2013-07-28

朝の爽波77 小川春休



小川春休




77



さて、今回は第四句集『一筆』の「昭和六十一年」から。今回鑑賞した句は昭和六十一年の冬から春へと移り変わる頃の句。昭和六十一年、「青」二月号から連載開始となった「枚方から」は、次のような内容でした。ほんのさわりだけ御紹介。
(前略)俳壇の諸氏が何かといえば好んで引用される、かの有名な芭蕉のことば、即ち、「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」。長年に亘って俳句を「瞬時の詩」と考えてきた私はこの言葉に長くこだわり続けてきたし、大方の俳壇諸氏のその解釈なり、実作への適用の仕方なりにかねがね疑問を持ち続けてきた。
 一口にしていえば、「いまだ心にきえざる中に」がいかにもまどろっこしくてならぬ。「ひかり」とあるからには、見えたと思ったその時には既に消え失せている性質のものの筈だから、「ひかり」に瞬時に且つ反射的に対応せよとの物言いである筈だというのが、この言葉に対する私の受け止めである。
 そして芭蕉の時代には、瞬時とか反射的にとかいう言葉が無かったから、止むを得ずこの様な言葉として書き遺されたに違いない。
 私は自分の長年に亘る実作体験の中から、こう読むのが正しいのだと確信している。(後略)

(波多野爽波「枚方から・瞬時の詩」)
外套に松毬一つをさめたる  『一筆』(以下同)

大人数で賑やかにと言った風情ではなく、一人もしくは僅かな人数で訪れた冬の浜辺。地に落ちている松毬を拾ったのは、ほとんど無意識の行動であったろう。「をさめたる」に、その手付きの優しさ、外套のポケットの大きさが見えてくる。瑞々しさを湛えた一句。

剪定の脚立の足の掻きし土

伸びすぎた枝や枯枝を取り除き、観賞用の花木や庭木の形を整える剪定。掲句は恐らく歴とした職人による剪定、木の下に散らかっていた枝や葉も綺麗に片付けられ、小ざっぱりとした庭土の表面が見えている。そこにはまだ鮮明に、脚立の足を引き摺った痕跡が。

墨湛ふれば剪定の音おこる

柿食えば鐘が鳴ると言うのと同じく、墨と剪定にも因果関係は無い。爽波自身は「授かり物」という言葉を使ったが、こうした偶然を見出すのも、写生の目指す所。墨を摺るうちに雑念が消え静寂に包まれた頃、おもむろに起こる剪定の音。枝を切る、鋭い刃物の音。

剪定のそつくり脱いで湯に浸る

伸び過ぎた枝や枯枝を取り除く剪定だが、掲句は果樹の剪定か、それとも庭木であろうか。いずれにせよ、一仕事終えた後、樹木の屑がたっぷり付いた衣服を脱いでの入浴は気分が良いもの。剪定の後ならまだ日も高い。昼風呂もいつもと気分が違って良いものだ。

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