するだけでしょう。芭蕉や蕪村にしても、〔日本-季節-季語-俳句〕という文脈のなかで作句をしていたわけではなく、もっともっと自分の俳句を追及していたはずだからです。
 子規。もし彼があと20年生きていたとしたら、今の俳句はどうなっていたか、と思うことは、わたしにとって楽しい空想です。根岸の小さな家で、あと20年、病床にあって自分の庭の四季だけを見て暮らす。一方で、虚子とホトトギスが〔日本-季節-季語-俳句〕論の基盤を固め、その影響力を強めていく。一方に、自分の庭だけを見て過ごす子規がいる。そういうなかでの子規が、〔日本-季節-季語-俳句〕の運動論に、どこまで呼応できたでしょうか。〔日本-季節-季語-俳句〕論は、広く日本の自然を楽しめる健康な人間だけが楽しめる俳句論であるし、日本人みなお友達論です。そこで、子規が排斥した月並み俳句とどこがどう違うのか、というところがある。だから、子規が虚子とホトトギスが進めている方向に同意したとは私には思えません。もっと別の俳句を、きっと考えたに違いありません。もしかすると、碧梧桐と組んだかも知れない。
 俳句に必要なのは、反骨であり、その結果としての反体制であったり、隠遁であったりだと思います。〔日本-季節-季語-俳句〕論は、身体健康、お金があって旅行も自由に楽しめ、俳句を作っていても自分自身の安全は確保したいと考える人らの俳句観であり、年寄りの道楽には向いていますが、若い人たちが学ぶべきものではありません。
 asimoさん、みなさん、〔日本-季節-季語-俳句〕論を過去の文化遺産に葬り去るいい句をぜひ作ってください。

匿名 さんのコメント...

とても勉強になりました。ありがとうございます。〔日本ー季節ー季語ー俳句〕というイメージのセットはあまり関心をもってすらいませんでした。月並み俳句に目を向ける時間があったら、もっと見なければ、読まなければならないものがたくさんあると考えておりましたので。

明治期に「日本」が作られたというのはとても首肯させていただきますところです。美術行政の世界でも我が国が世界に提示できる「文化」というものの一環としていわゆる美術だの工芸だのというものが生み出されていきました。もともとは見世物や生活雑貨であったものがいつの間にやら「美術」や「工芸」という部類に無理矢理はめ込まれて、そのうえにさらに「日本」なるものが貼り付けられました。東京美術学校の設立は美術行政史や近代美術史において重要な事項です。この学校は元々日本画科しかありませんでした。岡本天心が国粋的な人物であった点が大きいです。しかしそこでも「日本画」とはなんだ?ということがまだ固まっていない状態でした。つまり明治期において突然お上からつきつけられた「日本」なるものに国民全員が右往左往していたように思います。

俳句もそうなのですね。虚子、ホトトギスの「罪」と呼んでは重過ぎるのかもしれませんが、月並みな句が量産されるきっかけは〔日本ー季節ー季語ー俳句〕というイメージの連鎖なのかもしれません。

天気さんの仰るように、ことばがあれば文芸が生まれる。ただそれだけのことに「日本」だの「四季」だのがごちゃごちゃとくっついてしまったのかもしれません。

妄言失礼いたしました。

匿名 さんのコメント...

鮟鱇さん、丁寧なコメントありがとうございます。子規のお話など、私もつい想像をめぐらしました。

そしてこの欄、さわDさんのコメントも含め、とても面白いですね。
こういうのが本来の目的を離れて大好きな私は、思わずはまってしまいそうです。

けれど、ひとつ、さすがの鮟鱇さんに耳の痛いことをおっしゃっていただきました。

俳人なら、俳句をつくろう

ということですね。
私も作っているのですが自信がなくゴニョゴニョ……というのはさておき。

もともと、単純に俳句が(そして他の芸術も)好きな子持ち主婦です。
俳句→日本人論を過去のものにとは銀河を旅するような野望ですが、一人ひとりが丁寧に自分と周囲の環境を見て考えて俳句を作るのは豊かなことですね。
そういう風につくっていきたいなと思わされました。
ちなみに俳号、そらもと、としています。


・わたくしは黄色人種花野行く (そらもと)

ちょっとロマンチック過ぎますか……

・わたくしは黄色人種柿かじる(そらもと)

後片付け後の食卓で柿でも食べながら、句作に励もうと思います!