2010-02-28

真説温泉あんま芸者 第2回 季語が生み出すアパルトヘイト さいばら天気

真説温泉あんま芸者
第2回 季語が生み出すアパルトヘイト

さいばら 天気



前回(第1回)で「無季でいいじゃないですか」と書きました。でも、それだと「俳句と認めない」という方がいらっしゃることは存じております。「無季でいいわけねえよ」と。

無季俳句へのスタンスについては、次の3つに整理できるのではないでしょうか。

a 無季俳句否定派 「無季なんて、俳句じゃねえよ」
b 無季俳句容認派 「自分では作らないけど、無季もあっていいのでは?」
c 無季俳句推進派 「はい、無季、つくります」

このうち「B」の人はかなり多いと思います。ただし、どのくらい無季俳句の「味方」かで、程度の差があります。

aに近いb=無季俳句に関心はないけど、「ダメ」と言うのは偏狭だしなあ。
cに近いb=無季で、いい句がたくさんあるじゃないですか。

このふたつの人口比率はよくわかりません。意外に前者が多いのかもしれません。

で、この際、前者はa「否定派」に、後者はc「肯定派」に含まれるものとして、2つに整理し直してみましょう。

A 無季俳句否定派
B 無季俳句肯定派

さて、この2つのあいだに横たわる溝は、きわめて深いように思います。前回の有季認定における「厳格派」と「寛容派」(スンニ派とシーア派)のように「なんとなくは共生できる」といったものではない。いわばアパルトヘイトです。

拒絶は、「無季俳句なんかとは同じ場所に住めない、電車もレストランの席も別にしてくれ」と、無季俳句否定派のほうに強いように思います。「b 無季俳句容認派」は、有季でも無季でもどっちでもいいわけですから、いっしょにいてなんの不都合もない。「隔離」を望んでいるのは否定派で、例えば「無季の句には『俳句』とは別の名称を与えるべき」といった隔離政策を唱える人もいます。

で、私が思うのは…

アパルトヘイトを撤廃して、否定派と容認派(積極派)が仲良く暮らすことはできないのだろうか?

…ということです。

こんなことを言い出すのは、クリント・イーストウッド監督『インビクタス~負けざる者』を観たばかりだからかもしれません。


いや、しかし、もしかしたら、「アパルトヘイトのままでいいではないか」とおっしゃる俳人さんも少なからずいるでしょう。でも、ほら、「仲良き事は美しき哉」(武者小路実篤)。

どうすれば仲良くなれるのか。

ひとつ、解決策としては、無季俳句否定派が寛大になることです。有季俳句(という言い方はヘンですが)はすでに俳句として権利を確立しているのだから、「自分の信じるものの以外は俳句ではない」などと考えずに、寛大になればいいのです。

同時に、無季俳句肯定派は、これまで虐げられてきた歴史のことは水に流し、否定派への怨念に捕らわれないことです

つまり、お互いを許す心、です。

以上は、映画『インビクタス~負けざる者』を観て思いついた解決策。これ、新興俳句その他の俳句史をあえて無視しての提言です。



季語とは何かについて、いろいろなことが言われます。「約束である」という答えも、そのひとつ。「ルール」という言い方もされます〔*1〕

私自身、無季肯定派ですが、「約束」という言い方にも、「ルール」という言い方にも首肯します。そういう言い方もできるだろう、と。

私が考えを簡単に言うと、

季語は約束でありルールである。そして、約束もルールも破られることがある。

…といった感じです。

「季語が約束・ルール」という部分は、無季俳句否定派の人ときっと同じ意見でしょう。でも「破られる」という部分が違う。

無季俳句否定派とは、すなわち「約束を守らなければ絶対にダメ」というスタンスです。でも、約束は、しばしば破られるものです。恋愛とかを思い出してみてください(「いつまでも愛してくれるって約束してくれたのに!」)。

あるいは、無季俳句否定派とは、「ルールを破っては絶対にダメ」ということです。でも、ルール違反を折り込み済みのゲームはたくさんあります。わかりやすいのがプロレスです。「季語を入れなさい」=ルール=首を絞めるのは反則。首を絞めるレスラーもいる。

もちろんアマレスで首を絞めたりしては絶対にダメです。でも、俳句は人に見せる(読んでもらう)ものですから、アマレスよりプロレスに近いと思いますが、いかがでしょう。

(無季俳句否定派の皆さんへのお願いのような書き方になっていますね)

で、ここがちょっとややこしいのですが、私は、ルールも約束も守らなくていい、と言っているのではありません。ルールも約束も守るべきなのです。守るべきであるからこそ、ルール・約束です。季語というルール・季語という約束も。

ルール・約束は、守るべきだけれど、しばしば守られない。それが世の中です。

このとき、「そんなの世の中じゃない」という言い分が、いかに聞き分けのない子どもっぽいものか、誰でもおわかりになると思います。



ところで、『藤田湘子全句集』(角川書店2009年4月)に収められた6270句、このなかに1句、無季の句があります(人から聞いただけで自分で確かめてはいませんが、一部ではよく知られることらしいです)。

   死ぬ朝は野にあかがねの鐘鳴らむ  湘子

最後から4句目。「無季」の前書があります。

藤田湘子に無季の句が、たとえ1句のみとはいえ、存在することに少し驚きました。

湘子は、『実作俳句入門』のなかで、こんなことを言っています。
定型、季語、切字の三つが揃うことによって、俳句が俳句として十全の力を発するのです。この点をわかりやすく書くとすれば、
 五・七・五 前提
 季語 約束
 切字 手段
ということになるでしょう。(『実作俳句入門』〔*2〕
季語は約束だと断言している湘子が無季の句をつくった…。

「ほら、湘子だって、季語という約束を破っているじゃないですか。無季俳句容認だ」

そう言いたいように聞こえるかもしれませんが、ちょっと違います。

この無季句「死ぬ朝は野にあかがねの鐘鳴らむ」は、季語の尊重、それも生半可ではない尊重があるからこその無季句と言えます。だって、自分が死ぬのがどの季節なのかなんてわからない。したがって、そこに季語をあてがうことなどできない。季語というものへの、この覚悟は壮絶です。

湘子は、無季の句をつくりながらも、季語という約束を守り通したわけです。

無季俳句否定派には、季語/季題の尊重、季語は俳句になくてはならぬものという考え方がありますが、湘子のこの無季句を見て、

無季俳句否定 ≠ 季語の尊重

…と思いました。このふたつはイコールではないのです。

無季俳句否定派に、「無季俳句は認めないのは、季語を重んじるからこそだ」(無季俳句否定=季語の尊重)という論拠があるとしたら、そこのところ、ちょっと再検討してみるといいかもしれません。

季語をそれほど尊重もせず便利に使っているだけなのに、無季を認めない、というのであれば、まるで迫力を欠いた否認ということにもなります。



もうひとつ、話題を付け加えると、私が無季肯定派なのは、俳句というもの包容力・包摂力の大きさを信じているからでもあります。

季語に限らず、「なんでもあり」に希望を感じてしまいます。

麻雀でいえば、「ありありルール」のほうが幅が広がり、コクが深まります。「なしなしルール」にはツキの勝負へと陣地を狭める働きしかありません。

ヘンな譬え。


【補記】
ここで「季語」と言っているのは、有り体に言えば「歳時記に載っている語=季語」といった程度のざっくり観。実際には、かなりややこしい問題を含みます。
  参考≫ひとりのおっさんが好きに決めた部分 西村睦子『「正月」のない歳時記』(上田信治)
しかしながら、現状の無季俳句否定派vs肯定派のアパルトヘイトは、その程度ざっくりした季語観の下にあるわけですから、話に支障はきたさないと判断しました。

〔*1〕 例えば、「季語は、やっぱりルール」:胃のかたち
〔*2〕 『実作俳句入門』立風書房(新装版)1993

2 comments:

猫髭 さんのコメント...

わたくしはcに近いbの無季俳句容認派「自分では作らないけど、無季もあっていいのでは?」です。

わたくしの中には「俳句を詠む人」と「俳句を読む人」が居て、前者は「有季定型客観写生花鳥諷詠多作多捨」遵守です。定型や季語はルールというプロシジャーではなく、俳句の原理ととらえています。したがって、原理なので破るも破られるもない。これは、わたくしが「余生の時間」に入った老年なので新しい俳句にチャレンジする志も体力も時間も無いためです。

後者は、「多読他憶」で、無季だろうが口語だろうが非定型だろうが100%容認です。表現にタブーなどねえよという立場です。橋本夢道、藤後左右、高柳重信、加藤郁乎、阿部完市、三橋敏雄、池田澄子はじめ、全句集を溺愛している俳人数多。ジャンルを問わず、面白ければ何でもありという書痴の世界ですね。

まるでジキルとハイドですが、仲良く共存しています。

以上は個人的な立場ですが、俳句史上でも、「ホトトギス」が無季俳句を絶対に容認しないと考えているなら、それは事実と違います。「ホトトギス雑詠全集」には「無季」の項目があり、

我に似し人を気おひてけなしけり 清(昭和5年)

祇王寺の留守の扉や推せば開く 虚子(大正14年)

といった虚子自身も無季の句を選んだり詠んでいるからです。

内藤鳴雪の自伝などを読むと、【近年は碧梧桐氏がいわゆる新傾向の俳句を始めてなかなか多くの共鳴者を得ているが、一体五七五調の俳句と異った口調では誰れも知る如く、芭蕉の頃の「虚栗」蕪村の頃の柴田麦水を中心とした「新虚栗」もあったのみならず、子規氏生前の我々の中でも、一時は随分試みたのであった。それは碧梧桐虚子両氏が若い元気で重もに鼓吹したのである。私は老人だけにそれが不同意で子規氏にも話したが、氏は若い者には何でもかでも勝手にやらして置くがよいといって笑っていた】とあり、子規ではありませんが、【若い者には何でもかでも勝手にやらして置くがよい】が一番鷹揚と思います。でも、このとき、子規は随分若いんですけどね。器がでかいということでしょう。

いつの世も器の小せえやつらがいろいろこぼすもんでございます。

tenki さんのコメント...

俳句愛好者のなかの「作者」と「読者」。重要なところですね。

読者の〈私〉に、作者の〈私〉が割り込んでくる=作者として読む このパターンが多いように思います。