2010-02-21

真説温泉あんま芸者 第1回 有季認定をめぐって さいばら天気

真説温泉あんま芸者
第1回 有季認定をめぐって ……さいばら天気


ある句が有季か否か、どのように判定するのでしょう。「そりゃあ季語が入っているか否かに決まっているだろう」って? それはそうなのですが、簡単には行かないケースもあります。有季認定には大まかに言って2つの規準があって、流派によってどちらの基準を採るかが違います。

1) 厳格派 季語が実体として句に備わっているものが有季

2) 寛容派 季語が字面(語)として含まれれば有季

厳格派は、例えば比喩や伝聞、虚構のなかの季語を、季語として認めません。

  秋風や蠅のごとくにオートバイ  岸本尚毅

この句、いいですね。で、「蠅」は夏の季語ですが、厳格派に言わせれば、比喩として用いられているので季語になりません。だから「秋風や」がある。これは季重ねではなく、秋の句です。

「夕焼の話」「チューリップの絵」「カブト虫めく」といったフレーズを、厳格派は有季と認めません。

一方の寛容派は、「蠅のごとくに」の蠅も、話の中の夕焼も、描かれたチューリップも、比喩のカブト虫も、原則として季語と捉え、その句を有季と認定します。

  たんぽぽのサラダの話野の話  高野素十

この句は寛容派なら春の句として読みます。しかし、厳格派だと、どうでしょう?

  蓑虫のやうな男と言はれたる  行方克己

この句も同様です。

このように厳格派と寛容派では季語の捉え方が違います。だからといって、厳格派と寛容派がまったく別の陣営かというと、そうではありません。酒を飲まない・豚肉は食べないイスラム教徒(スンニ派)と酒を飲み豚肉も食べるイスラム教徒(シーア派)みたいなものです。

厳格派と寛容派は、互いに対立しているわけでもないようです。他方を、自分たちとは違う考え方としつつも、「絶対に認めない」といった強硬な態度をとることはしない。

ところで、興味深いのは、高浜虚子にも、厳格派なら有季と認定しない句があることです。

  酌婦来る灯取虫より汚きが  虚子

この「灯取虫」は文彩(比較)として使われているので、厳格派は季語とは認めません。

  映画出て火事のポスター見て立てり  虚子

「火事のポスター」を「火の用心」のポスターと解するにしても、ぎりぎりセーフかアウトか、判定の微妙な句です。

つまり、虚子は、酒もたしなめば豚肉も食べるイスラム教徒なのですね。



寛容派がどこまで寛容か、ということを、ちょっと考えたいのですが、先般、NHK-BS「俳句王国」で、おもしろいやりとりがありました(≫1月16日 放送)。

若手俳人が参加したその回、谷雄介さんが自分の句「逃げながら鶴を折る人法隆寺」をして、中本真人さんに「この『鶴』は季語としてどうなんですか?」と話題を振りました。

(余談ですが、谷雄介さんは、あのあと、板倉アナウンサーにちゃんと詫びを入れたのでしょうか? 「僕が仕切っちゃって、すみませんでした」と)

中本さんの答えは「季語にはならない」といったものでしたが、他の人の意見は?といった空気が流れたとき、神野紗希さんが、咄嗟に、「鶴」という(冬の)季語が入っているから有季と解してよいといった内容のことをおっしゃっていました。

「寛容派」の解釈を、「厳格派」と思しき中本さんの対抗軸として示してバランスをとろうとして、つい口が滑ったのでしょう。さすがに、これには無理があります。「折鶴」の鶴を冬の季語とするのは寛容が過ぎます。

どう考えても、無季でしょ?「逃げながら鶴を折る人法隆寺」という句は。

↓訂正

中本さんの答えは「季語にはならない」といったものでしたが、他の人の意見は?といった空気が流れたとき、神野紗希さんが、咄嗟に、「鶴」という語が入っているだけで有季と解する考え方もある、といった内容のことをおっしゃっていました。

「厳格派」と思しき中本さんの対 抗軸としての「寛容派」の解釈ですが、を、示してバランスをとろうとして、つい口が滑ったのでしょう。さすがに、これには無理があります。「折鶴」の鶴を冬の季語とするのは寛容が過ぎま す。


2/25 付記+再訂正

読者からメールで、『俳句王国』の当該部分をテキストに起こして御教示いただきました(動画付き)。誠にありがとうございます。

谷:鶴っていうのが冬の季語だけど、この使い方は? みたいな…
中本:これは、鶴を、皆さん、季題というふうに、お考えでお取りになったのかなってちょっと、不思議でしょうがないんですけれども 私にとっては。
神野:え? やっぱりそういう場合は、折り鶴の 紙の鶴でも、鶴っていう言葉が入ると、季題だって言うことになるんですか?
私は、神野さんの発言の最後の部分「か?」を聞き逃していました。一音聞き逃すだけで、別の主旨になってしまうのですね。つまり、「折り鶴の 紙の鶴でも、鶴っていう言葉が入ると、季題だって言うことになるんです」。

以上を踏まえて、再訂正。



中本さんの答えは「季題とにはならない」といったものでした。神野紗希さんが、「鶴」という語が入っているだけで「季題」と解するのか? と、これはもっぱら中本さんに質問を重ねたかたちでしたが、話題は広がりませんでした。

いかに寛容派といえども、「折鶴」の鶴を冬の季語とす るのは無理があります。「逃げながら鶴を折る人法隆寺」という句は無季の句として読まれるべきなのです。

谷さんは、意識的にか無意識にか、「鶴という冬の季語」という言い方で話題を振ることで議論を喚起したわけですが、土曜のお昼のテレビの、あの短い時間には不向きな試みでした(でも、こうして、紛糾と訂正を繰り返しながらも、偶然観ていた私がここで話題にできたのですから、感謝、であります)

(以上、二度目の訂正終わり)




私個人は、作るときも読むときも寛容派です。ところが、その私が「それって季語になるのか?」と訝ってしまう「有季事例」に遭遇することがあります。

例えば、「涼しげな目」といったフレーズは、いかに寛容派の私といえども、夏の季語とは読みません。けれども、実際、このフレーズを用いた句がなんのためらいもなく「有季」として読まれる現場(句会)を一度ならず目撃しています。

これが有季なら、「冷たい仕打ち」は冬の句、「熱血漢」は夏の季語になってしまいそうです。

もうひとつ。

『現代俳句歳時記』(現代俳句協会発行/1999年)の「露」(秋)の項には、こんな例句があります。

  缶ジュース飲めば逆立つ文字の露  島田静子

念のために言っておきますが、作者に向かってとやかく言うつもりはまったくないのです。ただ編纂者の「寛容度」というか、語の解釈・季語の解釈は、私にはちょっと理解不能です。この「露」を秋の季語とするなら、冷蔵庫の「霜」も冬の季語としてりっぱに通用しそうです。

こうした句は、さきほどの「折鶴」のような確信犯ではありません。それこそ涼しい顔でみずからが「有季」であることを疑わず、有季定型として流通している場所があるのです。

ちなみに、有季・無季の限界的・境界的な句を前にしてしばしば飛び出すのが「季感があれば、いいんじゃない?」といった解決策ですが、有季・無季は形式の話です。結果としての効果、人によって大きく違う「感じ」は、また別の話です。

まあ、そんなこんなですが、私はなにも、有季として成立するような語/季語の使い方をせよ、と言っているのではありません。言いたいのは…

 無季でいいのでは?

…ということです。

有季定型という領野の端っこにおそるおそるもぐりこもうとするかのような態度を強要しては、句がかわいそうです。同時に、有季定型という範疇の境界をぐずぐずに崩してしまっては、せっかくの形式/スタイルがもったいない。

「折鶴」も「涼しい顔」も「ジュース缶の露」も、無季でいいじゃないですか。無季で、なんの問題がありましょう。

9 comments:

紗希 さんのコメント...

天気さま>あれれ、すいません。言葉足らず。

私はあのとき、中本さんに、ここでいう厳格派か寛容派か、彼の俳句観を聞いてみたかっただけなのですが、わかりにくかったですね(反省)あの句の「鶴」を有季と解してもいいとは言っていませんが、クリアーに「季語がなければだめですか」と、自身の(無季容認の)意見を述べるべきでした。

もちろん、私は無季だと思ってとりました。折鶴の鶴は、季語、無理です(同感です)。

tenki さんのコメント...

どうもです。

私の聞き違えか記憶違いで書いてしまったようですね。すみません。

×「鶴」という(冬の)季語が入っているから有季と解してよいといった内容のことをおっしゃっていました。



「鶴」という(冬の)季語が入っていさえすれば有季と解する考え方もある。

記憶の糸をたぐると(頼りない糸)、こういうふうにおっしゃっていたと思いますが、どうでしょう。

自分、改稿の準備に入りました。



>無季容認

奇遇です。第2回(来週予定)は、その話題です。

tenki さんのコメント...

当該箇所、訂正しました。

tenki さんのコメント...

読者から、番組の当該部分を正確にお伝えいただき、再度訂正(改稿)いたしました。

ご親切な読者に、あらためて御礼を申し上げます。

四ッ谷 龍 さんのコメント...

「鶴」は季語なのでしょうか?
季語としている歳時記も中にはあるようですが、私は「鶴来る」「凍鶴」「鶴帰る」と言わないと季語ではないと思ってきました。

そんなに重要な問題と考えて言っているわけではなりませんが。

tenki さんのコメント...

おはようございます。

答えにはなりませんが、ちょっと手元の歳時記をめくってみました。

『日本大歳時記・常用版』(講談社)は、「鶴」におよそ一段を割き、例句は12句。ただし、最古の例句が…

  田居の鶴もれなく歩きはじめけり  野村泊月(1879-1959)

ちなみに「鶴来る/鶴渡る」の例句は6句。


で、『俳諧歳時記栞草』(曲亭馬琴編・1851年)には「鶴」「鶴来る」「凍鶴」の立項はありません(「凍(いてる)」は立項)。

「鶴」やその関連は比較的新しい季語かもしれません。


例えば、鯨が、

  江戸に鳴る冥加やたかし夏鯨  谷素外(1717-1809)

とあるように、古くから冬の季語だったこととはずいぶん事情が違うようです(手元にあるものからの推測ですが)。

ホトトギス歳時記ではどうなのだろうという興味は湧きます。お持ちの方、いかがでしょう。



四ッ谷さんのおっしゃる≪「鶴来る」「凍鶴」「鶴帰る」と言わないと季語ではない≫との受け止め方、わかる感じがしますが、上記2冊からの推論の範囲では、「鶴」と「鶴来る」に、時代的・経年的な要素も含め、分け隔てはないように思いました。

でも、たしかに、作り手が向き合う(季)語として考えた場合、「鶴」と「鶴来る」とは、語が陣取る位置のようなものが違う気がします。

四ッ谷 龍 さんのコメント...

参考までに、調べた結果を言いますと、

虚子編「新歳時記」(再改訂版・昭和26年)では「鶴来る」「引鶴」「凍鶴」「鶴の巣」がありますが、「鶴」単独はなし。

角川「季寄せ」(昭和51年)も同様。

私がいつも使っている、平凡社「俳句歳時記」(全5巻、昭和34年)も同様。ただし、他の歳時記は「鶴来る」を秋としているのに対し、これは冬としている。

角川「合本俳句歳時記」(昭和49年)は、「鶴渡る」を秋の季語とした上で、その下に
「鶴」単独も小題として載せている。つまり「鶴」は秋の季語

連句用のハンドブック「十七季」(平成3年)では、「鶴」を三冬の季語として独立して立てています。

私の推測では、鶴は昔から羽を切って年中、屋敷で飼う習慣があったので、飼育された鶴は季語ではないという意識があったのではないでしょうか。
季語の実感がうすれてきた近代になって、何でも季語にしたいという「欲望」が肥大してきて、季語の領域が拡散したものではないでしょうか。

tenki さんのコメント...

おもしろいですね。
「鶴」のい扱いが歳時記によってこんなに違うとは。
しかも秋と冬を股にかけて。

「季語の拡散」の一例が「鶴」なわけですね。

猫髭 さんのコメント...

現代俳句協会編の『現代俳句歳時記』(学研、全五冊)の五巻目が『無季』(ジュニア俳句付)で、その中の「玩具」の無季題の傍題として「折り紙」があります。「折鶴」はしたがって、明確に現代俳句協会の歳時記では「無季」です。

余談ですが、わたくしは東映温泉芸者シリーズでは第四弾だったかと記憶しますが「温泉みみず芸者」が一番好きです。