2012-10-28

朝の爽波 39 小川春休



小川春休





39




第一句集『鋪道の花』も第二句集『湯呑』もかなりの厳選の句集、特に『湯呑』の前半は一年当たりの収録句が十句以下という超厳選でもありました。その後で第三句集『骰子』を読むと何とも伸びやかなものを自然と感じます。特に、今回鑑賞した根釣二句などのように、同じ時に同じモチーフによって成立した句が複数並ぶのを読むのは、爽波という作家の幅の広さ、多様性・多面性が端的に見えてくるようで楽しいものです。

さて、今回は第三句集『骰子』の「昭和五十五年」から。今回鑑賞した句は、昭和55年の祇園祭の7月から秋にかけての句と思われます。8月には湖北にて鍛錬会を催していますので、〈秋の燈を余呉対岸に探しけり〉はその折の句と思われます。

祇園会や一枚巌の濡れ亘り  『骰子』(以下同)

祇園祭は京都東山の八坂神社の祭礼。中でも、山鉾に提灯を灯し、祇園囃子が奏でられる宵山、長刀鉾を先頭に祇園囃子も賑やかに練り歩く山鉾巡行が最も賑う。この一枚巌も何か謂れのあるものかもしれないが、広々と濡れた様は祭に備えて清められたかのようだ。

孑孒や稽古囃子はすぐ止みて


掲句は〈祇園会や一枚巌の濡れ亘り〉の次の句。この稽古囃子、祇園祭直前の京都の町並で聞こえてきたものか。孑孒(ぼうふら)といえば溝などに溜まった水も見えてきて、下町の景が目に浮かぶ。それにしても、爽波の句に現れる孑孒は何とも楽しそう。

走り藷とどき舂く空があり

家に届けられたのは、晩夏に出る今年最初の甘藷。甘みはまだ薄いが、一足早く秋の気分を味わう。舂(うすづ)くとは、夕日が山の端に入ろうとすること。夏至を過ぎれば日々日は短くなるが、もう走り藷が出る頃になったか、という心情が日の暮を強く意識させる。

さきほどの雨またの雨爽やかに

降っていた雨が止み、止んだと思っていた雨がまた降り、その雨量もそれほど本格的なものではない。これだけの内容をリズム良く詠み込まれていて心地良い。「爽やか」は秋の清々しさを言うが、晩秋では時雨の風情、やはり掲句は初秋の爽やかさと読みたい。

新涼の雨はすかひに見上げけり

秋になって、夏の暑さの合間の涼しさとはまた違った涼を覚える。新涼の雨というと、日差しはありながらもはらはらと降る雨を思う。空から降る雨脚の線と、見上げる自分の視線とが、空中で斜めに交わる。雨というものをとてもクリアに感じさせてくれる句だ。

秋の燈を余呉対岸に探しけり

琵琶湖の北、賤ヶ岳を隔てた地にある余呉湖。天女の羽衣などの伝承のある湖のようだが、Googleマップで航空写真を確認すると、周囲には民家もまばらだ。火灯し頃のさびしさはいかばかりであろうか。そのさびしさが思わず、対岸に灯を探させるのだ。

四阿に居しが根釣に行きしとか

ここには三人の登場人物がいる。四阿(あずまや)にいたはずが根釣に行ってしまった人と、その人を四阿に訪ねてきた人と、ずっと四阿にいて「あいつなら根釣に行ったよ」と教えてくれた人。いずれ劣らぬのんびりぶりで、読む方も悠揚たる気分にさせられる。

下りてゆく根釣の人の見ゆるかな

遠くの方を見やると、釣場へと下りて行く小さな人影。眺望のクリアさと共にゆったりとした時間の流れを湛えた句で、句末の「かな」が景をより明るいものとしている。一句前の〈四阿に居しが根釣に行きしとか〉のその後とも言うべき句。併せて味わいたい。



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