2007-12-30

『俳句』2008年1月号を読む さいばら天気

『俳句』2008年1月号を読む……さいばら天気



1月号は1年のはじめ、ということで、連載、合評鼎談のメンバーなどが一新。

岸本尚毅 名句合わせ鏡(1)ディテールについて p52-

映画「ヒットラー~最期の十二日間」(2004年/ドイツ=イタリア/オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督)の「滅びの美学」から、分析的認知と統合的認知へと話題が進みます。こう書くと堅苦しく難しそうですが、要は、ざっくり描くか、細かく描くか。

そのうえで、ディテールの伝達力に優れた〈映像〉とそれに乏しい〈言葉〉〈俳句〉とが対照されます。

ここで俳句の取る態度が二つに分かれます。ディテールを徹底的に捨象するか。それとも乏しいディテールを最大限に活用するか。

〈ディテール捨象→統合的認知〉と〈ディテール活用→分析的認知〉のそれぞれに、例句が挙げられますが、ここの例句の部分、かなり楽しめます。虚子、草田男、石鼎、立子、素十あたりは、誰がこの記事を書いても出てきそうなところですが、ほかに西山泊雲、野村泊月、佐野青陽人、鈴木花蓑、湯浅桃邑と、懐の深い参照です。

シリーズのタイトル「名句合わせ鏡」から察するに、なんらかの二項(対立)を立てての詞華集(アンソロジー)ということになるのでしょう。一年続くとして、12セットの二項対立。どんな例句が並ぶのかという興味とともに、そっちのほう、つまり12セットがどんなラインナップにも興味がわきます。


石田郷子 俳風フィクション 今日も俳句日和~歳時記と歩こう【1月】 p48-

有力作家はしばしば、誰の意図というのではなく、スポークスマンの役割を担います。それはツラいことではないのだろうか、などと思ってしまいます。

「誰が決めたのだ、俳句が年寄りの道楽だなんて」との一文、また盛り込まれた内容からしても、この記事の狙いが「俳句って楽しいですよ」=「俳句の宣伝」であることは確かなのですが、初回ということもあってか、「楽しみのアイテム」がぎゅうぎゅうに詰まり過ぎている感じです。

だから、というのでもないですが、記事の企図するところよりも、むしろ(さっきの話ではありませんが)ディテールに目が止まりました。

煙草をふかしながらページを繰っていると、あるわ、あるわ、今見てきたばっかりの季語がずらりと並んでいる。

え? 書き手の石田郷子さんって、愛煙家なんですか? とちょっと吃驚。なんかイメージ(先入観)との距離があって、意外な感じです。

それはさておき、俳句の楽しさを伝えようとするときのツラさ、最初に言った「スポークスマン」の律儀で真面目な言説を聞くときのツラさを感じてしまいました。「俳風フィクション」のこのシリーズ、よほどぶっちゃけないと、ツラさが募っていくばかり、という気がします。

この手のものは、それなりの技術を駆使するか、あるいは、ぶっちゃけるか、それしか読者に届く道はないように思うのですが、どうなんでしょう。


特別座談会 こう使えばうまくなる!私の歳時記活用法 p69-

鷹羽狩行、茨木和生、小林貴子、片山由美子の4氏による座談会。「こう使えばうまくなる!」とタイトルにありますが、これは、「今年も実用ノウハウで行きまっせぇ!」という『俳句』誌の宣言みたいなもので、実際には座談の内容に実用色は薄く、俳句に詳しい人たちがおしゃべりすれば、こうなる、といった記事。話題が豊富で、楽しめます。

  *

ちなみに、「ふだん『俳句』誌を読まないが、たまには買ってみようか」という方に、この1月号はオススメしません。読んで楽しいページは、いつもより少ないように思います。正月のテレビが退屈なのと似ているかもしれません。



9 comments:

匿名 さんのコメント...

俳誌の新年詠というのは鬼も笑う二ヶ月くらい前に書いてる左巻き俳句ばかりだから、詠む方も読む方も間抜け顔になるしかないので読む必要はないが(3月号に新年詠載せるわけにいかないから、これは是非無いけどね)、天気さんの挙げた三篇はとても面白かった。石田郷子さんのは「フィクション風」と銘打ってあるので、イラストの小林木造さんが主人公といった目で読まないと。ただし、最後の【持ち替へて破魔矢の鈴の鳴り出だす】はボケ防止に俳句を始めたばかりの団塊のオヤジが詠んだ設定にしては上手過ぎ。
新連載も含めて三篇面白い読物があるなんて、俳誌では奇跡のようなもの。わたくしのような定期購読者が言うのだから間違いないよ(笑)。たまには買っていい1月号です。

民也 さんのコメント...

俳句のディテールは、読者の脳みその中にある、というのが僕の作句の原点。だから、いかに読者の中にあるディテールを刺激できるか、ということばっかり考えて句を作っているんだけど。

一方詩(ポエム)とは、作者の脳みその中のディテールを読者に伝えるメッセージ、というのが定義なので、俳句は詩である、という説が抱え込んでいる露骨な矛盾が、最近とても面白いっす。

俳句が先か、詩が先か。蛙の卵が先か、金のガチョウが先か。金のガチョウは、蛙の卵を産むのかね? みたいな感じ。ちょっとした思考遊戯。

俳句は短詩型である、と言い切れる人は、この矛盾、というかズレを完璧に解決しているんだろうな。お見事。

匿名 さんのコメント...

矛盾でしょうか? 読者を刺激するには、その為の言葉の厳密な選択が作者の側でなされ、その選択のためにはすでに作者の中に、読者を刺激すると想定される意味なりイメージなりがなければ、言葉の選択自体が不可能なのでは。そして、作者の中に想定される意味なりイメージなりが、「作者の脳みその中のディテール」にあたるのでは。詩の素因となる感動が、作者内では漠とした感覚・感触・イメージ・意味の混合体(だから、詩において、作者の脳内のディテールを伝えることはなかなか困難だと思いますが)として存在するにしても。

匿名 さんのコメント...

2つスルーして。
(ごめんなさい。参照先=当該記事の論旨を無視して、言葉尻=ディテールからの連想で、言辞を弄んでもしかたないので。それでおもしろいならまだしも、とことん上滑りまくってますし)


猫髭さん、どうもです。

>イラストの小林木造さんが主人公といった目で読まないと。

そう読ませるためには、文中に記した「それなりの技術」が必要、ということです。
主語をどう定位するか、それは「フィクション」の要諦。
そこを補うのが「挿絵」ではあまりにも悲しい、という話でもあります。

ただ、この手のものは、読者の趣味嗜好によるところが大きい。

猫髭さんはおもしろくお読みになった。
私は、つまらなかった。ツラくも感じた。…ということで。

匿名 さんのコメント...

はい、天気さん、それで結構です。

買う、買わないは読者が立ち読みで決めればいいことですんで。
もっとも、これだけ三篇話題にしたら、それだけ立ち読みして買わないか。

匿名 さんのコメント...

 民也さん、明けましておめでとうございます。獅子鮟鱇です。
 民也さんと匿名さんのやりとり、面白いですね。匿名って、言葉だけあればいい、それをものする人物はいらない、という立場でしょう。そのいう立場の言葉が、作者のディテールを主張し、言葉がだれのものであるかを明示している民也さんが、俳句における作者のディテールより言葉そのものが読者に生むディテールを注視している。
 詩は、私見ですが、伝統的には作者ができるだけ作者のディテールを読者に伝えようとするものです。少なくともシュールレアリズムと象徴主義の一部を除く西欧詩はそうだし、中国の古典詩もそう。詩言志。詩人は、作者の心の動き(=志)を人に伝えようと詩を詠みます。
 つまり、日本の詩歌にある「言霊」という観念は、「詩」にはない。
 日本の俳句は、言霊主義。作者にとっても読者にとっても、極論すれば言葉だけがあって、それがディテールを膨らませてくれればいい。そういう作り方を俳句はしています。作者が何をいわんとしているのかわからない句がたくさんあります。つまり、主張しないからそうなる。
 一方、詩は、伝統的にはですが、「主張」です。詩に理屈が多いのもそのためです。
 こう言えば、詩ってそんなものじゃないという日本人、きっと多いでしょうね。でも、「詩」という言葉は、本来中国のものです。日本の詩歌が、日本語の作品において「詩」という言葉を使うようになるには江戸時代、中国の「曲」をまねて蕪村が俳詩を作ったり、漢詩から想を得て押韻もする仮名詩を作るようになるまでは、日本語の「詩」なんかなかった。
発句を作る俳人は、発句を作っていたのであって、詩を作る意識はなかった。だから、発句には詩にない長所があったし、発句をあえて詩であるという必要もなかったのではないでしょうか。
 民也さんの着想は、詩と決別して俳句を作ることをお考えのようにも思えます。今の時代、もし俳句と詩がごちゃごちゃになって似たような作品が大量に再生産されている状況にあるのだとすれば(以上、「もし」ですよ)、「俳句は世界最短の詩である」などなどの発想が何も生み出さないのに対し、民也さんの俳句と詩の違いを考えるお考えは、新しい俳句を生み出す原動力となるのでは、と小生期待しています。

民也 さんのコメント...

匿名さん、獅子鮟鱇さん、天気さんへ。
あけましておめでとうございます。

匿名さんと獅子鮟鱇さんへの返事は「俳句の可能性」という記事にして、「週刊俳句」第37号の後記にコメントしましたので、よかったらそちらを読んでください。

天気さんへ。
僕の当欄の前回のコメントは、紹介記事にあった岸本尚毅氏の「名句合わせ鏡(1)ディテールについて」(『俳句』平成20年1月号)の全文を読んでみて、俳句実作者の立場から、自分はディテールについてこう考えて実作している、という感想文をコメントしました。ただ、コメントの後半は、まだ読んでいない岸本尚毅氏の、未来の記事に対する感想になってしまっているのが、失敗でしたね。

岸本尚毅氏は、連載記事の第一回目に、映像と言葉を対比することで、いきなり俳句の本質に迫る「ディテール」を持ってきた。だったら、いずれ連載のどこかで俳句と詩の対比(両者の似ているところ、同じところ、違うところ)にも触れるに違いない、と踏んだのですね。

僕は、岸本氏が俳句をどう捉えているかを知るいい機会だと思っているので、連載の今後を楽しみにしているんですよ。

それから、『俳句』の別の連載記事、石田郷子氏の「俳風フィクション 今日も俳句日和」。今の時代、俳句が本来備えているフィクション性がかなりおろそかにされていますが、石田郷子氏の連載記事がそれを思い出させてくれるきっかけになればいいなと思いましたね。だから、石田氏には、もう好き勝手に連載で遊んでほしい。連載第一回の内容には拘らずにね。

以上です。

匿名 さんのコメント...

民也さん、今年もよろしくお願いいたします。

最初のコメントの後半はともかく、前半もまた、参照(岸本氏の記事)から離れた展開になっていると思ったのです。

「俳句のディテールは、読者の脳みその中にある」は民也さんの自説だとしても、くだんの記事は、「あらゆるディテールはあらゆる読者(だけでなく作者も含めて)その頭の〈外〉にある」との前提と読みましたから、また別の議論となります。

第37号の後記へのコメントは、その「別の議論」としておもしろいかもしれません。

分析的認知と統合的認知とは対照であり補完なわけです。脳内の意味なりイメージは、当然ながら(脳の外の)世界とイコールではない。脳は鏡でも感光紙でもない。分析と統合と両方が(あるときは同時に)はたらいている。

分析的な表現(詳細)ではなく統合的な表現(ざっくり)でも、ディテールが伝わったりするという事実(これが第37号の後記へのコメントろ関連する事柄でしょうか)は、「それが人間なんだもん」というくらいに当然すぎる事実です。岸本氏のこの記事は、この「当然」を、例句にていねいに当てはめた記事だと思いました。

 *

詩と俳句のことは、さあ、このさき岸本氏のシリーズでは、どうなんでしょう? ただ、「詩」というのは、何をさすのか、その場そのときその人によって、いちいち曖昧な語です(それでいつも、ただ「詩」と言われても困っちゃうのです)。

広義の詩(詩情・ポエジー?)は、俳句のような韻文にはどうしたってついてまわるし、狭義の詩(文芸分野のポエム)なら、俳句は、無縁でもいられます。

匿名 さんのコメント...

新春若手競詠詠んで

箱振ればシリアル出づる寒さかな
ノートパソコン閉づれば闇や去年今年
弾初のギターアンプやぶうんと鳴る    榮 猿丸

シリアルの乾燥した音がカシャカシャ鳴っている。
日本人にとって実に無味乾燥な食べ物。

パソコンの奥に広がる無限の世界も電源を切ってしまえば永遠の闇に塗りこめられる。

「ぶうんと鳴る」が弾初の蠢動のようで実感が伝わる。

最近、思わず振り向きたくなるような美人や美男に出会わない。
たとえ、化粧やファッションで一時的に目を惹くにしても・・・ようやくそんな作品に出合えたような気がする。
作家、辻仁成を思わせるようなナルシスティックな香りがする作品に惹かれた。