2011-05-22

〔週刊俳句時評 第32回〕「それは本当にあなたの言葉なんですか」 五十嵐秀彦

週刊俳句時評第32回
「それは本当にあなたの言葉なんですか」

五十嵐秀彦


震災後、文芸がこの現実にどう対面するのか、あるいはしないのか、そんな議論が起きているようだ。しかしそれは文芸全般の議論なのか。小説は、現代詩は、短歌は、俳句は、対応に違いがあるのかについて考えてみたい。

俳句というものは作ろうとおもえば、実に簡単にできる。誰でもできる。

そんなことはない、とがんばる人もいるかもしれないが、今回の震災の後の動きを見ていると、やはり簡便な文芸なのだろうなと思わざるをえない。

俳句が簡便であるということは、けっしてマイナスなことではない。それは言っておく必要があるだろう。簡便であるからこそ日常雑感を詩にできるのであり、俳句を大衆詩として強固な存在にしてきたとも言える。

しかしそこに落とし穴もあり、俳句が時にしばしばつまらぬ俗にまみれながらそれを詩的な俗と勘違いして平然としているようなザマは、その落とし穴にはまっているのである。

震災で俳句を作ろう。そんなつもりなのかどうか知らぬが、震災詠がぞくぞくと湧き出している。そんな状況を見ていると、今回の震災とその後の原発災害という異常な事態は、文芸の在り方について否応もなく考えさせられる状況を作り出したことに気づく。

震災で俳句をつくるマネはしないと宣言している人もいるが、その人でさえそう言わざるをえなかったのだと思うと、直面しているという状況から逃れられているわけではないのだろう。

それで気になったのは、文芸出版の世界の反応はどうなのか、ということだった。

俳句では、『俳句界』が一番早く震災を取り上げたのではないだろうか。
『俳句』も同様の企画でそれに続いた。

そうなると他の文芸誌も気になってくる。

『短歌』は五月号では企画がなかったが、次号予告で「東日本大震災のあとに歌人かく歌えり」という企画が発表されている。

『短歌研究』では、5月号で「巻頭作品 十五首 岡井隆 - 三月十一日以後に思つたこと」が掲載された。

短詩型雑誌のその動きに対して他の文芸誌はどうか。『ユリイカ』には特に震災関係の記事はないようだ。『現代詩手帖』では 「東日本大震災に向き合うために」として大特集にしている。

今回手元に集めた文芸誌は『俳句』5月号、『俳句界』5月号、『新潮』6月号、『文學界』6月号、『現代詩手帖』5月号の5冊。

5冊ともに震災関係の記事が載っている点では変わらないが、内容には大きな違いがあった。

純文学系の『新潮』と『文學界』をまず見てみよう。

『新潮』6月号では、森村泰昌と高橋源一郎の対談「震災と言葉」がひとつ載っており、特に震災特集ではなかったが、この対談は面白いものだった。一番自分の思いに合っていると感じる発言に出会えたように思う。

それは主に森村泰昌の発言にあった。まず二人の会話は、今回の震災と原発事故以降、多くの発言が「政治的」になっているという点を指摘ところから始まる。そして森村はこう言う。

政治の言葉の弊害は、それが非常にシンプルであることだと思うんです。是か非かという問いかけと同じで、本来奥行きがあるはずの言葉が、とても薄っぺらくなってしまう

それは本当にあなたの言葉なんですか、と問い直すことでさえ、おまえは何をけしからんことを言っているのだ、と指弾される

水戸黄門の印籠のように「善意」を出されると、誰もそれを否定できません。権力や独裁者に対してならレジスタンスできるけど、「善意」という印籠の前には手も足も出ない。原理はひとつになっているんです。そこは大きな問題でしょうね

音楽でも美術でも、芸術は人を勇気づけるようなものじゃないとぼくは思っています

「言わない」こともひとつのひとつの選択だと、ぼくもずっと考えてきました。3・11の問題に対しても、「リアクションしない」ことが非常に積極的な意味を持つかもしれない
いずれも『新潮』6月号「震災と言葉」の森村泰昌の発言から


セルフ・ポートレイトの手法で無言の表現を追求する芸術家らしい発言とも言えるが、このことは文芸であっても同じことのように思え共感した。

また、この発言の前段で、3・11以降特に原発事故に関して二極分化した議論が湧き起こり、学生運動死滅以降しばらく絶えていた政治的言語が復活したように感じるという二人の認識が置かれている。

保守か革新か、かつてその対立軸で文化さえ語られていた時代に似てきたという指摘の後で、上記の森村の発言となるのだ。

「それは本当にあなたの言葉なんですか」

そのことを、あの日以降考えさせられている。それゆえに文芸誌の動向が気になるのである。

『文學界』6月号は、冒頭に26ページを割いて辺見庸の長編詩「眼の海 わたしの死者たちに」を掲載。

辺見庸は石巻出身。ジャーナリストから小説家になり、昨年発表した詩集『生首』で今年中原中也賞を受賞した詩人でもある。

27の詩篇をコラージュのように配置したこの長編詩「眼の海」には息苦しくなるほどの怒りと悔恨が満ち溢れている。破壊され尽くされた故郷を前にして、絞り出すように象徴的詩語を連ねてゆくその言葉はどこへ向かってゆくものなのだろか。

  それでもなお 死者たちの肺に
  求める ことばは あてがわれないだろうことを
  この眼から ふたたび 海がふきでるだろうことを
  化野は割られ ただ洗われるだけの 化野であろうことを

辺見庸 「眼の海 わたしの死者たちに」より 『文學界』6月号(p35)

紹介した2誌は、特に大きな特集を組むのではなく対談と詩篇を掲載するのみにとどめながら、言葉の意味を問いかける点で印象に残った。

一方、対照的だったのは『現代詩手帖』5月号であろう。

おそらく現在のところもっとも大規模な特集を組んだ文芸誌だと思う。30人の作家が名を連ねる。

中でも核となったのは和合亮一の44ページにわたる長編詩「詩の礫」だ。

それは3月16日に書き始め、4月9日まで書き続けた詩の集合体である。まさに震災地の真っただ中にあってツイッターを使って記録し続けた言葉の礫だ。辺見の昇華した詩文と異なり、ここでは生々しい日記的な世界が展開する。

  いくつもの破片を拾い集めてかけらは 宇宙のもの 世界のもの かつては
  僕たち家族のもの 捨てられていくもの
  今日も言葉の瓦礫の前で、呆然としています。

和合亮一 「詩の礫」より 『現代詩手帖』5月号(p49)

  
  なラば、さらニ、問う。オ前の書くものは、ただ悲しいというだけではないか。
  詩人に何が出来ル。

和合亮一 「詩の礫」より 『現代詩手帖』5月号(p75)

ここにも現実を前にして言葉を疑う存在がいる。

言葉でなにか表現しようとしてきた人にとって、今回の災害は自分の無力さを感じざるを得ない現実だったのだろう。この2篇の詩を読んでそのことを最も強く感じた。

であるからこそ、森村泰昌の発言からも言葉への懐疑が受け取れるのである。

震災や原発事故を遠いところのこととしてしか受け止められない私は、もちろん想像力に欠けた存在であることは明らかではあるが、それゆえに周囲に溢れる言葉の群に戸惑いをおぼえるのだ。

句会では呆れるほど震災の句に出会った。おそらくこれを読んでいる人たちも皆それを経験したのではないか。

なにか違和感はなかったか。仲間のなかには、そのことに「引いてしまう」と言った正直な人もいた。

俳句総合誌で最初に特集を組んだのが『俳句界』の5月号。「緊急特集3・11 大震災を詠む」

70人の俳人が3句発表している。この210句の俳句作品の是非を言うつもりはない。いいかげんな句があるなどとは毛頭思わない。しかし、編集側のここに示されたフレームには大きな疑問を持つ。
“国難”というべきこの事態に対し、俳句は、そして俳人は何をすることができるのか。17音という極小の詩型・俳句は、この震災をどう詠んだのか

特集の扉ページに書かれた言葉である。

「俳句は、俳人は何をすることができるのか」

句を提供した70人の俳人の意識と、この編集意図は一致していないのではないか。「何をすることができるのか(何かをすべきなのだ)」という意識で文芸に関わることはその本質に対する裏切りのように感じる。

同じことが角川の『俳句』5月号にも言える。

「被災地にエールを! 俳人140名が送る「励ましの一句」」と謳われているその特集には『俳句界』の倍の140名が句を出している。まるで『俳句界』の企画を意識しての人数ででもあるかのようだ。

「被災地にエールを!」「励ましの一句」。

そして扉ページに書かれた「いま、俳句で何ができるのか」の惹句。

いったいどうしようというのだろう。

今回の震災で大きな衝撃を受けたという点では、誰しも同じであろうと思う。しかし、その衝撃を自らの創作に反映させたかどうかは、各人で違っているはずだ。それは当然のことであって、「全国民はひとつになって」などというスローガンを文芸の世界に持ち込むことなど御免蒙る。

私には森村さんの言う「芸術は人を勇気づけるようなものじゃない」という言葉が重く響くのだ。

俳句は心の逃げ場ででもあってくれればそれでよい。

「いま俳句でなにができるのか」の問いが、何かできなければならないという主張である時(それもひとつの考えではあろうが)、そこから生まれてくる俳句に私は何ひとつ期待しないし、アホらしいことであると思う。

表現とは何か、言葉とは何か、それを考える機会が来てしまったこと、ただそのことを受け止めたい。


1 comments:

一読者 さんのコメント...

館野洋一さんの以前のコメントは、この文にも正当な批判として当てはまります。私のまわりでは、五十嵐秀彦君、西原天気君、上田信治君の文は不評です。これ以上風評をばらまかないで下さい。
>五十嵐様、あなたは一個人氏や僕の「感情的」な物言いの部分だけをあげつらって、
(一個人氏の訴えや西原氏の言説の在り方など、他の要素を意図的に無視し)、
身勝手に不公平に持論を展開しているだけです。
そして終いには、「文芸の徒であればまずそれを為すべきである」などという、
手垢のついた大上段でもって、ひとり悦に入っている。
怒りとか不愉快を通り越して、ただ情けなくなるばかりです
>一個人氏は、西原氏の
>テレビで見る地震・津波の被害を安穏と五七五にするような、程度の悪い「のんきさ」、どうしようもない「蒙昧さ」。それはまた、まったく別の話
という発言に対し、

>そういったこと、何であなたに決め付けられなければならないのでしょう。
いろいろな思い、立場、真摯な気持ちでこの大災害を自分なりに形にしたいと思われた方もいたはずです。

と述べておられます。
僕にはこの一節、十分真っ当な「批判・批評」に思えました。