2014-11-30

【週俳10月の俳句を読む】句を読むこと 久留島元

【週俳10月の俳句を読む】
句を読むこと

久留島元


いい句とは何なのか。
確乎たる信念があるわけではないが、句を読むときは自分の好みに誠実でありたいと思う。

週刊俳句や、その他、紙の媒体においても、我々が句を読むときは、たいていいくつかの句がまとまりになっている。
一句は独立したものという前提ながら、一人の作者によって示された句群があれば、どうしても「そのなか」で読んでしまうことが多い。


実は実は秋の重さよ実は実は  二村典子

<天高し行きと帰りは違う靴>、<台風がまた来る週末三連休>、<あたらしくきれいなお皿きれいな夜寒>あたりは「わかりやすい」。
しかし、なかには平明なふりをしてよくわからない句が交じる。
掲句。国語教科書風に鑑賞すれば、「実は秋の重さを感じることがあったよ、実はね。」とでもなるか。教科書には向かない句であろう。何が「実は」なのか。もったいぶっておいて、何なのだ、「秋の重さ」って。どこで量ったのだ。まさか「秋の思い」の変換ミスでもあるまい。極小詩型にあるまじき言葉の無駄遣いだ。秋の空気には軽やかな印象があるが、感傷的には重さを感じることもあろう。それがどうしたのだ。
よくわからない。

銀杏を割る難題を聞き入れる  二村典子

銀杏を割るのは、難題ではないにせよ、やや面倒だ。しかし銀杏を割りながら持ちかけられる難題とは何なのであろうか。「ぎんなん」「なんだい」と連なっていくうちに聞き入れてしまったものか。作者はどうも後悔はないらしく、ただ、すこし面倒な銀杏に集中しているらしい。


秋。遺影。イエイ。を。叫ぶ。だれですか。  佐山哲郎

遺影とイエイが同音なのは、はじめて気づいた。遺影を前に、なんか楽しそうである。

あ、秋。海。雨。ワイパーの、変な音。

吃音のような句点の切れがたどたどしいワイパーの動きと、なにか言いたくても言えないもどかしさを抱え込んだ「秋」のドライブを想像する。

できちやつた婚。の。夜長。の。已然形。

已然形
文語の用言・助動詞の活用形の一。六活用形のうち,第五番目に置かれる。係り結びで「こそ」の結びとなり,「ば」「ど」「ども」などの助詞を伴って,順接・逆接の確定条件を表す。口語では,その用法のちがいから仮定形とよばれる。

デジタル大辞林

已然形が唐突だが、「できちゃつた婚」を「夜長」に活用すると、うしろにどんな「条件」が来るだろうか。なんとなく逆接が来そうである。
「できちゃつた婚ども子は産まぬ」とか。

わからない句群かと思ったら、読んだら意外にわかるので楽しくなる。
多くは言葉遊びで作られているが、句にしたがって遊びを尽くしていくと妙な感覚が残る。言葉のなかにある、もうひとつの顔を、素手で探りあててしまったみたいで、実に、妙である。


露の世の鼻を交換する工事
  福田若之

「わからない」句が多いので、「わかる」句を見つけるとほっとする。
よく考えると「わかる」句も、よく「わからない」ままなのだが、「鼻を交換する工事」は実際にありうるのだと思う。少なくともキラキラと輝く「露」にあふれた夜長ならばどんな工事が行われていてもいいのである。
「わからない」のは、たとえば、<愛憎の虎が歩道橋に銀河>は、愛憎の対象となる虎が歩道橋にいる、そういう強烈な景が「銀河」でスカされる感覚が「わからない」。
<電柱の努力で満月のはやい>も同様で、安定感あふれる季語と、不安定な世界観とが反発しあうので、それが狙いなのかも知れないが、よくついていけないのである。


いわしぐも駅から次の駅が見ゆ  越智友亮

打って変わって、たいへん「わかりやすい」句。
東京在住の作者であるから東京近郊の景なのか、地元の景なのか。田舎はかえって間隔が遠いのかも知れず、してみると都会の景であるか。
秋の空のもと、次の駅が見える。駅から次の駅まで歩いても、さぞ気持ちがいいだろうと思う。読者はそう思ったらしい「作者」を容易に想像できるが、全員が「気持ちよさ」を共有できるような、「わかりやすい」句でありすぎることに、一抹の不満がある。


いい気なもので、「わかる」句群の前では、ちょっと「わからない」句が気になる。
しかし「わからない」句群の前では「わかる」句に飛びついてしまう。

「わかる」とか「わからない」とか、至って恣意的な判断で、できるかぎり読解の可動域は広く持ちたいと思うが、結局のところ配分の微妙さは、深奥幽玄というべきか。


第389号 2014年10月5日
福田若之 紙粘土の港 10句 ≫読む
第390号 2014年10月12日

二村典子 違う靴 10句 ≫読む
第391号 2014年10月19日
佐山哲郎 こころ。から。くはへた。秋。の。茄子である。 10句 ≫読む
大西 朋 青鷹 10句 ≫読む
第392号 2014年10月26日
塩見明子 改札 10句 ≫読む

越智友亮 暗 10句 ≫読む

3 comments:

小津夜景 さんのコメント...

こんにちは。下の句について思ったのですが、

実は実は秋の重さよ実は実は  二村典子

この句、
< あたらしくきれいなお皿きれいな夜寒 > 
と同じ系統の「ポエジー」なのではないでしょうか。
愛嬌のあるリフレイン。

< 実はね。「み」って秋の重さなのよ。「み」って本当は >

かと。

二村さんの連作は、全体が「重なりとそのズレ」への志向で纏まっている。またそのズレ方にも、各句の趣向があって、すごく丁寧。
さらにことばの明瞭度(意味の透過性)も高いので、久留さんの仰る「言葉の無駄遣い」的な感じは受けず、むしろ、意識的にずらしたシルクスクリーンの絵をみせられた感じがしました。ああ、こうやって書くんだ、と思いながら。

(わざと「わからない」側に読んでみたのでしたらごめんなさい。
この句は茶目っ気があるし「力技読み」されない方が素敵と思ったため、自分の印象を書いてみました。)

小津夜景 さんのコメント...

上の投稿、久留島さんのお名前の島が抜けてしまいました。

大変失礼致しました。とりいそぎ。

久留島 さんのコメント...

>小津夜景さま
コメントありがとうございました。
み!まったく「じつはじつは」だと思い込んでおりました。なるほど、「み」ですか。

「じつはみは秋の重さよじつはみは」

なるほど。そうすると実が何の実か、というのが謎として残り、機知が際立って面白いですね。

おっしゃるとおり二村さんの句は「重なりとズレ」があり「茶目っ気」が魅力的。その「重なり」が「わかる」ものと「わからない」ものがあって、「わかる」ものばかりだと飽きてしまう、「わかる」「わからない」が入り乱れるのが面白いところかも、

と思ったのですが、なんだか上の文章ではいちゃもん付けてるみたいに見えますね。失敬しました、ありがとうございました。