2014-04-13

特集「ku+」第1号 読み合う 思い起こさせる句、思い起こされることがら 古脇語 

特集「ku+」第1号 読み合う 
思い起こさせる句、思い起こされることがら

古脇語 


ふらここにつめたき石の乗つてゐた 依光陽子

容易に想像のできる公園の景、かつ寂しい景である、と書いて何が寂しいのか説明できないことに気づいた。

この句の中で気がかりなのは中七の「の」だ。「の」はこの句において、文語風の文体と口語風の文体との危うい接着の役割を一手に引き受けている。そしてまた、この「の」――「が」ではなく「の」――により、下五はその続きに言葉をほしがるようになり、読者に五七五のさらなる続きを欲情せしめる。

このセクシーな「の」が私を寂しくさせたのかもしれない。


蒸気で動く詩作家 枯れ木たちが喘息を患う 福田若之

連作のタイトルである『悲しくない大蛇でもない口が苦い』は、週刊俳句149号に掲載された裏悪水の自由律10句作品『悲しい大蛇』へのオマージュであることは疑う余地がない。それは例えばこの連作の〈濡れた指にも満たない冬の虹立つ〉と

中指が濡れているから知覚  裏悪水
それもよかろう男根は懐かしい虹

辺りの関係を見れば明らかだろう。

俳句自動生成器の人格である裏悪水(といってもいいだろう)の特徴は、自動生成であるがゆえに連作としてのテーマ性や巧緻な構成が生まれにくいということだ。言葉の間の飛躍は多少俳句を読みなれた人であれば普通に読めてしまうし、そこが自動生成器と俳句の神話性になっている。自動生成には、ムードはあってもシーンはない。

他方、福田は自動生成風の筆致にシーンを与えるとどうなるかという実験を行っているように思う。

よって、読者はまじめに一句一句の出来を品評するよりも、このコンセプチュアルな連作を俳句自体がどう受け止めているのかを味わうべきだろう。

この作品は自動生成へのオマージュであると同時に、俳句自体へのオマージュでもある。


かなしみと呼ぶ秋草の冠を 杉山久子

スネオヘアーというアーティストの楽曲に「悲しみロックフェスティバル」というものがある。自分を「悲しみ」と名乗る「君」との出会いから始まる曲で、恋人を悲しみという言葉で表した歌詞のようにも思えるし、また、悲しみを擬人化したようにも思われる。その曲は、

「悲しみ」が消えてゆく
「悲しみ」のいない悲しみ
「悲しみ」のいない悲しみ
「さよなら」と「悲しみ」に

という歌詞で終わる。悲しみという感情はそれ自体が自らの呼び水となりやすい感情なのか。

この句に描かれるかなしみのなんと美しいことか。はかない秋草の冠は、かなしみと呼ばれることで美しさを増す。それは失われるということを前提とした美しさであり、それが美しさの定義であるとすら思われるのだ。


また数を忘るる柚子を数へけり 阪西敦子

この句は私に虚子のことを思い起こさせた。私は虚子の作品のいくつかに強い狂気を感じる。たとえば次のような。

来るとはや帰り支度や日短  高濱虚子
村の名も法隆寺なり麦を蒔く
一つ根に離れ浮く葉や春の水

それは、私の中の「自然」に土足で踏み入ってくるようで、読んでいて恐ろしくなる。狂気を人が恐れるのは、それが実は日常性と地続きに存在しているからではないか。

この句もまた、素直なようでいて恐ろしい俳句である。それは行為の反復が永遠に続くことへの恐ろしさというより、この柚子の数を数えなおすという行為が私の内部に読む前から既にあったということに読んだ後に気づかされることへの恐怖である。読者と作者の間の距離が異様に近いこと。それこそが狂気だと思うのだ。


ぶれて映る秋の六文字ありにけり 関悦史

句の中の「六文字」が何を指すのか、それを詮索することはここではしない。

この句において注目すべきは、雑音のように句に入り込み、しかしこの15文字の文字列を俳句であると確かに規定する「秋」という言葉である。この茫洋としてなにをも具体的に明示することのない季語のせいか、この句からは何色の景色も生まれていないように感じる。

これが散文の書き出しであったなら、興味深いイントロだと思うことだろう。しかし、俳句はその姿以外に何も描かない。だから私は、この空白をしずかに受容するしかない。


文鳥や用もなく見る野菜室 山田耕司

現在の電気冷蔵庫は、冷蔵庫が季語ではなく季題として成立していたころの氷冷蔵庫などとは違って、その内部の空間に実に細かな区分けがされており、その与えられた区分けに従って私たちは食品を分別し、保存することになる。卵置き場には卵しか置けないようになっている。また、そこまで極端でなくとも、野菜室は野菜室として洗練され、また冷凍室は冷凍室として洗練されていることは、私たちには一目ですぐに判断できてしまう。

見方を変えれば、私たちは、予め用途を定められた区分けの存在によって、区分けを考えることを放棄させられているのである。したがって、説明書を読むと読まないとに関わらず、今日、私たちが家電を購入したときにしていることは家電の使い方を自ら編み出していくことではなく、メーカーによって予め与えられた使い方を習得していくことである。

この句は、家電を前にしたこうした思考停止の状況を、何気ない言葉で切り取って見せているのではないだろうか。私たちは、道具があるとそれに触りたくなるのである。テレビがあると、つい点けてしまう。冷蔵庫があると、つい扉を開けてしまう。私たちは、そうして考えることを止め、道具に慣らされていく。

それはあたかも、言葉を綴る人間がすでにある文法や言い回しに自然と慣らされてゆくかのように。


あたらしい君がやさしい秋刀魚の夜 佐藤文香

私たちは、進行中の恋愛の物語において、人は変わっていく、ということを忘れがちである。

たとえば荒井由実の「卒業写真」が端的に示しているように、私たちがこれまで抱いてきた物語では、その変化はむしろ失恋において発覚する事柄のひとつなのである。

そして、進行中の恋愛をめぐる物語においては人間の変化が隠蔽されてしまうということの、ひとつの究極形態がセカイ系だったのではないか。セカイ系には、変われない「僕」が「君」が変わることを恐れる思いから、「君」の代わりにセカイのほうに変わることを押し付けるという物語類型を、登場人物にマンガ・アニメ・ゲーム的な新陳代謝しない身体と精神を与えることで実現する作品群としての側面があった。

こうしたものに対して、この句は「あたらしい君」という言葉で、その幻想をまっこうから否定するものである。

この句はナイーブに見えて、実のところは、恋愛物語におけるナイーブな「僕/君」感覚の乗り越えにほかならない。そのむしろ恋愛に関してドライな現状把握が、作者の内面のナイーブさと響き合い、片言のつぶやきと俳句とを往還しつつ非幻想的な恋愛という主題を俳句形式として書き留めることに成功している。


風は冬あなたであつた人と会ふ 生駒大祐

この句もまた、ナイーブな「僕/君」感覚の乗り越えでありうる。だが、この句を〈あなたが秋を忘るる頃に会ひにゆく〉、〈会ふときは梨を手渡したし いつか〉という連作の終わりを彩る二句とつき合わせ、さらにそこに現れている季節の変化と「あなた」の変化を引き合わせるとき、この作品における「あなた」は、変化しながら結局最初の状態へ帰っていく何者かであるようにも思われる。

そしてまた、この物語の全体は、恋愛の物語よりはむしろ、失恋以後の物語を描いているように思われもするのである。その意味では、この作品の物語は既存の形式に従ってなされたものとも読み取れ、またこの作品の受け入れやすさは、むしろ、そうした形式の活用がもたらす力なのではないかとも思わせられる。


ああ君の額に妙な突起物 谷 雄介

結局、この作品の並びの中でもっとも無粋に、そしてそれゆえにもっとも力強く、俳句における恋愛の物語を規定してきた幻想を破壊しているのはこの句である。だが、幻想を否定するしぐさのあまりのそっけなさ(「妙な」という措辞!)によって、この句もまた即座に恋愛以後の物語へと到達してしまったようだ。

恋愛以後といっても、それは失恋以後を意味しているのではなく、むしろ別の結末、結婚以後のことである。この感覚は倦怠期のそれをありありと映し出しているのではないだろうか。

この句が無季の句であることもその印象と結びついている。恋はひとつの季節であるが、結婚生活には季節という比喩は似合わない。進行中の恋愛であることを維持しながら恋愛対象の決定的な変容を察知するのは、私たちの物語の上ではかように困難な作業なのである。


迷路ではない浮世の岸の秋だらう 高山れおな

私が中学生だった頃、『世にも奇妙な物語』で、世界が自分に見せられるために捏造されたものであると考え、行ったことがないロンドンの存在に対して疑いを持つ男が、精神科医に自らの考えを説明するのだが、実は彼はアンドロイドで、その物語の世界にロンドンは存在せず、彼の記憶は精神科医に扮した開発者たちによって全て作られたものであった、という話があったのを思い出した。今思えば、これは現象学的な発想を利用したSFではよくあるシナリオではあるのだが。

なぜこんなものをいまさら思い出したのか、思い出させられているのか不思議でならないのだが、とにかく、この「ロンドン秋天」と題された作品からは、ほとんどロンドンの都市の姿が立ち上がってこないのである。

それもそのはず、作品の大部分が大英博物館での春画展に由来しているからなのだが、ロンドンそのものではなく、ロンドンから日本へ向けられたまなざしを捉えたこの作品を、あの男と同様にロンドンの存在実体を知らない私が読んでいるという事態の奇妙さは、思考の「迷路」とでも捉えたくもなるものでもあった。


冬鳥とわたしが首をかたむける 上田信治

冬鳥とわたしが首を傾けた仕草と理由は全く異なるものであるはずだ。しかし作者は、その距離を無造作につなげてしまった。そこから何が生まれるか。

日本では『地下鉄のザジ』や『文体練習』などで知られているレイモン・クノーは、『ファヌ・アルメの冗長さ』という作品において、ハイカイザシオン(俳諧化haï-kaïsation)という手法を生み出している。マラルメのソネットから脚韻部だけを取り出して、より短い別の形式に仕立てて見せたのである。

クノーがソネットから西洋化された俳諧を生み出したのとは逆に、上田は次に示す日本化されたソネットから俳句を生み出したのかもしれない。

素直な疑問符 吉野弘

小鳥に声をかけてみた
小鳥は不思議そうに首をかしげた。

わからないから
わからないと
素直にかしげた
あれは
自然な、首のひねり
てらわない美しい疑問符のかたち。

時に
風の如く
耳もとで鳴る
意味不明な訪れに
私もまた
素直にかしぐ、小鳥の首でありたい。

「素直にかしぐ、小鳥の首でありたい」と欲する言葉は、そうであることから自らを限りなく遠ざけてしまう。冗長さを捨てたところにはじめてほんとうの「自然な、首のひねり」を自らのものとする主体が出現する。



巻末プロフィールにも同様のことを書いたが、創刊号を見て改めて、このような雑誌に関わることができる事を幸せに思う。


 

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