2012-12-02

角川書店「俳句」の研究のための予備作業〔後〕 江里昭彦

角川書店「俳句」の研究のための予備作業 〔後〕

江里昭彦



「夢座」第167号(2012年7月)より転載
【昭彦の直球・曲球・危険球】42


12 腐っても鯛、落ちぶれても角川「俳句」

俳句ブームが去ったことで、かつての威勢を失い、落ちぶれてしまった「俳句」誌。しかしながら、依然としてこの誌は俳句商業誌のキングである。俳壇が角川「俳句」を中軸に動いていくという構図に、たいして変化は見られない。なぜかというと、「俳句」誌は単なる商業誌ではなく、唯一の〈格づけ機関〉であるからだ。総合誌と称するものは他にも数誌でているけれど、どれも〈格づけ機関〉としての威信を具えるに至っていない。

かつて「俳句とエッセイ」という商業誌があった。一九七三年の創刊で、二十年以上もつづいたのに、現在ではまったく忘れさられている。また、「俳句朝日」が姿を消したのはほんの数年前なのに、はや話題にされることも稀である。俳壇には忘恩の徒が多いから、ではあるまい。主たる理由は、この二誌がただの商業誌のまま終わったことにある。つまり〈格づけ機関〉としての信望を得ることなく、幕を閉じたためである。

喩えを用いると、俳人にとって、〈格づけ機関〉の性格をもたぬ商業誌は、歌手における地方の劇場・ホールのようなものである。そうした劇場・ホールで公演すると、聴衆が集まるし、ギャラも手にできる旨みがたしかにある。ところが、大都会の檜舞台となると、話が違う。そこで歌うことは一流歌手の証となり、箔がつく。つまり、檜舞台は歌手にとり〈格づけ機関〉の意味をもっているのだ。

こうした信望を得られなかった「俳句とエッセイ」「俳句朝日」の終刊は、ただ発表誌が滅ったことを意味するだけである。いつの世も俳人の最大の関心事は、いま在る発表舞台のなりゆきであるから、消えた商業誌のことが念頭からぬけおちるのは、やむをえないではないか。

わたしの見解では、これまでのところ、〈格づけ機関〉としての性格を具有したのは「俳句」と旧「俳句研究」との二誌だけである。(ただし、旧「俳句研究」は、一九八六年に富士見青房へ身売りされ、角川傘下に吸収された時点で、〈格づけ機関〉の性格を喪失している。つまり、たんなる商業誌に格下げとなったのである)。

戦前の俳句史に大きく貢献した旧「俳句研究」が尊重されるのは尤もなことであるが、それでは、後発の「俳句」が、後発であるにもかかわらず、先輩格の「俳句研究」を凌駕するほどの〈格づけ機関〉としての威信を獲得できたのは、どうしてなのだろうか。この疑問への回答は、一九五〇年代から六〇年代初頭にかけての俳壇の動向のうちに隠れている。だから、われわれは、答えをみつけるために、そのころの「俳句」詰の歩みを振り返る必要がある。


13 総合誌の時代へ

「俳句」の創刊は一九五二年六月である。

意表を突くようだが、ちょっと角度を変えて、歌壇の名編集者として鳴らした中井英夫の発言を聞いてみよう。「短歌研究」の編集長だった中井は、角川書店の「短歌」創刊が投じた波紋を次のとおり描写している(潮出版社『増補・黒衣の短歌史』、一九七五年)。ただし、ここでの「短歌研究」は改造社のそれではなく、四四年から六一年まで日本短歌社が発行した総合誌を指す。また角川「短歌」の創刊は五四年一月であることに注意しよう。
戦後八年間、歌壇を独走して、その強権ぶりを誇っていた(といういい方もおかしいが、やはりおのずから旧歌壇の秩序に従って「強キヲ扶ケ弱キヲクジク」式のところがあったのは確かであろう)「短歌研究」も、これで勝手な真似は出来ないぞというのが、アンチ短歌研究派の胸の裡でもあったろうし、向うはなにしろ昭和文学全集で当てた“大”角川である。早くも原稿料はこちらの五倍は出すそうだなどという噂が乱れとんだ。昔の新歌人集団の面々、つまりイキのいい若手は、みんなもう向うについて、誰と誰が編集参謀をしているといった声もする。〔太字は江里〕
この発言のなかで注目すべきことが二つある。

第一に、五三年の時点で、歌人の大半はすでに、これからは総合誌が歌壇を牽引するという認識をもっていたこと(そうした認識の形成に、まさに中井編集の「短歌研究」は大きく貢献した)。

第二に、経営基盤の安定した角川書店の参入に期待が高まっていたこと(「原稿料はこちらの五倍は出すそうだ」の風評の真偽はともかく、そうした噂がとぶのも、角川書店が大店であったからだろう)。

この二つは、当時の俳壇にもほぼ当てはまると考えてよい。とりわけ後者は、俳人にとって喫緊の関心事であったろう。というのも、戦後に再生した「俳句研究」は経営の苦しい版元を転々として俳人をやきもきさせていたし、新たな総合誌をめざした「現代俳句」(石田波郷編集)も短命に終わり、五一年には姿を消していたからである。そこへ「昭和文学全集で当てた“大”角川」の参入である。総合誌を軸に俳壇が動く新時代へと移行したことは、誰の目にもはっきりしていただけに――「俳句研究」にそっぽを向いた高浜虚子が、「俳句」創刊には祝句を寄せた一件は、こうした文脈において理解すべきである――月刊誌を安定して提供しうる出版社の登場は、多くの俳人に福音として受けとめられたにちがいない。

そして実際、草創期の「俳句」は、期待に十二分に応えたのである。長い引用になるが、飯田龍太は、「俳句」誌が「その後の俳壇に決定的な影響をもたらした」事例を、こう記述し賞賛している。(講談社『日本近代文学大事典』第五巻、「俳句」の項)。
ことに昭和三〇年前後、編集を担当した大野林火は、これら三十代作家に全面的に誌面を提供。活撥な論議を生ましめる一方、三一年四月号に『戦後新人五十入集』を特集、実作面での評価に具体的なデータを示した。ここに登場したおもな人名を抄出すると、赤城さかえ、飯田龍太、石原八束、伊丹三樹彦、上村占魚、桂信子、角川源義、金子兜太、清崎敏郎、楠本憲吉、香西照雄、佐藤鬼房、沢木欣一、鈴木六林男、高柳重信、田川飛旅子、野沢節子、野見山朱鳥、能村登四郎、原子公平、藤田湘子、細見綾子、森澄雄らである。後年同誌において、四三年一月号より十二月号まで特集した俳壇の中核を示す『現代の作家』および四六年二月号より十二月号まで特集した『現代の風狂』は、ほとんどすべてがこれらの人々が対象となったことをみれば、その意義はきわめて大きいものがあったといわねばならない。
飯田龍太は、自分たち戦後派に活躍の場を与えてくれたことに恩義を感じてこう述懐しているのでは、ない。彼は「俳句」誌が、新人発掘にさいして発揮したその見識に、敬意を表しているのだ。だってそうではないか、大家や人気俳人に原稿を依頼して誌面を飾ることなら、馬鹿でも無能でもできる。

総合誌は伯楽でなければならぬ。その見識と力量は、俳句の未来を担う力を汲みあげることができるか否かにかかっている――おそらく龍太はこう言いたいのだろう。実際のところ、彼が列挙した錚々たる顔ぶれは、感動のあまり、膝がわなわな震えるほど素靖らしい。この一群の新人たちは、まさにその後の俳句を〈決定〉した。龍太の記述は過褒でも誇張でもない。そして、戦後登場した新人たちが「俳句」誌へ寄せる信頼は、この時期に不抜のものとなったのであろう。

(くどいようだが、「俳句とエッセイ」も「俳句朝日」もこうした貢献をしていない。ただの商業誌のまま終わったとは、こういう意味である)。


14 文学の力と資本の力

「俳句」誌のかかる功績は、やはり編集長の采配によるところが大きい。初代石川桂郎のあと、一時発行人の角川源義が担ったが、大野林火・西東三鬼を長に据えるや黄全期を現出させたのである。だが、問題は三鬼後に社内人事ばかりがつづいたことであって、塚崎良雄・山田浩路・渡辺寛・室岡秀雄・鈴木豊一らが起用されている(このくだりの記述は、明治書院『現代俳句大辞典』の「俳句」の項を参照した)。ここで、またもや中井英夫の文を引用することにしよう。社内人事へと舵がきられた頃、彼が目撃したあるできごとについての証言である。(朝日文庫・現代俳句の世界13『永田耕衣・秋元不死男・平畑静塔集』所収の「哄笑する人びと」、一九八五年)。
私が角川「短歌」の編集長をしていた昭和三十年代の初め、部屋は社長室の隣りで「俳句」の人びとと一緒だった。編集長は大野林火から西東三鬼、さらに歳時記編集のため秋元不死男もいるという花々しさだったが、現代俳句について一向に無知だった私は、とり立てて畏敬の念も特たず、仲よくおつき合いをいただいていた。
(中略)
昭和三十二年の七月、隣りの社長室へ呼ばれていった三鬼と不死男は――それはもうあらかじめ決まった話ではあったのだが――帰ってくるなりまず不死男が、あの独特の苦笑いを浮かべて一言だけいった。「馘ですわ」
この逸話は、文学の力と資本の力との〈力関係〉の変化を象徴的に語っている。西東三鬼・秋元不死男と角川源義のいずれが俳人として優れているか、と問うのは愚かだ。答えは前者に決まっている。しかしながら、角川書店のオーナーたる源義(すなわち資本の力)は、俳人として格上の三鬼・不死男を、必要なときに雇い、都合が悪くなれば馘にできるのである。それを根にもって、もし三鬼・不死男が協力を拒んだとしても、源義にとってさほど打撃ではあるまい。時代はすでに総合誌を中心に勣いており、これから地歩を固めたい多くの俳人は、「自分をどれだけ高く買ってくれるか」と、総合誌の意を迎えることに汲々としているのだから(角川「短歌」の創刊の際、新進歌人らがみせた迎合ぶりを思いだすがよい)。

月刊誌を全国的な販売網によって多数の読者に届ける資本力を、角川源義はもっている。他の俳人が、彼と同等の資本力をもたないのなら、なんだかんだいっても、とどのつまりは源義に膝を屈するしかない――これが〈総合誌の時代〉の冷厳な現実である。要するに、総合誌の時代は、その始まりにおいて、「俳句にとって資本主義とはなにか」という命題を底に匿していたのである。

とはいえ、源義には文学者の含羞があった。二流俳人のおのれが格上の大家にあれこれ指図するのは、気づまりでもあり心苦しい、という心のうずきを感じていたろう。だが社内から編集長を起用するとなると、この心のうずきは消える。源義は社長命令として編集内容に容喙できるのだ。現場には鬱陶しい指図であっても、それは企業の組織原則にも指揮系統にもなんら反しない。

有力俳人を編集長に迎えるのを止めた理由として、表むきは、創刊から数年たち、社内に人材が育ってきたことをあげるだろうが、真の意図は、源義の俳句観を設計図にして編集しやすい体制へ改造すること(そしてそれを通して俳壇を誘導すること)にあったと見るべきである。わたしは草創期の「俳句」の功績を高く評価する。けれど、編集長人事が社内からの起用に切り換わって以降は、警戒の眼をむけざるをえないのだ。


15 改めて角川春樹の覇権主義を糺す

再び言う、角川源義は文学者の含羞をもちあわせていたと。彼はおのれの器量を弁えていたから、自分を一流俳人として遇するよう求めなかったし、誌面の私物化を図ることもしなかった。彼は終始、学究肌の黒幕としてふるまったのであり、俳壇を誘導したり、気に入らぬ俳句観の流布を妨害したり、対抗勢力を抑えこもうと画策したりしたけれども、おのれの神格化だけは斥けた。

ところが、角川春樹は父親とまるで違う。二流俳人である自分を(二流俳人としての才能はある、ということだ)、風雲児・天才と褒め讃えるよう、あからさまに求めたのである。どうして、そんな厚顔無恥な態度に出ることができたのか?理由は、彼が資本の力について、揺るぎない認識をもっていたからだろう。総合誌を中心に俳壇が廻っている現状においては、総合誌を制する力(資本力)を保有する人間こそ覇者である、という資本主義の論理を信じきっているのだ(残念ながら、と言うべきだろうか、その確信はまったく正しいのである)。

加えて、彼は、大手出版社のオーナーとして、政界・新聞社・俳句団体などに働きかける人脈をもっている。そこから幾多の賞をひきだせば、現代のメディア社会では「実像より大きく見える」演出効果があることを熟知している。とかく大衆は、演出された虚像に靡きやすい。資本力、それを元手にした各界との人脈、そして派手なメディア戦略。これらを駆使して覇権を握ろうとする野心家角川春樹に、さて、俳人はいかに対処したらよいか?

要するに、俳句の世界は、角川春樹の登場によって「俳句にとって資本主義とはなにか」という命題とまともに向き合うことになったのである。それまで浮上しなかった命題が、一挙に、禍々しいまでに極限のかたちで、俳人たちにつきつけられた。はたして、俳壇はいかなる言動、対応、去就を呈したか――関心のあるご仁は、当時の俳句誌や新聞に実際にあたって検分してほしい。かずかずのあさましい人間模様が見られること、請け合いだ。

だが、それよりも、どうして俳句ブームが到来するまで、上記の命題が浮上することがなかったのか、という疑問を解明することのほうが重要だろう。商業出版が主流を占める事態は、すでに戦後経済の復興とともに動かしがたい趨勢となっていたのに、なぜ、俳句の世界がその例外ないしは辺境でありえたのだろうか?

この疑問に答えるキーワードは、俳句界における〈冷戦〉である。一九六一年十一月の現代俳句協会の分裂事件がそれにあたる。


16 冷戦体制の成立

俳壇を超えて世人の耳目を驚かせたこの分裂騒動を、田川飛旅子は、辞典の記述においてこう総括している。(明治書院『現代俳何人辞典』の「現代俳句協会」の項)
遂に昭和三六年末に、結成当初の原始会員を含む多くの会員が突如連袂脱退して、別に俳人協会を作るに至った。分裂の真因は未だにはっきりしないが、表面的には、無季俳句や前衛俳句を全く認めない伝統俳句陣(俳人協会側)と、無季俳句、前衛俳句を認め、広く伝統俳句をも包含する派(現代俳句協会側)と二分した恰好になった。〔太字は江里〕
当事者たちにはいろいろ言い分があるから、「分裂の真因」を確定するのは甚だむずかしかろう。でも、ただひとつだけはっきりしていることがある。角川書店の関与である。「俳句」六一年十二月号に「俳人協会清記」と題する一ページ大の広告がいきなりあらわれ、そこに「角川書店内 俳人協会」と明記してあったのだ。密かに組織され、一斉蜂起のごとく突然名のりでた分裂組織は、当面、事務所や通信手段や備品をもたないから、そうした便宜を角川書店が供与したことになる。

これが、俳句界における冷戦体制の成立である。ごっそり会員を失った現代俳句協会が、事態の進展にとまどい、混乱したとしても、新組織をたちあげた俳人協会の視界は、きわめて明瞭であった。われわれは「健全な」俳句観を蝕もうとする種々の悪しき傾向と断固闘い、これを排除する、心強いことに、角川「俳句」は守護神として支援を約束してくれた、分離して浄化を遂げたわれわれこそ、俳句の正道を歩むものである、という自覚と使命感にのぼせていたのだから(残存者による現代俳句協会が一種の混成部隊であることは、田川の記述からも伺える)。

かくして、六〇年代と七〇年代は、冷戦時代となる。冷戦は結社誌・同人誌を単位として闘われるのだが、〈総合誌の時代〉にあっては、「俳句」と「俳句研究」の舵取りが帰趨を左右するほどの影響力をもつ。そして歴史は、「俳句」のゆるぎない全面支援を得て優位に立った俳人協会と、さほど応援に熱意をみせない「俳句研究」しか頼みにできず劣勢に終始した現代俳句協会、という構図のまま推移したと描写できよう。

こうした対立構図が支配するもとでは、総合誌とは実のところ商業誌であり、資本主義社会において、商品として生産され、流通し、そして消費される出版物なのだという本質規定は、どこかにふっ飛んでしまう。俳句理念をめぐる抗争にひとびとが熱中しているとき、商業誌は、自分か正しいと信ずる教義を伝道する媒体に見えるのである。「俳句」を購読するとは、一営利企業の商品を買うことを意味するのではない、「健全な」俳句観を擁護する闘いへの参加であり、悪しき傾向を駆逐する「聖戦」に賛意を表明することと同義になる。

これは、戦後俳句に固有の特殊状況である。いわば冷戦の重しである。この重しがずっとのしかかっていたから、「俳句にとって資本主義とはなにか」という命題が意識にのぼることは滅多になかったのだろう。逆に言えば、冷戦が終わったとき――つまり、俳句ブームの到来で遊芸派がどっと押し寄せ、商業主義へ舵をきった角川「俳句」が勝利したとき――やっとこの命題が、強欲資本主義のすがたをとって俳壇を翻弄することになったのである。

しかしながら、あの八〇年代、角川春樹によってさんざん掻きまわされても、ほとんどの俳人はアンチ角川とならなかった。なぜならば、草創期の優れた編集の成果と、冷戦期に守護神として後見した実績とを、まばゆい資産として、「俳句」誌は〈格づけ機関〉としてゆるぎない威信を獲得していたからである。「俳句」誌の優越は、まさに戦後俳句史にしっかりと根を張っている。ましてや、高柳重信編集の「俳句研究」が八六年に角川傘下に吸収されたのち、「俳句」が唯一の〈格づけ機関〉となったのだから、「俳句」に逆らったら、日陰の俳句人生を歩むことを覚悟しなければならない(そうした反抗を試みた気骨のある人間がいなかったわけではないのだが)。

端的に言って、俳壇はずっと「俳句」誌の制御のもとに置かれてきた。だから、時が流れ、俳句ブームが去り、「俳句」が落ちぶれた姿をさらすようになっても、なおも多くの俳人は角川「俳句」に従いつづけるのである。まるで他には選択肢がないかのように――。依然としてこの誌は俳句商業誌のキングたる地位を保っている。


17 王様は裸だ――支配の終わりの始まり

では、「俳句」誌の支配はこれからもずっと続くのだろうか?

この質問は、実は、問い自体が答えを招きよせている。支配が終わると確信するからこそ、わたしはこう問いを設定するのである(いかなアンチ角川派のわたしでも、俳句ブームの最盛期にこの問いを発するのは不可能だ)。

でも、断っておくが、「俳句」誌の支配の終結は、かならずしも「俳句」誌の廃刊を指すのではない。また、他の商業誌が王座を奪う事態を予想しているのでもない。支配を終わらき真の力、それはインターネットだ。――と断言しても、わたし以外のすべての俳人は、この回答を奇抜な思いつきとしか受けとらないだろう。したがって、以下の章においては、わたしがそう考える根拠を述べることにする。俳句の話題を離れた記述が延々とつづくが、角川書店という〈私的資本〉による俳壇支配がついに終幕へと向かうという論旨に納得していただくために、それは是非とも必要なまわり道であることを了承願いたい。


18 インターネットの時代

端的に言おう。商業誌という狭い枠内での興亡により、「俳句」が王座から滑りおちるのではない。事態は〈既存メディア対インターネット〉という、カテゴリー同士の攻防のなかで決着をみる、というのがわたしの見解なのである。そこで、インターネットの伸長が、「俳句」を含む雑誌というカテゴリーをいかに脅かしているか、データをふたつ示そう。

ひとつは、日本の広告費の変遷である。二〇一〇年二月二二日、電通の発表によると、前年(○九年)にインターネット広告が初めて新聞広告を抜き、テレビに次ぐ「第二の広告媒体」となった(二月二三日付朝日新聞)。

日本は市場経済の国であるから、商品やサービスを消費してもらうためには、広告宣伝が欠かせない。そして、広告宣伝はそのときどきの勢いがあるメディアに集まることになる。したがってメディア別の広告費の変遷は、どのメディアが主流か傍流かを示す有力な指標と化す。

長年テレビが一位である(2兆円規模)。二位が新聞(1兆円規模)、三位雑誌、四位ラジオとつづき、もともと存在しなかったインターネットは零からのスタートであった。そのインターネットが、下降線をたどる一方の新聞を蹴落とし、二位に躍りでたのである。記事は「休刊が多かった雑誌は25・6%減って3034億円に縮小した」と、雑誌業界には不吉な分析を記している。

ここでようやく、俳句ブームの検証作業において、わたしが広告に留意して観察をつづけた、その真の意図を理解していただけると思う。「俳句」誌から優良企業の広告がごっそり消えたのは、実はブームの退潮が主因ではない。勢いを増すインターネットヘ広告が移動したのが、根本の動因なのである。よって、将来ふたたび俳句がブームを呼ぶとしても、「俳句」誌に他業種の広告が戻ってくることは断じてない。日本の企業は雑誌広告を時代遅れの媒体とみなしており、それはそのとおりなのだから。

もうひとつのデータは、雑誌販売額の落ちこみである。二○一二年一月二五目、出版科学研究所は、前年の取次ぎルートにおける雑誌の推定販売額を発表したが(一月二六日付け朝日新聞)、その額は問題ではない、「前年を下回るのは14年連続となった」のくだりが重大なのだ。この間、好況も不況もあった。にもかかわらず、一貫して販売額が滅っている。こうなると、あれこれ編集に工夫をこらせば挽回できる退勢ではもはやない、と考えるのが妥当だろう。つまり、雑誌文化そのものが衰退へ向かっていると判断するしかあるまい。

雑誌広告費がインターネットに抜かれたのは○六年である。少したつと、雑誌の終刊が相次ぐようになった。「論座」「現代」「諸君!」の論壇誌から、「小学五年生」などの学習雑誌まで、あらゆる分野にわたる。極めつけは情報誌「ぴあ」(首都圏版)だ。かつて最盛期には53万部に達したこの国民雑誌も、インターネット時代に生き残ることができなかった。いまや、「俳句」誌を含め目本の雑誌は、全滅を避けるにはどうすればよいかを、真剣に検討すべき段階に来ているのが実情である。


19 なぜインターネットは雑誌を侵食するのか

遠くない未来において、たぶんこんな会話がかわされるだろう。

「どうして、二十世紀の日本では、あんなに雑誌が繁盛したんだろうね?」
「インターネットがなかったからさ」

冗談を言っているのではない。これは本質をついた指摘なのだ。

そもそもの話をしよう。われわれは結社誌や同人誌に所属している。でも、いわゆる総合誌はこれらより上の層にあって君臨していると、みな考えている。では、総合誌が、結社誌・同人誌に優越する強みはなにか。それは、「月刊誌を全国的な販売網によって万単位の読者に届けることができる」からだ。同じことを結社か同人組織が試みたら、たちまち息がきれてヘトヘトになるに決まっている。(月刊で結社誌を出しているところは、数百部でも、それがいかに大変な作業であるかを痛感しているはずだろう)。

しかるに、角川書店は、社屋を構え、編集部員を雇い、諸経費を潤沢に使いながら、月刊誌を六十年も作りつづけている。大資本を有するからこそ可能な事業である。総合誌は、資本主義に基づく商業出版が成熟した段階においてあらわれる種類なのであり、それゆえ戦後俳句史は、おのずと角川「俳句」の軌跡というもうひとつの顔をもつことになった(もし、戦後の早い時期に参入したのが新潮社や文藝春秋であっても、似た結果になったと思う)。

ところが、インターネットの普及で革命が始まった。まず、インターネットは、個人であっても、安いコスト(資金・時間・労力)でもって言葉を全国の読者に向けて発信することを可能にした。インターネット上にサイトを設けたからといって、「俳句」なみに万単位のアクセスがあるわけではない。それでも、総合誌に載らないと万単位のひとびとに届かなかった作品や評論を、総合誌の介在なしに、個人が直接届けることができる条件が整ったのである。これは、まさに革命と呼ぶに値する巨大な進歩だ。

進歩の第二段階は、動画(動く映像)の配信が可能となったことでもたらされた。

例えば、料理のレンピを動画で公開するサイトがたくさんみつかる。炒めていた食材の色がどう変わったときに、別の食材をフライパンに入れるか、映像をみただけで作り方がわかる――これだと、料理雑誌はいらなくなる。

また、海外旅行で訪れた観光地の最新の情報を、動画をまじえて詳しく紹介する個人のサイトもたくさん見つかる。現地の情報はこまめに更新してこそ役立つ――これだと、旅行雑誌を買うひとは滅るだろう。

事態はもはやこれにとどまらない。「ニコニコ動画」というサイトでは、テレビ局のむこうを張って「生放送」を行っている。(二〇一一年九月一三日付け朝日新聞)。小沢一郎・民主党元代表が出演した自主制作番組は、とりわけ話題を呼んだ。小沢バッシングを前提にしたテレビ局の報道に不信感を強める小沢氏は、主張をそのまま放映してくれるから「ニコニコ動画」への出演を了承したのだと言われている。震災後の五月には「これが福島原発の実態だ!東電現場からの告発」という番組も制作。また、東京電力の会見をまるごと中継することで、会見でなにがやりとりされているか、つぶさに把握できる場を提供するなど、意欲的な番組づくりを展開している。

公式生放送は月に六〇〇本、会員は二〇〇〇万人を超えたというから、侮りがたい勢力に成長したわけである。各テレビ局が視聴率の低迷に苦しむはずだ。

(わたしが疑問に思うのは、こうした動画投稿サイトを利用して、なぜ自主制作の俳句番組が放送されないのか、ということだ。NHKのなまぬるい退屈な俳句番組を駆逐するほどの、内容が濃く、切れ昧の鋭い番組が、どうして登場しないのか?)


20 みんなで言おう「王様は裸だ」と

インターネットは既存メディアのすべてをゆさぶっている。ひとびとは、既存メディアがやっていることのほとんどがインターネット上に〈置き換える〉ことができる事実を発見したのだ。インターネットの普及と雑誌文化の衰退とのあいだには、はっきりした因果関係がある。

新聞の〈置き換え〉作業も進行している。朝日新聞の電子版はその先駆であって、――朝日新聞社の首脳は口が裂けても認めないだろうが――八〇〇万の紙媒体の新聞が近未来に消滅することを見通して、いまのうちに、電子空間のなかでビジネスモデルとして生き残ることを目指したのだと推測される。実際に、インターネット先進国のアメリカでは、新聞の廃刊が相次いでいるのだから。

それならば、角川「俳句」に立ち戻って考えてみよう。「俳句」の誌面はインターネット上に〈置き換える〉ことができるのかどうか、と。答えは、ほとんど置き換え可能じゃないか!

つまり、今後も雑誌形態で総合誌が発行されつづける必要性はない、という結論になる。くどいようだが、インターネットの普及は、そこまで雑誌存立の基盤と根拠を食い荒らしているのである。だから、みんなで声を揃えて言おうではないか、「王様は裸だ」と。


21 六十周年記念という生前葬

今年(二〇一二年)は、一九五二年に「俳句」が創刊されて六十周年に当たる。

五月号が「創刊六十周年記念号1」と称して「60歳からの俳句入門」なる特集を組んでいる。これを見て、編集部なりに事態の深刻さがわかっているのだなと、わたしは可笑しくなった。六十歳以上の高齢者から新規読者を獲得しようというこの戦略は正しい。というのも、高齢者はおおむねインターネットの操作が苦手であり、雑誌に依存せざるをえないからだ。対して、それより若い世代はインターネットを自在に駆使して活発に発信している(俳句のサイトはここ一両年のうちに急増した)。

これは、考えようによっては、現代俳句協会と俳人協会の分裂よりも由々しき事態かもしれない。インターネットと無縁な高齢者層と若い世代とでは、接する俳句の世界が異なるのだから。サイトで話題になる作品・批評にアクセスしない(できない)老人は、他の世代と次第に話が通じなくなるだろう。つまり、共通の俳壇というものが成立しなくなり、割れていくのだ。

六十歳以上を安定した購読層と期待する「俳句」誌は、だから、それ以外の年代を、支配の及ばない領域として放棄せざるをえなくなる。唯一の〈格づけ機関〉として威信が及ぶ範囲も、じわじわと確実に狭まるだろう。

「俳句」誌があと何年もつか、誰にもわからない。六十歳以上から相当の読者を吸収できるなら、ほそぼそとであれ、二十年つづくかもしれない。(目本の老人は長生きだから)。でもそれは、いつ終刊になるか、脅えつづけねばならない歳月でもある。なによりもそれは、かつて俳壇を一元的に支配した尊大な威容とはまったく別の、みじめな老残の姿である。流浪のリア王に従うがごとく、臣従する俳人が必ずいるにしても。

さすれば、創刊六十周年記念を盛大に祝うがよい。いまなら、大方の俳人が王は健在だとまだ錯覚しているから。七十周年記念の頃にはインターネットが俳句メディアの主流になっているから、そうは問屋かおろさないだろう。

長い文章になった。わたしは「俳句」誌の支配が終わると確信している。そう信じる根拠を、資料とデータを示しながら述べてきた。そんなわたしの眼には、六十周年記念の祝宴は、華やかな生前葬のようにみえる。

いやいや、そんな皮肉を洩らすより、予備作業を踏まえて本格的な研究にどう着手するかを考えるべきかもしれない。角川「俳句」の研究とは、一商業誌の内容の変遷をたどる表層的なものに終わってはならない。核心には「俳句にとって資本主義とはなにか」という命題が坐っており、それゆえ〈私的資本〉による俳壇支配がなぜ可能となったのかを、俳句のこれまでの歴史過程を参照しながら、解明するという営為でなければならない。この課題に挑戦するのがわたし自身なのか、それとも三十年後、あるいは五十年後の知性なのかは、問わないでおこう。〔完〕 

〔完〕 二〇一二年四月

4 comments:

匿名 さんのコメント...

もったいない。「俳句」に本気で批判を加えるには、「俳句」程度の媒介でないと微震にもならなかったのだ。残念。インターネットは、少々広がっても消えていく。本当のことをほんとうのこととして実際に影響を与える力にするにはどうしたらいいか。まだ誰もわからないし、できないでいる。

匿名 さんのコメント...

江里さんの真剣さが伝わってくる。まあよくも本当のことを言ってくれた。でも、角川の「俳句」すなわち俳壇は、びくともしないだろうな。俳壇の大物・中堅・新人ともに角川の「俳句」という権威によって、ようやく俳人になっている現状だから。ああ。

匿名 さんのコメント...

結局、角川の俳句への批判にはコメントも出てきませんね。
 明治・大正・昭和初期まで、ホトトギスが俳壇であった。いま、角川の「俳句」が俳壇であり、俳句の世界らしい。角川の俳句批判をする人は、角川の俳句に載せてもらえない人ばかりだと言われて久しいわけで~。角川の「俳句」に堂々と登場する大物が、批判するはずもない。「俳句」に載らなくなったら、ただの人になってしまうから。たまに、マスコミを避けて独自の作品活動をしているもいるが、一部のファンや信者ばかりの同人誌で称えられるばかりの嗜好品で終わり。江里さんの論に声を。

すし さんのコメント...

雑誌がインターネットに押されるという状況そのものは正しいです。ただしネットは拡散的すぎて「格つけ」には機能しない。
新たな格つけには新たな賞を設けるのが一番効果的でしょう。