2014-11-23

【2014落選展を読む】その年の事実 堀下翔

【2014落選展を読む】
その年の事実

堀下翔


読む。

1 霾のグリエ(赤野四羽)

涅槃吹黄色いふうせん西より来  赤野四羽

という句、初めに読んで、気になっていた。飛ばされて、離れていくものとしてある風船が、自分の方に向かってくる。これは、なかなかない。しかも、黄色くて、西から。この二つの情報に意味はないだろう。黄という色が春の明るさを示している、だとか、そういう指摘は要らない。無意味さのリアリティがある。……と、思っていたところへ、そういえば涅槃吹は西から来る風ではないかと気づいた。ごりごりの理屈じゃないか。

総体に、ちょっと、理屈っぽい。〈姥桜花見するひとをみてゐる〉〈大揚羽地球の端にとまりけり〉など。

文学に夏が来れりガルシア=マルケス

時事ネタで、思考から飛び出した句だけれど、意味不明なところがあって、面白い。季語を取り合わせるのと同じような顔をしていきなり「ガルシア=マルケス」を置く無手勝流に、ちょっとドキッとする。「文学に夏が来れり」も、何のことかよくわからない。だから、ああガルシア=マルケスは夏の人だったのか、と、そんなことをぼんやりと思う。彼が死んだのは4月。いったいどうして夏だったのか。

少年が西瓜を抱いて待っている

には、あ、それだけか、という安心がある。これもまた、なにか具体的なことは言っていない。そういうことがあったんだろうな、とぼんやり思う。ぼんやりと、いうのが、50句の印象としていつもあった。


2 こゑ(生駒大祐)

品詞分解をしたくなる。〈ものうげに寒鯉匂ひはじめたり〉(形容動詞「ものうげなり」連用形、名詞、ハ行四段連用形、マ行下二段連用形、完了の助動詞終止形)……と。この直観はおそらく、50句の発話が擬古的であることを示している。

製図室ひねもす秋の線引かる  生駒大祐

製図室という手に慣れない素材、秋の線という捏造的な季語。これらの無理を一句としておさめるときに作者が選んだのは擬古の文脈であった。「ひねもす」「引かる」という言葉が用いられる世界に「製図室」も「秋の線」もあるのだ、と示すことで、これらの無理は隠され、むしろ肯定されている。「引かる」という正しさが眩しい。「引かれ」でも「引かるる」でもない「引かる」は、どこか散文的なほどに古典の中にある。

副詞の多さは指摘しなければなるまい。その中でたとえば〈降る雪やただ重たさの肥後守〉の「ただ」、〈しとやかにあやめの水の古りゆけり〉の「しとやかに」、〈おそろしく真直ぐ秋の日が昇る〉の「おそろしく」、〈富士低くたやすく春日あたりけり〉の「たやすく」は、「真直ぐ」や「低く」とは違って実際的なことは述べていない。多くはやはり擬古的な文脈にある。作者のこころざす古典的な記述は、それ自体が無理の中にあるしかけではなかったか。あらゆる無理の混在を作者は肯定し、読者はその肯定を知ったうえで、違和を覚えている。読者の違和感を作者は喜んでいるだろう。


3 線路(上田信治)

その年は二月に二回雪が降り  上田信治

客観写生をほめる人がよく言うことに「掬い上げられた些事は意図せずして詩となる」というのがある。この言にならいたい。二月に二回雪が降ったことがどうしてこんなに詩になるのだろう。もちろんレトリックは精緻である。何も指さない代名詞「その」、「その年」を感動的に特定する「は」、余韻を残して流す連用形「降り」。けれどもそのしかけをまったく黙殺しても構わないほどに、二月に二回雪が降った事実は、言挙げされることによって、ごくリアルに、こちら側へと手渡されている。

秋の山から蠅が来て部屋に入る

これなんてほとんど嘘かもしれない。ほんとうに山から来たのを見たのか。がしかし〈秋の山から蠅が来て部屋に入る〉と言われることで、たしからしくなる。

言葉にすればなんでも本当のことのように思われるのであれば、どんな俳句だって名句になってしまうだろう。ある一句にあるリアリティがどこから来るのか、ということを、作者は模索し、ときとして核心に触れている。


4 魂の話(大中博篤)

たとえば、

〈山を焼く〉僕が傷つかないように  大中博篤

という句を取り上げて「自分が傷つくことの代替行為として山焼をする。括弧に入れられた山焼は季語としての意味から解放されている。自分が傷つかないための行為であるにも関わらず、おそらくこの「僕」は自分よりも大きなものを燃やす痛みにさいなまれている」といったことを言うのはたやすい。どの時期の俳句史であれこのような(言ってしまえば恰好をつけた)文体はあったはずだ。

虎の檻閉園のベル鳴り続け〉の緊迫感や〈狼に真昼の匂い   雨激し〉の孤独感は、どこかで誰かが書いているだろうという、いわば大いなる類想として感ぜられる。また同時に〈グラビティ•ゼロ殖えてゆく蟲の群れ〉や〈街に海鯨が鳴いている 泣いて〉は、俳句以外のどこかで描かれているだろうな(たとえば早川書房あたりで)、という別ベクトルの類想感もある。

それでもこの恰好よさに惹かれる気持ちは分からないでもない。〈グラビティ•ゼロ殖えてゆく蟲の群れ〉を指して俳句以外でも書けるであろうと言ったが、俳句にしか書けないことに意味があるとも思わない。

手袋の中は暗黒   犀通る

異様な縮尺のイメージに唖然とする。その犀がただ手袋の中にいるのではなく「通る」のだという。極度に縮んだ犀が真暗い手袋の中をゆっくりと通るその景は、大きさのみならず時間の縮尺まで狂ってしまっているように思われる。

ところでこれは蛇足なのですが、〈診察を待つワラビーよ夏の果て〉のどこに作者が恰好よさを見出しているのか、読みながらついぞ見当がつかなかった。この50句の文脈としては異質だが、ワラビーが診察される状況に妙な面白さが出ていて、ちょっと忘れられない。


5 最初の雨(小池康生)

一句目〈良性か悪性なるか小鳥来る〉は、はじめに読んだときには性善説か何かの話だと思った。読み進めて、病院関連の用語が頻出し、〈癌のことなかつたことに万愚節〉にいたって初めて察しの悪い筆者は、ああ一句目は癌の話だったのかと気づく。ここまで察しの悪い読者はなかなかいるまいが。

自身の闘病をテーマにした50句。

古暦病ひを得ると記しあり  小池康生
七草の日や絶食と告げらるる
癌のことなかつたことに万愚節

このような句は、季語のモノボケといった印象が強く、あまり入り込めない。直接的な言及よりもむしろ、下のような句に強さを感じた。

巣箱掛け最初の雨が降つてをり

表題句。術後にひと息ついた気分が「最初の」という一区切りの語に結実している。〈無傷なり蝶々にまとひつかれても〉も同じ気分だろう。「無傷なり」の断定がうれしい。と思えば〈眠りへの入口しれず春逝きぬ〉と死への連想もある。いずれも喜怒哀楽が活写されている。

麻酔にて知らぬ一日室の花

はとにかくうまいな、と思った句。どれほどの麻酔だったか、そしてそこから、どれほどの手術だったかというところが想像される。


6 パズル(加藤御影)

どこにも体重がかかっていない、軽いタッチの句群。〈チューリップ玩具のやうに汚れたる〉から持ってきて「まるでおもちゃのような」という言い方をしようと思ったら、そもそもタイトルが「パズル」だった。〈眼が穴の動物パズル星月夜〉から取ってきたのだろうが、作者自身、自分の軽さは承知の上だろう。〈山茶花の散ればリズムの生まれけり〉は軽すぎると思いつつ、全体としては、読んでいて楽しい。

ごちやまぜにされて昔や未草  加藤御影

そうだなあ、その通りだなあ。自分のことも周りのことも、昔のことはいつのまにかこんがらがってしまう。「ごちやまぜにされて」とかなり口語的にやったあと、「昔や」と一気に文語脈に回帰するキュートさ。

50句のなかで一番ぐっときたのは、この一連。

十一月散歩のやうに文字つづく
目離すと鳴りだしさうな冬日向

この二句、対になっている気がする。「十一月散歩」までを来た筆者は、この時点で実際に外に出て散歩に出ている。「のやうに文字つづく」と示されて、いま見ていた風景が嘘だったと知る。寒いけれど日はさしているあの散歩のあかるさを、もう一度、文字の上に再現する。そうして次の句へ移れば、「目離すと鳴りだしさうな」と来て、ほとんど錯覚として、前の句の残像である文字を思う。あかるく日がさして、ずっと続いているあの文字が、鳴りだしそうなのだ、と。言葉はつねに音になろうとしているから。そしてこの句が「冬日向」のものであったことを知るとき、筆者は、まだ文字の残像を忘れきれていない。十一月の散歩には、冬日向が付きまとっているがためである。「やうに」「さうな」と、構造も似ている。隣接したこの二句は互いに自分の世界を見せ合っている。もっとも、隣接に意味を見出す読みは本筋から外れているが。


7 脱ぎかけ(栗山麻衣)

ちょっと面白過ぎるんじゃないか、というのが印象。〈脱ぎかけの衣からやあと蛇出づる〉いや、やあとは言わないだろ。〈目配せを交はして蟻の擦れ違ふ〉いや、交わさないだろう。

大根に味染みるころ帰りたし  栗山麻衣

帰りたし、まで読んで、あっ、ここは自宅ではなかったのか、とびっくりさせられる。ではこの大根は他人の家のものか。あるいは、一人暮らしの人。自分一人で調理した大根を食べて、実家に帰りたくなる。そういう素朴な気持ちは「たし」というひねりのない述べ方にかなっている。

人恋ふる心小出しにインバネス

そうか人を恋うる心は小出しにできるのか。生きるのが上手な人にしかできないのかもしれない。人情の機微が「小出しに」の一言で電光のように伝わってきてうれしい。粋な句と思う。


8 クレヨン(倉田有希)

初夢はもらはれてゆく猫のこと  倉田有希

夢の句は全部嘘でも構わないからずるい。作者がふだん猫と暮らしているのかすら定かではない。この句の猫は初夢において初めて登場したキャラクターかもしれない。そういった夢の気味の悪さを、この句は書いている気がする。猫がいなくなる初夢なんて、かなりグロテスクだ。

もっとも50句の多くは、そうではなく、以下のように穏やかである。

蝌蚪の国豆腐のパックが沈みをり
春深し雲の絵皿のオムライス
小鳥来る解体される給水塔

一句目、蝌蚪の国に侵入する異物として豆腐パックは絶妙にちんちくりんで、言い得ている。二句目、ゆるめの取り合わせに気持ちのよさがある。これは全体の特徴としても思われる。三句目の「解体される給水塔」は最後の字余りが気になりつつ、しかし上の初夢と似た違和感がある。給水塔というものの見慣れなさもあるが、あの奇妙な塔がどのような姿で解体されるのか、惹かれる。そんな非日常の入り口に小鳥がきている。ある場所からある場所へ移動する小鳥は、読者が目撃する「解体される給水塔」という非日常と巧みにイメージを同じゅうしている。




1 comments:

栗山麻衣 さんのコメント...

お読みいただき、ご感想を書いていただき、とても勉強になりました。どうもありがとうございました。少しずつでも、進んで行ければと思っています。ありがとうございました。