2013-07-14

【週俳6月の俳句を読む】幾何 福田若之

【週俳6月の俳句を読む】
幾何

福田若之


飯田冬眞「外角低め」のまなざしは、なぜ、こんなに幾何学的なのだろう。たとえば次に示す表題作。

  若葉風外角低め待つてをり        飯田冬眞

野球か、まあ、ソフトボールとか、ひょっとするとクリケットかもしれないが、「外角低め」というこの認識は、あのストライク・ゾーンという想像上の五角柱を基準にした、空間上のある区画を指し示す言葉だ。この句とともに読まれることで、たとえば次のような句がその幾何学的な語りの性質を明らかにする。

  隅つこが好きな金魚と暮らしけり    同

この「隅っこ」という捉え方は、「外角低め」という言葉と同様に、あいまいでありながら、三次元上のある区画を指し示す言及なのである。さらに次の句は、これら二句に比べて、より明確な、区画への言及である。

  白線の内側にゐる夏の風邪        同

この「白線の内側」という言及が思い起こさせるのは、これらの三句の空間的な把握は、ストライク・ゾーンなり、水槽なり、白線なりといった、ある基準を設けて定められたものであるということである。本来相対的である位置把握が、ある基準を設けることによって絶対化されている。

  賞状の並ぶ仏間や夕薄暑        同

ある賞状と他の賞状との位置関係は本来相対的なものに過ぎないのだが、仏間というほぼ直方体と考えられるべき空間のなかで、それらは秩序立てられて配置されている。

この十句の幾何学的な描写を充分に示したところで、そろそろ最初の問に帰らなければならない。どうして、こんなにも幾何学的なのだろう?

その幾何学的なまなざしの根源にあるのは、おそらく、面への執着とでも言うべきものだ。

  砂ぼこりあげ丸刈りの夏来る        同

  落城や水面に映る桐の花

  土踏まずなきペンギンの涼しさよ

ここでは、丸刈りの頭皮や、水面や、ペンギンの偏平足といった、いわば面としか捉えようのないものが描かれる。この面への執着が、一方では、こうした立体からその表面、テクスチャーだけを句の中へと奪い取ることにつながる。

  翡翠の川面の色をはがしけり        同

  咆哮を忘れし虎や合歓の花

声を失った虎がなお虎と認識される所以は、なによりもその体の表面に広がる縞柄のテクスチャーだろう。

三次元の幾何学にとって、立体は全てその表面のありようによって把握される。それはたとえば、「正六面体」とか、「球面」といった立体の幾何学の言葉によく現れているだろう。「三角柱」などの言葉にしても、それは底面による把握なのである。そして、こうした幾何学のまなざしは、そのまま、3DCGの、ポリゴンの構成によってテクスチャーさえ表現する描画の形式へとつながっているのだ。

しかし、ここまで来てなお、あの問いに答えることが出来ない。いったいどうして、こんなにも幾何学的なのだろうか?

問いをずらしてみよう。なぜ、答えることができないのか。この十句の外にしか、おそらく理由がないからなのだ。

この面への執着をフェティシズムと捉えて説明付けることは容易に思われるかもしれない。だが、そのとき、フェティシズムは誰のものか。作者のものということになるのだろう。しかし、フェティシズムを持つと称される当の作者の虚像はどこから生じたのか。その虚像はまさしく作品から生まれたのだ。

結局、作品抜きに作者の、作者としてのフェティシズムを確認することなどできない。だから、フェティシズムは、作品がこうあることの本質的な説明にはならない。同じことが、ほかのあらゆる理由付けにも言えるだろう。外に理由を求めても、外に出られないのである。

だから、この分析は、句が幾何学的である理由を暴きたいという欲望から始まって、その幾何学的様態の明らかさに言及したのち、理由を暴けずに終わることになる。

だが、幾何学的なまなざしというのは、まさしくそういうものなのではないか。幾何学は、正三角形の性質を明らかにこそすれ、正三角形がなぜ美しい性質を持つのかにはついに答えることができない。はたしてピタゴラスは宗教の虜となった。とはいえ、幾何学的なまなざしが、かならず何かしらの盲信へつながるというわけではもちろんない。

幾何学的なまなざしをとる場合には、根源的な問いを取り下げることがオカルトを回避する。そして、「外角低め」の十句の潔さは、なぜ白線なのか、なぜ内側なのか、といった設問の可能性に逆らって、そうした根源的な理由を一切問わないことにあるのだ。十句は事物や現象に理由を求めることなく、ただ指し示しているのである。

  祀るもの多き東京飯饐える    同

この句の、「祀るもの」を数の多少に還元する乾いたまなざしの徹底には、もはや当の数への信仰さえ入り込む余地を持たない。この句にあるのはただ、東京という区画と、そのなかで無数に配置され点在している寺社仏閣や仏壇などと、そこに等しく配置されるお供え物の飯、そして最後にそれらへ注がれるまなざしとだけなのである。



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