2012-07-08

【週俳6月の俳句を読む】たまたまここに住んでいただけの話 猫髭

【週俳6月の俳句を読む】
たまたまここに住んでいただけの話

猫髭


自転車も網戸も浚ひ出されけり  佐川盟子

十句のうち、「自転車」と「網戸」が、「浚ひ」という言葉とそぐわないので立ち止まった。「浚ひ」と言えば「溝浚い」「川浚い」「下水浚い」で、底の泥を浚って上げる清掃を言う。「浚渫船」も港湾・河川などの水深を深くするため、水底をさらって土砂などを取り除く船である。「浚ひ出され」るのは泥や土砂のたぐいだけである。「自転車も網戸も」の並列は、泥と一緒に浚い出された物であることを示す。しかし、暮しの足である自転車と、風を通し防虫効果を兼ねた涼をとるための網戸が、溝か川か海かに沈んで埋もれているとはいかなる状況か。今年の梅雨入り前後の暴風雨による被害の痕を詠んでいるのかもしれない。ここのところ日本は亜熱帯になりつつあるような天候が続いたから。

それで思い出した。昨春の東日本大震災の時は、那珂湊のドックに、那珂川に、魚市場の溝に、道路に、自転車どころか、自動車や船まで津波に流されて転がっていた。今は生田に疎開している母は、その日、阿字ヶ浦の高台にあるデイ・サービスに居たので津波からは免れたが、未だに震災時の記憶がない。その癖、父の掃苔を促しても、自転車も網戸も流されて半壊した我が家に二度と戻る気もない。流されたものは自転車や網戸だけではなかった。それは一年経っても浚い出すことが出来なかった恐怖という泥である。


幽霊はときをり淡くなりにけり  藤田哲史

タイトルの「緑/R」の「/R」がわからない。十句のうち緑に関連する句や青に関連する句があるのでマイルスの「Kind of Blue」の「Blue in Green」を聴きながら読めということかと、かけてはみたが、どうもCoolな句柄ではないので違うなあ。竹内まりあの「Denim」なんかが合いそうな・・・お、合うじゃん♪

あるいは統計解析のR言語だとすれば、これらの十句は、入り子構造にベクトル処理されていることになるが、スパムを炒めて発泡酒(金が無いので「オリオンビール」じゃなくてサッポロの「ホップ畑の香り」だが、なかなかいけます)を飲み始めたので、面倒臭いことはエポケーして、夏の夜につきものの幽霊を読んでみよう。関数は「幽霊は緑色」。

この「ときをり淡く」なる幽霊は子どもの頃に見たことがある。わたくしは幽霊を信じない。しかし、怖い。これは映画館の桟敷席で畳に伏して「四谷怪談」を見ているときに、オヤジに、もうお化けいない?と聞いたら大丈夫だと言うので、顔を上げたら、お岩さんが戸板でもんどりうって現れた場面で、一生オヤジを恨むほど呪ったが、そちらではなく、西洋の幽霊の話で、昭和三十年頃は那珂湊のような田舎でも邦画専門の「大漁館」と、洋画をかける「坂場」という二つの映画館があった、その「坂場」で見たヒッチコックの「めまい」という映画に緑色の幽霊が出て来たのである。

自分を助けるために同僚が転落死したことで高所恐怖症になり、辞職した元刑事のスコッティ(ジェームズ・スチュアート)は、友人から自殺願望の妻マデリン(キム・ノヴァク)の尾行を依頼され、ゴルデンゲートの下で身投げした彼女を助けたことで、彼はブロンドの彼女に夢中になるが、教会の鐘楼から飛び降りる彼女をめまいのために助けることが出来ず、神経衰弱に陥る。小康を得た彼は、彼女に瓜二つのブルネットの髪のジュディ(キム・ノヴァク)に出会い、同じ服を買ってやったりして死んだ女の面影を彼女に求める。グリーンのネオンが窓から漏れるホテルの部屋で、髪の色と髪型を同じにしたジュディが現われるシーンほどエロティックなシーンは見たことが無い。一度死んだ女の幽霊を死姦するようなもので、グリーンのネオンの点滅が、まさしく「幽霊はときをり淡くなりにけり」であり、この幽霊は怖くない。この句は美しい。


桜実にさう言へば今日誕生日  北川あい沙

俳人が誕生日ではなく忌日をなぜ詠みたがるのかは謎で、とはいえウラハイの「毎日が忌日」(http://kijitsu-haiku.blogspot.jp/)などは面白いのでわたくしも大分遊んだが、実はまだ続いていて、最近では、

  柿ピーに混ざる小魚クレーの忌  野口裕

などは、赤い魚が真ん中にぽっちり浮かぶクレーの絵「水底の庭Underwater Garden」を髣髴とさせる佳句だと思う。

忌日句は亡き人を偲ぶということだろうが、生きている人を喜ぶといった真っ当な姿勢を俳人はもっと持った方がいいと思うので「毎日が誕辰」などもウラハイでやると、これは死人ではなく生きている人も歌えるので今を詠む佳句も生れるのではないか。

掲出句の誕辰句は、誰の誕生日だろう。普通は作者のという読みになる。「さう言へば」という健忘症初期症候のようなぞんざいな気付き方が、もう子ども時代のように無邪気に親兄弟に祝われ祝いという年頃を遥かに過ぎて、いまさらという気になるから、親の誕生日をひっくるめて老人の日に何か送るという雑な括り方と同じように、「さう言へば」今日が自分の誕生日というところに落ち着く。生きていることに感謝することはあっても、自分で自分の誕辰を祝うという気にはなかなかなれないものだから。「桜実に」で、さくらんぼが一人で食べてもおいしい季節なのだと気づかせてくれる句である。

ただ、季語が「桜実に」なので、さくらんぼを置くと「桜桃」につながり、攝津幸彦も「国家よりワタクシ大事さくらんぼ」とパロった有名な太宰治の「桜桃」の冒頭の言葉が浮き上がる。

  子供より親が大事、と思いたい。

そうなると、これは親を含めた家族の誕生日であってもよい。誕生日と言うものは本来家族から祝われるものだ。人間が人の間と書いて、人の間に生まれ、人の間に死ぬように、家族だけが人間として家族の誕辰を心から祝うことが出来る。人間としての死もまた家族という人の間に看取られて成就する。


忘れろ忘れろ平泳ぎ繰り返す  神野紗希

十句の中に「遠泳」と「自愛ぶよぶよ」と「忘れろ」が点在すると、

  愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子

という句が点滅する。『古今和歌集』の「われを思ふ人を思はぬむくいにやわが思ふ人の我を思はぬ」を本歌取りした相聞句だとずっと思っていたが、今回引用の正確を期すために「鷹」のHPを検索すると、「師である秋櫻子との反目」という「鬱屈した気持がこめられている」とのことで師弟愛の句だった。師弟愛というのは師を持たないとわからない至上の愛にひとしいものだから、死ぬまで束縛される、どころか死んでも束縛される。湘子も「葛飾や一弟子われに雁渡る」「湯豆腐や死後に褒められようと思ふ」と詠んでいる。ただ、俳句という作品と、その背景はまた別で、この句が相聞であることに変わりは無い。

掲出句も相聞とわたくしは読む。「忘れろ」という叫びとは裏腹に、海を抱くように自分の体に引き寄せては前方へ突き放す平泳ぎの繰り返しが愛憎の行為だからだし、恋はするものではなく、I fall in love too easilyというように不意打ちに落ちるものであり、溺れるものだからだ。これがバタフライやクロールだと海を抉り切り裂く愛憎となり、相聞にはならない。前を見据えて世界を擁き抱えては突き放す平泳ぎだからこその「忘れろ」である。その言葉にならない叫びは、「思ひ切つて仕舞へ、思ひ切つて仕舞へ、あきらめて仕舞ふ」という「夢の樣な戀」を忘れようとする樋口一葉の『十三夜』の阿關の思いに呼応する。掲出句の次の挙句は「椅子の背に掛かる白シャツ窓は朝」。この「白シャツ」は王朝の後朝の別れの朝の光か。


浴衣着てどの町からもはるかなり  平山雄一

那珂湊には八朔祭という祭があり、わたくしがいる四丁目の屋台は中でも一番由緒がある。今でも昔ほどではないが、たいそうな人出で賑わい、八幡宮から神輿が出て那珂湊港から海へ入る禊が行われ、翌日八幡宮へ神輿が還る還幸祭は夜になると屋台同士が競い合い、芸者衆が囃してそれはそれは賑やかで華やかで勇壮でさえある。だが、それも翌春の東日本大震災の本震に続く7.7の余震が常陸沖で発生したため、日立から大洗までのいわゆる日本初の原発銀座沿岸は津波の被害を被り、未だに八朔祭再開の目処は立っていない。我が家の隣の水神宮は奇跡的に瓦一枚落ちなかったが、見かけが朽ちているので、鹿島神社の管理事務所が震災で倒壊したと勘違いして更地にしてしまった。祭のスポンサーのおさかな市場も甚大な津波の被害を受け、再開はしているが、これまでの観光バスが列を成す賑わいにはほど遠く、風評被害も相俟って、底網は未だに禁止され、地魚はほとんど店頭に並ばない。

夏になれば浴衣を着て涼むが、潮風に混じって祭囃子がどの露地からも流れていた夏は途絶えた。作者が詠んだ位置は、気持の上で涼しく喧騒から遥かな句だが、読み手であるわたくしは、たまたまここに住んでいただけの話なのだが、まさしく「浴衣着てどの町からもはるかなり」である。


第267号
佐川盟子 Tシャツ 10句 ≫読む
藤田哲史 緑/R 10句 ≫読む
第268号
北川あい沙 うつ伏せ 10句 ≫読む
第269号
神野紗希 忘れろ 10句 ≫読む
第270号
平山雄一 火事の匂ひ 10句 ≫読む

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