2013-06-30

【週刊俳句時評81】 時評というもの 筑紫磐井『21世紀俳句時評』をめぐって 上田信治


【週刊俳句時評81】
時評というもの
筑紫磐井『21世紀俳句時評』をめぐって 

上田信治


ここ数日、筑紫磐井さんの新刊『21世紀俳句時評』(東京四季出版)という本を持ち歩いて読んでいました。平成15年にスタートした時評(「俳句四季」連載中)の、10年分120篇から、81篇が収録されています。

「時評」を僭称する当欄として、これに「反応」することは、ひとつの務めだという気がします。



『文芸時評―現状と本当は恐いその歴史』(吉岡栄一)という本があって、小谷野敦のアマゾンレビューによれば「かつてはおおむね、ダメなものはダメだと書いていた文藝時評が、1970年代頃から、褒め批評が主となってしまい、いわば「堕落」した歴史を描いている」らしい(すいません、未読です)。

たしかに、有名だった中村光夫の時評などを見ると(全集6巻)、「百二十枚の長編で作者の久しぶりの力作だといふことであるが、実にひどい小説で、読み終わつてただ何とも云へず腹が立つただけであつた」(昭和17年・丹羽文雄「現代史」への評言)「しかし、それ以後、思はしい作品がないのもまた事実で、この一年の氏の仕事は、現代で才能のある素人が玄人になるむづかしさを示してゐるやうです」(昭和44年・大庭みな子「ふなくい虫」への評言)とまあ、ずいぶんです。だいたい、イヤミ6:褒め3:本質論1、くらいの配合比でしょうか。

「ダメ出し」が、時評の仕事だった時代があったのですね。

それは評価の基準となる「価値」が、共有されていた、あるいは、共有されるべきものとして信じられていた時代の産物だと(この言い方はテンプレですけど)言えるかもしれない。



そういえば、今号の「俳句」(2013/7月号)の「合評鼎談」では、西山睦さんの「この方は「これから俳人」という感じですね(笑)」という言葉が、燦然と輝いていました。

というのは、この欄、今年も毎月、大家の50句作品に懇切な賛辞を贈る「褒め」ページになっていて、それにふさわしく、提示されるものが全般にボンヤリしているからです。

「これから俳人」というのは、同5月号・生駒大祐さんの20句への評言ですが、この鼎談中、5月号を読み返してみようという気にさせるのはこの部分くらいのものです。挙げられていた〈白梅と思ふ拙き木と思ふ〉を未熟と断じる価値観を確かめてみたくなる。

同じ5月号に載った涼野海音さんが、対比するように褒められているのですが「新人ではなく、カテゴリーとしては「俳人」です。安心して読める句が多かった」(同・西山発言)だそうで、涼野さんだって、安心な新人だなんて言われたくなかろうと、思うのですよ。



話を戻して、磐井さんの「時評」集、ダメ出しやイヤミは、ほとんどありません。この十年の日々生産される俳句(主に句集が取り上げられる)について、磐井さんは、極力、意味を見つけようとしている。

巻頭から、星野麦丘人、吉田汀史、鈴木太郎、鳥居三朗、橋本榮治、小島健…といった名前が並びます。自分にとっては位置づけのむずかしい作家をふくみますが、磐井さんは「自意識を適当にはぐらかして、冗談の中で本気を語っている」(星野麦丘人〈われらみなゑのころ草のやうなもの〉)「社会的関心はないように見えながら、鬱勃とした心情をその奧に蔵している」(吉田汀史〈傀儡師が消え戦争が始まつた〉)「単純ではあるが、単純な構成だからこそ伝えられる情感が心地好い」(小島健〈おしまひは黒き煙吐き曼珠沙華〉)といったふうに、作品と作者に、懇切な同情・共感を寄せている。

たいへんおもしろいと思ったのは、この時評集においては日頃の評論や作品で見られる以上に、磐井さんがその「価値」とするものを、韜晦抜きで提示しているということです。

星野麦丘人については、前掲の一文につづけて「思想といえば大袈裟になるが、しかしわれわれの日常の、例えば物を食う、買い物に行くという一瞬々々の行為の判断が思想でないとは言えないように、やはり立派な思想であるのだ」(p.16)と、磐井さんは書きます。

そして考えてみたいのは、彼らが芸だけではなく(広い意味での)思想性を持っていることである。俳句はやはり文学なのだ。(p.19)

人は意外に思うが、俳句は口承詩なのである。愛唱に堪え得る一句を作り、残すことが俳人の使命である。これほど分かりやすく(伝統・前衛・自由律に共通して用いることのできる)一般的な俳句の理念はないのではないか。(p.139)

表現だけで持って行けるところなど現代俳句ではもう壁にぶつかっている(…)思想と表現は対立するもののように見えているが、実はレトリックとは思想そのものであることを現代俳句は体験しなければならないのだ。(p.319)



「時評」というのは「反応」です。

メディアが、日々の事象についての「反応」を、書き手に代理させる。その書き手がしばしば年の切れ目に交替することや、匿名批評という時評のありようは、時評の主体が、個々の書き手より上の審級にあることを暗示しています。

時評という反応が、誰を代理するものかという問いには、いくつかの答が考えられるところです。「読者」の、あるいは「メディア」の代理である、という答も可能でしょうが、自分にはしっくり来ない。たしかに、作品がこきおろされることは、読者の欲望の代行かもしれませんが、中村光夫には、どう見てもある使命感があった。

その「反応」の主語、時評の主体とは、いっそ「ジャンル」あるいはそれを成り立たせる「価値」であると考えるとすっきりします。

中村光夫であれば文学、あるいは小説という形式を、筑紫磐井であれば、俳句というものを代理して、日々のあれこれに反応する。それは、映画時評であっても社会時評であっても、同じことです。

そして、時評は、反応によって、その反応の主体の立ち位置・輪郭を「はっきりさせる」ために書かれます。

時評が、何かをこきおろし、あるいは称揚し、同情をよせることは、その場に求心力を発生させる「価値」をはっきりさせること、すなわち、再生産することを期待されての代理行為です。褒めるか貶すか、アプローチが違うのは、現時点で、どちらがより生産的かということにすぎません。

この10年の俳句について、磐井さんは、日々書かれてゆくものを褒め、肯定しつつ、その中に、未来へつながる「価値」を示すことを選択しました。

上に挙げた引用は、誰もが同意できる無難な内容ではない。しかしたとえば、磐井さんのいう「思想」という言葉の意味は、個々人の立場・立ち位置を超えて、受けとめられてしかるべきものでしょう。

また「やはり俳人はつぎつぎに更新されて行く必要があり、新しい世代を呼び込めない文芸ジャンルは滅ぶしかない」(p.583)という状況認識は、まさに氏の口を借りてジャンル自体が語ったものとして、共有されていいものだと思います。



比べるものではないかもしれませんが、「俳句」誌の鼎談には、ある程度以上の人は褒めなきゃいけないというムードと、三人の方の合意できる浅さで話が止まってしまうことで、語られるべき「価値」が(あるのかないのか)ほとんど立ちあらわれない、という不満を感じます

そういえば、本欄の筆者担当1回め2回めに話題を提供してくださった、「俳句」誌の櫂未知子さんによる時評欄、「安直にではなく、俳句が俳句らしくあるために切字を多用することは、この詩型の原点に戻ることなのではないだろうか」(4月号「切字の復権」)と、これも櫂さんの信じる「俳句」そしてその「価値」の代弁でしょう(どうして、ここで「多用」というワードが出てくるのだろうという半畳はさておき)。

今号7月号は、先日の「詩歌トライアスロン」(2013・4・14「詩歌梁山泊」主催)というイベントのレポート。「よく、「俳句以外の文芸にかかわると句が駄目になる」と言う人がいるが、それは、自身が勉強していないか、自信のない主宰もしくは指導者の戯言に過ぎない」(p.223)とは、思い切って言われたな、と感心。



はじめに、当欄について「「時評」を僭称」と書いたのは、自分にはジャンルの「価値」を代表して書くようなことはできない、と思ったからなのですが。

では、当欄は通りすがりの人間の代弁者として、それ、へんじゃないすか、とか、そういうことを主に言って、あれこれ「反応」していきたいと、考える次第です。



1 comments:

水魚 さんのコメント...

上田信治さんの立ち位置がよく分かります。
筑紫磐井さんの俳句の志や在り方がシンプルで明快です。
俳句の世界を無視しての発言の様に見えて、しっかりと
押さえているのが楽しく、頼もしくあります。
「俳句」の時評は毎回読んでいますが、それぞれの俳人の
評価の根拠が見えてきません。一種の楽屋話です。
もっともそれとして読めば、面白いのかもしれません。
物足りないと思うのは、それは個々の作品と、筑紫磐井さんの
ように勝負に打って出ないからとしか思えません。