2010-10-24

詩歌梁山泊シンポジウムレポート(前編)野口る理

詩歌梁山泊「第1回シンポジウム宛名、機会詩、自然」レポート(前編)
つくられるプリズム

野口る理


詩歌梁山泊「第1回シンポジウム宛名、機会詩、自然」

  主催 詩歌梁山泊〜三詩型交流企画
  後援 邑書林・思潮社・本阿弥書店・角川学芸出版
  日時 2010年10月16日(土)
  場所 日本出版クラブ会館 鳳凰 
  ≫詩歌梁山泊公式ブログ 


■第1部「ゼロ年代から10年代に~三詩型の最前線」

「第1部」について、公式ブログでは
「現在、最前線で活躍する10~40代の歌人、俳人、詩人が書く者の視点から、具体的な作品に沿って三詩型の表現の「いま」を語ります。」
「第1部のテーマは「わたし」です。本年、角川俳句賞受賞の山口優夢、中原中也賞受賞の文月悠光など、いまもっとも注目される新鋭が、三詩型の現在を語ります。」
と、内容が予告されていた。









第1部パネリストと、各氏がテキストに用いた作品を紹介する。
司会は森川雅美氏。

短歌
佐藤弓生氏 《光森裕樹『鈴を産むひばり』(港の人 / 2010)》
今橋愛氏 《野口あや子『くびすじの欠片』(短歌研究社 / 2009)》
俳句
山口優夢氏 《高柳克弘『未踏』(ふらんす堂 / 2009)》
田中亜美氏 《御中虫「第3回芝不器男賞受賞作品」 》
現代詩
杉本徹氏 《中尾太一『御世の戦示の木の下で』(思潮社 / 2009)》
文月悠光氏 《大江麻衣「昭和以降に恋愛はない」(「新潮」2010年7月号)》
(リンク先に作品テキスト)

パネリスト各氏の選んだ作品は、もちろん意図的に、対照的である。

古典的なつくり方に現代性を感じさせる【光森】作品と、恋や性愛を通して現代に生きる自分を描く【野口】作品。

流麗な文語を用いすみずみまで洗練されている【高柳】作品と、口語も文語も混ぜ乱反射させる【御中】作品。

引き裂かれるような切実さのある独自の物語を紡ぐ【中尾】作品と、自在な散文を用いネット上でも多くの人に読まれ共感を得る【大江】作品。


○ いつまでも少女?

たとえば佐藤氏は「ジェンダーバイアス」という言葉を使う。女性の作品(【野口】御中大江作品)は、自分の身体や性、他者との関係からしか作品を作ることができず、とても受難的である、と指摘する。

今橋氏も、【野口】作品を通して、少女を演じていなければやり過ごせない女性の苦しさを、同じ女性として共感すると話し、御中作品については緊張感や細やかさを感じ、また、大江作品についても、悲鳴のようで辛くて読めなかったと話す。

たしかに、彼女たちの作品は、恋や性愛をモチーフにしたものが多く、そして共通してなにか苛立ちのようなものがエネルギーになっているように感じられる。ただ、これらのテキストだけを並べてジェンダーバイアスという言葉を使ってしまうのは早急でありミスリーディングではないか、これがゼロ年代の全てではないはずだ、と、私としては付け加えておきたい。


○作家性と文体

山口氏は「観察者と行為者」という言葉を使った。特に高柳作品と御中作品を例に示し、【御中】作品が主体的なものである(行為者)のに対し、【高柳】作品には「私」が希薄で主体感がない(観察者)と指摘する。

田中氏は、【高柳】作品について、断続的で、近くでみるとさまざまの色だが句集として遠くから見るとひとつのものになっている印象派の絵画のようだとし、【御中】作品について、連続的で、1句ずつではなく100句繋げてひとつの物語のようだと指摘する。












杉本氏は、【高柳】作品については主体を「書かれたものに集約する意識」があると言い、【御中】作品については主体が「書かれたものからはみ出していって暴れている」印象があると言う。

これらの指摘については、きっと作者自身が作家として選び取った方法なのだろうと私は思う。

また、文月氏は、【高柳】作品は対象と自分が一定距離を保っているのに対し、【御中】作品は対象と自分が重なって自分が対象になってしまうことすらある、ということを指摘したが、これは、彼らの特性というよりも、俳句(表現)の特性である。

むしろ私は、彼らがこの俳句(表現)の特性をそれぞれの作家として自在に使いこなしている、という印象を受ける。マルセル・プルーストは「作家にとっての文体は、画家にとっての色彩同様、テクニックの問題ではなくヴィジョンの問題なのだ」と語ったが(*1)、つまり、流麗で格調高い文体の高柳作品と、口語も文語も仮名遣いも混ぜる文体の御中作品、どちらもそれぞれに必然であって、それぞれの文体は、それぞれの作家の視点であり見えている世界の問題なのだ、と私は思った。もちろんこれは、どの作家にも言えることである。


○現代とは新しい場なのだろうか

第1部は、ゼロ年代から10年代にかけての作品を持ち寄って、そこから議論するのがテーマである。つまり、現代性や新しさについては当然欠かせない議題である。

【光森】作品について、佐藤氏は、古典的なつくりが、逆に現代的である指摘する。短歌の世界で、古典的なつくりであることが現代的なのならば、口語や現代仮名遣いのものは、もう近代になりそうだということなのか。いやむしろ、口語や現代仮名遣いが主流であるがゆえに、少数である古典的なものが新しいのであろう。山口氏が、激情はないが深い戸惑いを感じそこに現代性を感じる、と指摘したのは少し興味深かった。

【野口】作品について、今橋氏は、女性の感覚などを痛々しいまでにリアルに表現しているところに、現代性を感じ共感できる、と言う。しかし私は【野口】作品は新しさというよりはとても短歌らしいという印象が強かった。むしろ私から見ると、今橋氏自身の作品のほうが、新しいように思う。
















【高柳】
作品について、山口氏は、我々はどこへ向かうのだろうというような寄る辺なさを持ちつつ、それが決して暗いものではないというところに現代性があると指摘する。それは【光森】作品における深い戸惑いとも似ているが、なにかポジティヴな諦念すら感じられる。

【御中】作品について、田中氏はパンキッシュであると指摘する。季節がバラバラで口語も文語も仮名遣いも統一しないこの作品は、拘束性を逆手に取りカオスを演出しているのだ。これは逆に、定型を崩すことによって定型へのこだわりがあり、季語を承知しているからこそ季語のない句や季語への反発句が活きるということでもある。

【中尾】作品について、杉本氏は「現代詩手帖6月号」を踏まえ、潔く外部を絶ち自分の内部で再生産をしているというところに、現代性を見出す(*2)【中尾】作品の過剰なまでの情報量や質感についても独特のものだと指摘し、叙情詩という隠れたフレームを手放さないことによって赤裸々な命を保有し続けるのだと語った。

【大江】作品について、文月氏は、高橋源一郎氏がTwitterで取り上げたことにも触れ、多くのひとの共感を呼ぶ魅力的な作品であると語る(*3)。また、聖書や他の作家の言葉の影響(引用)が見られることから、作者が作品を作るときに作者の信用のおける倫理があることについても触れた。


今をときめく若手作家であるパネリストたちが、今をときめく若手作家の作品について議論するという豪華な企画であったが、なにぶんパネリストが多いのと、ただでさえ3詩型が集まり要素が多く、また自由度が高すぎるのとで、話はあまりまとまらなかった印象である。

しかし、3詩型それぞれの若手の問題意識や現在をうかがい知ることが出来、これからまだまだ前へ進む力強さを体感することができたシンポジウムであった。



(*1)マルセル・プルースト『失われた時を求めて6』(井上究一郎訳)ちくま文庫、1993
(*2)「現代詩手帖6月号」思潮社、2010
黒瀬「(・・・)現代詩は潔く外部を切っているように私には見えます。水無田気流さんもそうだし、最果タヒさんもそうだけど、自分の内部で外界を再構築、再生産しようとしている。そういうところに短歌と現代詩の大きな差が見えてくるように思います。」
(*3)高橋源一郎氏による大江麻衣「夜の水」の「朗読」 http://togetter.com/li/8190 

2 comments:

匿名 さんのコメント...

当日の一参加者です。手際良くまとめられたレポート、興味深く拝読いたしました。

ちょっとひとつだけ気になる点が。

たしか、佐藤弓生さんが「ジェンダーバイアス」という言葉を使ったのは、彼女たちの作品に対する批評の言葉としてではなかったような。

「恋や性愛をモチーフにしたものが多く、そして共通してなにか苛立ちのようなものがエネルギーになっている」作品ばかりが、今回のシンポジウムの女性作品に並べられたこと自体に対しての発言だったと記憶しています。

ですから、「これがゼロ年代の全てではないはずだ」というお気持ちは、おそらく佐藤さんも一緒だと思いますよ。

野口る理 さんのコメント...

コメントありがとうございます。うれしいです!

そうですね、彼女たちの作品に対する批評の言葉ではなく、今回のシンポジウムにあげられたテキストについての指摘の文脈でした。
男性の作品との比較あってこそのジェンダーバイアスですものね。「男性ももう少しご自身の身体や性に興味を持ったらどうですか?」といった発言があったことなど抜けておりました・・・。

きっと「パネリスト各氏の選んだ作品は、もちろん意図的に、対照的」であったのだとは思います。ただ、だからこそ、こういったシンポジウムで扱うゼロ年代作家の作品に傾向性が見てとれる場合、それはやはりどうしても、ゼロ年代の作品の総体になってしまうのではないか、と思ったのです(そうでないと議論が運びにくいでしょうし、実際そういうムードだったように思います)。なので「これが全てではない」と言いはじめるとキリがないとは思いつつ、そう付け加えました。

今回レポートを書くにあたり、録音もしておらず、不正確なところ多々あるでしょうし、また大切なところを落としているかもしれません(さらに私の考えがノイズのように入っていたりします)。ごめんなさい。
ご指摘くださって本当にありがたかったです!どうもありがとうございました。