2013-11-17

空蝉の部屋 飯島晴子を読む〔 12 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 12 〕


小林苑を


『里』2012年1月号より転載(加筆)

きつねのかみそり一人前と思ふなよ   『春の蔵』

ツイッターに『飯島晴子bot』というのがあって一日数句、時間をおいて一句ずつツイートされる。どなたがやっているのかは知らない。

例えば、十一月の或る日は、< 船の本と青紫蘇の葉をならべておく > < 鮎くさき手を茫々と与へけり > < 盆が来る家鴨のねむる夜の川 > < 鬼婆の帚草かよあをあをと > < 黒い眼帯してあつまれよ翡翠に > いずれも、どう解釈していいのか分からない。意味を追えばわかる句もあるが、それとてもそんな解釈でいいのかという気がしてくる。

俳句は解釈するものではないという意見もあるだろうが、言葉は解釈を迫ってくるものだ。意図的に拒絶する句だとしても、読み手は、理解の拒否という深い谷間を掻い潜って、なにがしかを了解しようとする。この了解なしには、共鳴・共感にたどり着くことができない。

もうひとつツイッターから。四ッ谷龍氏が「『自分がどうしてもやりたいと思ったことをやれ』飯島晴子さんから教わったことをひとことで言うなら、これに尽きる。晴子さんに会わなかったら、自分は今俳句を作っていなかっただろう」と語っている。

晴子は何をやりたかったのか。

俳句を始めてからの旺盛で積極的な活動を概観しておきたい。まさに水を得た魚のごとく、才があり、いろいろな意味で環境に恵まれ、決断の人でもある晴子は、俳句の可能性の海を力強く泳ぐ。

栗林浩『続・俳人探訪』(2009年2月・文學の森)に「飯島晴子探訪」がある。丁寧に俳人を追い、率直に自説を述べる潔く気持ちのよい著作だ。冒頭、晴子の俳句活動を簡潔かつ過不足なく紹介しているので引用する。
「昭和三十四年(一九五九)『馬酔木』の能村登四郎の藤沢の句会で俳句を始める。翌年、三十九歳で初投句し、一句入選した。次の句である。<一日の外套の重み妻に渡す > 」

「昭和三十九年(一九六四)四十三歳のとき、藤田湘子ら『馬酔木』若手同人で『鷹』が創刊され、晴子も同人として参加。< 谺が待つ山の郭公鳴き出すを >  晴子は彼女の出発点であったこれらの句を、第一句集を出す前(昭和四十二年ころ)に既に捨てている。」

「昭和四十四年(一九六九)四十八歳、『俳句』の中堅作家特集に磯貝碧蹄館・鷹羽狩行・鷲谷七菜子・友岡子郷とともに取り上げられる。その前後、藤田湘子の家で高柳重信の知遇を得たり、多くの座談会に倉橋羊村・平畑静塔・和田悟朗・折笠美秋・平井照敏らと出席したりする。終生の仲間阿部完市を得、金子兜太、永田耕衣を知り、多くの作家論を著し、引き続き座談会をこなす。その範囲は宗祇・世阿弥にも及び、俳句文学会の井本農一・松村友次らとも面識を持つ。阿部完市と書いた『現代俳句ノート』を持って飯田龍太を訪問したのは昭和五十二年 (一九六九)五十六歳であった。俳壇での知遇の広がりと著作活動の質と量は驚くばかりである。」
この間、あちこちを吟行し、句集を上梓する。

栗林は、第四句集『八頭』について、「(『春の蔵』から)一転して殆どが平明な句となり」「難解句は……これが不思議に二句しかない」と書き、以降(栗林を悩ます)難解句は第六句集『儚々』にある < かくれみのうしころしとて梅雨の樹々 >一句だけだという。

確かに、難解句は『春の蔵』までの句群と言って差し支えないだろう。それらの句はなぜ生まれたのか。この時期の活動の概略を知るだけで、三十九歳で俳句をはじめてからの積極的な姿勢を感じてもらえると思う。

俳句形式に魅了され、さらに俳句の側から愛される人がいると感じることがある。飯島晴子はそんなひとりだ。時代、経験、加齢、そうしたものを越えて、晴子句には凛とした空気がある。

掲句の「きつねのかみそり」はヒガンバナ科の草花で、本州から九州に生育し、お盆のころに、形は違うが、彼岸花と同じ紅い花を咲かす。花期には葉はないが、葉の形がカミソリに似ていることからこの名が付いたという。きっと晴子はこの名前に惹かれたのだろう。

花期から初秋の季語として分類されるのだろうが、句は季節を離れ、狐の登場する民話や剃刀という言葉にまつわる鋭利さから、「一人前と思ふなよ」と言う囁きに導かれる仕立てで、まさに剃刀を突き付けるような措辞が、民話絵本を読むような平仮名の連なりとともに置かれることで、いっそう場面の雰囲気が伝わってくる。一度読んだら忘れられない口承性も晴子だなァと感じる。

難解ではない、むしろ分かりやす過ぎるくらいの句ではあるが、晴子らしさが詰まっている。なにより、俳句形式により成り立っている句である。

前衛の方法に後押しされつつも、晴子句は抽象やシュールからは遠い。晴子は自らの内側にあって未だ言葉にならなかった、それ故に出会っていないものを見ようとしたのではないか。形式に出会い、その枠にはめ込むことで表出される民俗的心象。

この句は、晴子自身の自分を律しようとする、そうであらねばならない在りようなのだと、読み手の私は勝手に解釈する。

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