2012-11-18

俳句の自然 子規への遡行08 橋下直

俳句の自然 子規への遡行08


橋本 直           
初出『若竹』2011年9月号
(一部改変がある)
≫承前 01 02 03 04 05 06 07


柳父章氏の『翻訳の思想』や、伊東俊太郎氏の『一語の辞典』(三省堂)に拠れば、明治初期において「自然」を natural の意味で翻訳語としたものは早くからあるが、nature の訳語、つまり名詞として用いたのは、以前ふれた、明治二十二年における巌本善治との論争で森鷗外が用いたのが初めてであるという。それでは、子規が nature の訳語としての自然を知ったのは、いつのことであろうか。

子規が第一高等中学校(旧:東京大学予備門)卒業の年に書いた学期試験レポートに、「科学の原理を読んで感を書す」(明治二十三年「無花果草子」『子規全集』第九巻所収)という一文がある。「無花果草子」は明治十五年からの学校での学業等に関する文章を雑然とまとめたものである(ちなみに冒頭の文の題は「自由何クニカアル」であり、この言葉は以前放映されたNHKドラマ「坂の上の雲」の子規の演説のシーンで使用されている)。この「科学の原理」という書物は、おそらく一高の自然科学のテキストと思われるが、未詳。子規は課題に即して、その内容について思うところを述べている。その第三章「自然の法則」(注記:ロー・オヴ・ネーチュアとルビ)について子規は、テーマ設定を問題視し以下のように述べる。
「大道といひ真理といひ大命といふ 皆宇宙を支配するの法則に過ぎざる也。(中略)是哲学上に所謂自然の法則なり。運動則といひエネルギー不滅説といひ何といひ彼といふ 皆ある現象を支配するの法則にして観測実験の上よりして導き来るものなり。是等の小法則相合して始めて宇宙を統轄するの真理即ち法則となる、これ科学上に所謂自然の法則也 是に於て科学と哲学とは基礎となり結果となり相助け相伴ふて竟に分離すべからざる也」
ここでの子規の主張を簡潔に言えば、「自然の法則」というが、それは哲学の法則でもあるから、このタイトルで語られるのは不都合を感じる、というものである。子規はこの文章を書いた年の秋に帝国大学の哲学科に入学し、哲学者を目指しているから、その問題意識の文脈の上でこのように科学と哲学の考察を行っていると思われる。

子規の主張の正否はともかくも、この文章で、名詞 nature の訳語に「自然」が用いられていることに注目したい。子規はこの語を教科書(あるいはそれによる講義内容)に依拠して使用していると思われる。とすれば、子規が明治二十三年に用いたこのテキストは、鷗外が使った時期と大差はなく、最初期の「自然」を nature の訳語に用いたものの一つとみてもいいことになるだろう。

前にも触れたように、子規が森鷗外と巌本善治との論争を読んでいたかどうかは定かではないし、この訳語がすぐに世に定着したわけでもなく、子規も自然と天然を併用していくことになるのだが、少なくとも、当時日本で最も進んだ教育の行われていた環境の中にいた子規には、新しい訳語の用法にさほど時間差なく目に触れる機会がおとずれていたことがこのことからわかる。

このように割合早い段階で自然を nature の意味で使うことを知っていたはずの子規であるが、例えば後年執筆した「文学漫言」(初出「日本」明治二十七年七月十八日~八月一日。十一回連載)の第七回「文学の種類第四(天然と人事)」では再び「天然」を用いている。ここで『広辞苑』で「天然」の語義を確認しておくと、
①[後漢書賈逵伝] 人為の加わらない自然のままの状態。また、人力では如何ともすることのできない状態。自然。「―の美」←→人工。
②造物主。造化。
③[史記主父偃伝] 本性。天性。うまれつき。
(『広辞苑』第四版)
とされている。現代の辞書では、①は自然と同義であるものの、以前紹介したように、歴史的経緯から nature の翻訳された意味が付与されている自然とは異なる説明となっている。が、明治の子規は「天然」を nature の意味で使っており、かつ、それは彼が特別であった訳ではない。例えばさらにやや後年の明治二十八年の虚子の文。

「深く天然に同感し一草一木の微に至るまでの個性を明らめしは些くとも過去に於ける俳句に重きを為すべし。天地山川草木禽獣虫魚等凡そ天然の客観界は主に空間の美を為すものなり(中略)短文字却てこの簡単なる自然の風景を活写するに適す」(「俳話」初出「日本」明治二八年十月五日より二九年二月五日まで八回連載。傍線筆者。原文の傍点は省略した。)

ここでは、天然と自然が使用されており、現在の視点からみればここでの両語を取り替えてもあまり違和感がないと思うのだが、虚子は天然を nature(自然物)の意味で使い、自然は natural の意味で使っているとわかる。このように、『広辞苑』においては自然に担わされている nature の語意は、まだ明治二〇年代では自然とも天然とも一定してはいなかった。

この後、日本文学の様々な領域において、人工物と対立する概念としての自然・天然から人間のイデーをもって美を表現し詩歌となすということと、人間の作為なくあるがままを言葉に写し取ることこそ美である、ということが併存・混在するが、俳句においても、その根っこをこのあたりにみることができる。

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