2014-08-10

【週俳7月の俳句を読む】現代人の一日一日から生まれる詩 小池康生

【週俳7月の俳句を読む】
現代人の一日一日から生まれる詩

小池康生



●木津みち子 『それから』

茉莉花や晴れた夜だけ戸の開いて

<晴れた夜だけ戸の開いて>が魅力的。晴れていない夜は、戸が開かないのか。そもそも戸が開くとは何を指しているのだろう。戸を開け放しているのか、まったく出入りのない戸が晴れた夜だけ開くということなのだろうか。ジャスミンの香りが家にまで入ってくるのだから、開け放しているのだろう。夜だから香りが引き立つのだ。しかし、どうして夜だけ開け放つ?昼間は開け放たない?暑いから開け放たないよね。晴れた夜だけ。湿った夜は開けない。そういう人であり、そういうお家なのだ。茉莉花の香と夜風を楽しむ人。茉莉という字面から森茉莉を連想して、それも可笑しい。

 いつもある木に触れてゐる遠花火

いつも/ある木に触れてゐる遠花火
遠花火が、毎年同じ木に触れているように見えるという句意だと思うし、それはとても面白いのだが、
<いつもある木>に<触れてゐる花火>とも読める。
<いつもある木>とはなんだろう。木は、いつもあるに決まっている。・・・そんな意地悪な読みをしなくてもと言われそうだが、書いてある通りに読めばそうも読めるのだ。

この十句の中には気になる句がたくさんあり、しかし、どこかでうるさいおっさんになりそうな自分がいて、そういう自分が煩わしい。


●関 悦史 『ケア 二〇一四年六月三〇日 - 七月一日』

マスメディアがchoros(ころす)四万人スマホ灯し

6月30日と7月1日、首相官邸前で大規模な集団的自衛権反対デモがあった。しかし、それはマスコミではたいした報道もされず、参加者がスマホで実況していた景なのだろう。「choros」は、「古代ギリシャ劇の合唱隊。劇の状況を説明するなど、進行上大きな役割を果たす」。参加者たちの姿を指してもいるが、マスメディアが、chorosの役割を果たさず「殺す側」に力を貸しているとも読める。

一連の作品は、その二日間を詠んでいる。俳句という器に盛れる内容か、その器に似合う内容かなど関係はない。現代で起こっている重要なことを現代に生きる作家が描くということだ。その姿勢に共感しつつ、この才ある人がデモを散文のルポで描けば、きっと相当な迫力だろうと想像に難くないし、是非読みたいとも思う。だからと言って、この俳句作品群を否定するものではない。


●鴇田智哉 『火』

すりガラスから麦秋へ入りたる

麦秋に磨硝子の取り合わせが面白い。これを「すりガラス」と表記するところがこの作家の世界なのだろう。麦秋の見事な色彩の世界に入る前に、磨硝子越しの麦秋を見せ、そこから一転鮮やかな世界を提示する。それをもっと鮮やかにカッコ良く描こうと思えば描けるのだろうが、この作家独自のテンポや言葉の選択に揺るぎない。一見モサーッとした文脈でありがら(失礼)、心憎いまでに的確にものごとを捉えていく。どの作品を読んでも、この作家の細胞からでている分泌液のようなものを感じる。

ハンカチが平たくひらき日は一つ

だからどうしたという世界だが、じんわりとハンカチの上にある太陽を感じるから不思議だ。しらーっと無茶苦茶なことを書き、確かに詩を感じる。

河骨のちかく通話をしてゐたり

この「通話」が面白い。河骨の形状から、昔の拡声器や電話を連想できないこともないし、それをネタにすればだいたいが自滅の道かと思うが、この「通話」という言葉の選択が、微妙に一句を成立させ、あやういけれど独自な世界が成立する。

かなかなといふ菱形の連なれり

これも写生。少し気持ち悪いが、「菱型」と「連なる」で、景が鮮やかで、長らく覚えていたくはない景だが、残像がしばらく残る。

現代の新しい作家にとって、この人が先人として大きな役割を果たしているのではないだろうか。


●福田若之 『小岱シオンの限りない増殖』

前書きのある句を見ると、まず「面倒くさい」と思い、多くの場合インテリ趣味が鼻につくのだが、この一連の作品には、そういう思いが湧かず、どこか透明なイメージを抱き作品世界に引きこまれる。


「もしわたしが三人いたら、ひとりを仲間はずれにするだろうなって思う。四人でも」
夏の夢の先客がみな小岱シオン

リラダン男爵に相当する主人公の登場である。
前書きと書いたが、これを前書きと言っていいのかどうか。
もっと新しいものかもしれない。その内、この書き方には、「前書き」とは別の呼び名がつけられるかもしれない。わたしが今、それを命名できないのは残念だが・・・・。
宿帳に「小岱シオン」の名が連なっている。理屈抜きで面白いではないか。
物語の始まりとしては抜群である。


「嘘なんてついてないし、ただ、意味のあることを言ってるだけ」
小岱シオンの表面上の夏の雨

詩を持ったライトノベル、そんな感じがしないでもない。


 「このあいだ知り合った人から、今何してる? ってメール来て、めんどくさかったから、細胞分裂、って返したら、なんか話が続いちゃって」
鏡にぶつかる小岱シオンと玉虫と

誰としゃべっているのだろう。小岱シオンは小岱シオンとしゃべっているのだろうか。玉虫色に面白おかしく変化する自分が、自分と同じ速さで変化する自分と語りあっているのか。


「本がメディアだってみんな言うけど、むしろこの世界のほうが、私と本とつなぐ媒体なんじゃないかと思うんだけど」
蜘蛛を湿らす小岱シオンの青い舌

この世界とは、どの世界だろう。単純にインターネットと受け止める。
単純がいい。別に複雑なものとして読まなくてもいいと思う。 


「、まあ。世界とかなんとかってだいぶ寒いけど」
小岱シオンの比重で暑い死海に浮く

この「、」は誤植ではなく、作品なのだろうか。死海に浮くリズムのなかで、「、」から始まる呼吸なのか。


「God-zillaっていうけど、ゴジラはいつから神様なわけ?」
ゴジラ脱がせば日焼けの小岱シオンぷはあ

今、わたしは、勝手に、「  」と句の間の行間を詰めて書いているけれど、実際には、空白の行が存在する。ということは、前書きでも、前書きに進化したものではなく、台詞と俳句の組み合わせによる作品世界と読んでいいのかもしれない。


「ぷはあ。『友人たちとビールを飲む行為は芸術の最高形態である』。意味分かるでしょ?」
 はじまりの小岱シオンの土偶に蚊

無茶なことを書かれると、ある種の疲れを感じ、集中力が急激に減退するのだが、この一連の作品に脳の血流が心地よい。意味分かるでしょう?分かりませんけど。


「だから嘘なんてついてないしただ意味のあること言ってるだけだって」
小岱シオンは轢かれ飛ばされ蝉鳴く中

死んだり生まれてりしているぞ、この主人公。嘘じゃないんだ。


「その人は……なんというか、あらゆる物語の背景にいそうな人で、僕には、トロイにも、ナルニア国にも、ウクバールにも、ボードレールのパリや福永耕二の新宿にも、書かれていないだけで、本当は彼女がいるように思えてならない。僕は実際、一九世紀に撮られたロンドンの風景写真に彼女を見つけたことがある。」
日々を或る小岱シオンの忌と思う

わたしは先ほど上記の作品に「玉虫色に面白おかしく変化する自分が、自分と同じ速さで変化する自分と語りあっているのか」と書いたが、結構あたってるんじゃないの。当たるとか外れるとかじゃないけれど。この主人公、次々と生まれ変わっているのだ。


「はじめまして、小岱シオンです」
また別の小岱シオンの別の夏

あぁ、はじめまして。ホント、初めてですよ、あなたみたいな人。その名前にもきっと何か仕掛けがあるんでしょうねぇ。でも黙ってて欲しいなぁ。その内、不意に自分で気付くと嬉しいから。作者にも読者にも別の夏ですよ。

7月の作品群、現代の作家が、現代で生きる一日一日と向いあって書かれているのを感じる。ちょうど、今日読んだ柿本多映さんの『ステップ・アップ柿本多映の俳句入門』(文学の森)にあった一節を思いだす。

巻末の特別エッセイ「閒石俳句の周辺」の中にある。少し長いが引用させていただく。

〈(略)ところで、先生は句会の帰りの酒場で一杯やりながら、時々私たちの質問に対して「俳句なんてどうでもいいの」と例の調子で呟かれることがあった。私は心の中で「どうでも良いとは、どうでも良くないことだ。これは先生一流の裏返しの精神だ」と決め込んでいたのだが、やっとその言葉が那辺にあるかを理解できたように思う。それは多分、俳句を書く以前の問題であり、最も身近な日常生活の中にあって掴みどころのない深さを、どれだけ感じることが出来るか。日頃、われわれはさりげなく過ごしている日常をしっかり生きることによって、人間として何が大切であるかが自然に体に刻みこまれるということへの喚起の言葉であったと今にして思う。当然それは俳句にも繋がる。つまり無意識の意識ということになろうか〉

あー、おもしろかった。


第376号 2014年7月6日
木津みち子 それから 10句 ≫読む
関悦史 ケア二〇一四年六月三〇日 - 七月一日 12句 ≫読む
第377号 2014年7月13日
西原天気 走れ変態 9句 ≫読む
第378号2014年7月20日
鴇田智哉 火 10句 ≫読む
第379号2014年7月27日
荒川倉庫 豚の夏 10句 ≫読む
福田若之 小岱シオンの限りない増殖 10句 ≫読む

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