〈少年・愛〉とマヨネーズ
倉本朝世から魚喃キリコを経てリチャード・ブローティガンへ
柳本々々
Aオナニー的感情はPオナニーのそれに較べて、いっそう高次なものに属するのは明らかである。ザーメンによる注入感覚は女性では殆んどゼロなのに、少年では《確かに》注入を喜ぶ。
(稲垣足穂『稲垣足穂全集〔第四巻〕少年愛の美学』筑摩書房、2001年、p.120-1)
ヤオイ作品の主人公は、「攻め」「受け」どちらかの役割を与えられる。「攻め」とはセックスにおいて男性的な役割(=能動側・性器を挿入する側)を担う男性を指し、「受け」とはセックスにおいて女性的な役割(=受動側・性器を挿入される側)を担う男性を指す。
(堀あきこ『欲望のコード マンガにみるセクシュアリティの男女差』臨川書店、2009年、p.134)
倉本朝世の句集『なつかしい呪文』(あざみエージェント、2008年)に次のような〈マヨネーズ〉の句がある。
少年は少年愛すマヨネーズ 倉本朝世
なぜ〈マヨネーズ〉なのか。
というよりも、この句において〈マヨネーズ〉は《どう》機能しているのか。
この句には倉本自身の自解もあるのだが、ここではこの句を言語テクスト(ことばのマヨネーズ)としてとらえ、ふたつの〈ちがったマヨネーズ〉の観点からとらえることを試みたい。
〈ちがったマヨネーズ〉に対する、〈ちがうものの・似かよった〉マヨネーズとして位置づけてみたいということである。
一つ目のマヨネーズは、魚喃キリコの『南瓜とマヨネーズ』(祥伝社、2004年)である。
このマンガでは、主に〈忘れられない愛〉と〈捨てられない愛〉のふたつの愛が主人公の女性「ツチダ」=「あたし」を視点に語られていく。
「あたし」は、同棲する彼氏「せいちゃん」を〈捨てられない〉一方で、「ハギオ」という〈忘れられない〉元恋人を現在の彼氏と比較しつづける。
不思議なことにこの『南瓜とマヨネーズ』においては、タイトルがなぜ「南瓜とマヨネーズ」であるかの理由は作中ではいっさい触れられていない。
だから、なぜタイトルに〈マヨネーズ〉があるのかは謎としてあるし、倉本のマヨネーズの句同様、作者の自解も含めて様々な解釈を呼び込むタイトルになっている。
倉本のマヨネーズの句と、魚喃のこのマヨネーズのマンガの共通点は、どちらの〈マヨネーズ〉においても、〈愛〉が語られているということである。
どのような〈愛〉か。
ここで基本にもどって、そもそものマヨネーズの辞義的な意味を確認したい。
たとえば国語辞書の『大辞林』をひくと「マヨネーズ」は、「卵黄・油・酢・塩などをかきまぜて作るクリーム状のソース」と記述されている。
こうした混成された食べ物がマヨネーズとするならば、ちょうどこのマヨネーズは『南瓜とマヨネーズ』の主人公の混成的モノローグに似かよってくる。
『南瓜とマヨネーズ』で繰り返し語られているのが、主人公「あたし」がふたりの男性のはざかいで揺れ動く混成された〈ゆらぎ〉としてのモノローグである。
あたしたちは/もう終わって/いるのかもしれない/だけど/あたしたちには/この部屋のほかに/行くところはない/あたしたちにはお互いしかいないんだって/あたしは眠れないまま/そんなふうに思っていた
(魚喃キリコ「第4話」『南瓜とマヨネーズ』p.84)
あたしは/なにをしようとしているのか/自分でもよくわからないでいる/自分がなにをしているのかが/よくわからないでいる
(「第6話」同 p.107)
もうぜんぶ/どうでもいいと思った/現実(せいかつ)のことも/未来(さき)のことも/自分がなにを/しているのかも/ぜんぶどうでもいい/なんにも/考えれない/なんにも/考えれない
(「第6話」同 p.119)
「わからない」「どうでもいい」「考えれない」といった〈ゆらぎ〉のモノローグではあるものの、こうして並べてみると、ページを追うごとにあるひとつのベクトルが展開され、決定づけられていくのがわかる。
たとえば、そのことがよくわかるのが、主語の変化だ。「あたしたち」と主語に「せいちゃん」も込みだったものが、やがて「あたし」に変わり、さらにその「あたし」は「自分」という「せいちゃん」と関連づけ=色づけ=対称化されない中性的な記述的主語に置き換わってゆく(「せいちゃん」の主語「オレ」に対する「あたし」はもういない)。
つまり、主人公は「わからない」「考えれない」とはいうものの、モノローグにおける言語レベルでは主語の転置により、みずからの位置性を変え、同棲している「せいちゃん」とは離れていっている(「あたしたち」→「あたし」→「自分」)。
モノローグにおいて〈わからなさ〉は通底しているが、しかしその〈わからない〉〈なんにも考えれない〉なかで主人公の「あたし」は同棲中の「せいちゃん」を捨てて「ハギオ」と関係をもつことを選択していく。
だからこのマンガにおいてタイトルの〈マヨネーズ〉がどのように機能しているかをあえて考えるならば、それは〈マヨネーズ〉が混成された意識の濃度を保ちながらも、しかし〈マヨネーズ〉を押し出すときに誰もが経験するように、ある一定の〈ベクトル〉を混成したままにマヨネーズが〈運動態〉して実現していくからではないか(そのとき「南瓜」は、運動態のマヨネーズとは対照的にどこまでいってもなにも変わらない意識の〈核〉の象徴として機能するかもしれない、つまり変わり続ける〈非日常〉のマヨネーズ運動態のなかの変わらない〈日常〉として。だから実は「あたし」が「せいちゃん」を選ぼうと「ハギオ」を選ぼうと事態はそんなに変わりはしないのである、外側からは中のみえない固定化された〈南瓜=カボチャ〉のように)。
このマンガにおいて、おそらく、マヨネーズと愛は、そんなふうに関係しあっている。
倉本のマヨネーズの句にもどろう。
倉本の句で注意してみたいのが、「少年は少年愛す」と客観的な記述体になっているところである。
つまりここには「少年は少年愛す」と記述している第三者がいる。
だからこれは『南瓜とマヨネーズ』のモノローグのように、〈愛の関係〉を語り手が記述的に独白している構造になっている。
そしてこの「少年は少年愛す」という第三者的記述に下5として即座に補足されるのが「マヨネーズ」なのである。
この句は、一見、〈少年愛〉と〈マヨネーズ〉の相関関係=比喩的形象からイメージをふくらませたくなる。
しかし、そのマヨネーズ的イメージの膨張だけではなく、ここにはこの句を語る語り手の「少年は少年愛す」への意識そのものが下5の補足としてマヨネーズ化=形象化されているのでもないか。
つまり、魚喃のマンガ『南瓜とマヨネーズ』において、主人公の「あたし」がふたりの男性のあいだでたえず揺れ動き、しかしその揺れ動きのなかで揺れ動きのままたしかなベクトルをもって選択を重ねていったように、語り手は「少年は少年愛す」という記述に対し、揺れ動きつつも揺れ動きのままに「マヨネーズ」を〈書く〉という選択をしたのではないか。
そうした混成された意識における、しかし川柳として〈書く・とどめる・痕跡化する〉選択そのものが「マヨネーズ」だったのではないか。
だから、この句におけるマヨネーズは「少年は少年愛す」そのもののイメージのジャンピングボードであると同時に、語り手がみずから語った「少年は少年愛す」という上5・中7への語り手の自意識そのものでもあるのだ。
語り手が語りつつもその語りにみずから対自した意識そのものが「マヨネーズ」であったのではないかということ。
また、他方で、この句において大事なことは、語り手は固有名をもった人間を「少年」と名指す立場にいることのできる位置性=距離をもち、そして「少年は少年愛す」と固有名を抜き去った葛藤ぬきの愛にカテゴライズできる位置性をもつ語り手でもあるということである〔*〕。
だから、この下5の「マヨネーズ」は語り手自身に語り手の位置性を問うてくる〈問いかけのマヨネーズ〉としてもあるのではないかということも補足しておきたい。
「少年は少年愛す」を不分明なまま決定づけない下5の「マヨネーズ」は、そのまま「少年は少年愛す」という語り手の定言に対し、〈留保〉をつけくわえるものとしてある。
まとめてみると、この倉本における句の位相にはみっつのマヨネーズ態があるのではないかと思う。
ひとつは、〈少年愛〉のイメージを比喩としてふくらませるマヨネーズ。
ふたつめは、語り手が「少年は少年愛す」と記述した瞬間、みずからのその記述に対する意識を即座に形象化せざるをえなかった、語り手の混成的な意識としてのマヨネーズ。
みっつめは、語り手の記述する位置性を問うてくる反問としてのマヨネーズ。
川柳においては、こうした《記述(上5・中7)+名詞(下5)》という構文はたびたびみうけられるのだが、その下5におかれた名詞は実はシンプルな一枚岩ではなくて、重層化しているのではないだろうか。
下5の名詞は、比喩・象徴だけでなく、語り手がみずからの語りに対する対自意識としても、また句そのものを問い直す装置として機能することがあるのではないか。
そもそも、マヨネーズとはそうした混成されたうまく解きほぐしのできない、しかし重層化されたベクトル装置としても機能するはずである。
だから、かんたんにいえば、マヨネーズとはあらゆる言語活動に対峙する〈非言語〉として機能しつづける。
語り手が語り手に対して、みずからがみずからに対して、ことばがことばに対して、愛が愛にたいして、おわらせることができないときに、〈マヨネーズ〉はあらわれる(その意味で〈少年愛〉はこの句においては、いまだ言語化されえない状態にとどまっている)。
ふたつめのマヨネーズへと、むかおう。
アメリカの作家リチャード・ブローティガンは、『アメリカの鱒釣り』(藤本和子訳、新潮文庫、2005年)において、終章へむかう一歩手前で、
ここで、わたしの人間的欲求を表現すれば、──わたしは、ずっと、マヨネーズという言葉でおわる本を書きたいと思っていた。
(ブローティガン「マヨネーズの章へのプレリュード」『アメリカの鱒釣り』p.215)
と記している。
そして実際、かれは本書の末尾を、
追伸 あげるの忘れてしまって、ごめんなさいね、例のマヨネーズ。
(「マヨネーズの章」p.217)
と、〈マヨネーズ〉で終わらせてしまう。
倉本の句も、思い返せば、マヨネーズで〈終わり〉を迎えた句だということができる。下5に「マヨネーズ」を置いたということは、そういうことだ。
しかし、マヨネーズそのものは〈終わらせることのできない非言語〉として機能する。
『南瓜とマヨネーズ』において、「せいちゃん」と別れ、「ハギオ」を選び、「ハギオ」を捨て、「せいちゃん」とよりが戻りそうになっている、〈冒頭〉の風景にも《あえて》よく似せたラストは、こんなふうにつづられていた。
わたしたちの/この ありふれた平凡は/本当はとても/こわれやすくて/なくさないことは奇跡/わたしたちの生活 毎日 日常/せいちゃんが笑っているということ/あたしが笑っているということ
(「最終話」『南瓜とマヨネーズ』p.203-4)
「ありふれた平凡」はまたすぐに「こわれ」、「奇跡」は続かず、「ハギオ」はふたたび現れ、また〈非言語=混成=マヨネーズ〉が繰り返されるかもしれない。
しかしその〈マヨネーズ〉は一方で、言語活動の始まりとしてある。
愛は、分節できない言語活動からはじまる。
非言語にであうからこそ、ひとは独白はじめる。ひとそのものが、混成しはじめる。〈ことば〉そのものが、マヨネーズ化するのだ。
倉本の句の語り手も、その意味で、〈愛〉にであってしまっている。〈異性愛〉という言語分節できる〈愛〉ではなく、〈少年愛〉といういまだ言説が敷設されていない非言語の〈愛〉に。
でも、そのしゅんかんに、〈マヨネーズ〉が、はじまる。
そのしゅんかんに、ひとは、名詞としてのマヨネーズではなく、動詞としてのマヨネーズを手に入れる。
〈マヨネーズ〉を、生きはじめる。
〈マヨネーズ〉は〈終わり〉に、〈マヨネーズ〉を意識化し、言語化したときに〈マヨネーズ〉としての生が始まる。
そして、そのときひとはいままでであったこともないようなはじめての〈ことば〉と向かい合わざるをえなくなるのだ。マヨネーズ。
口あけて模型の谷へ墜ちていく 倉本朝世「ベッド」『硝子を運ぶ』詩遊舎、1997年
愛において《わたし》は、《わたし》がもっていないものを与える。なぜなら《あなた》が欲望している《わたし》は、《あなた》の欲望のなかにのみ存在しているから。だから《わたし》の愛は、いつも《わたし》自身の愛から疎外されている。(……)《わたし》の愛は、いつも《あなた》への愛に裏切られる。(……)《わたし》はつねに、「不感症」であると同時に、「性的不能」でもある。《わたし》がいつも経験する愛のニ様の自家撞着、愛のニ様の困難さ。しかし《わたし》はそれ以外の愛をもつことはできない。なぜなら《わたし》は、つねにすでに《あなた》だから。
(竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』岩波書店、2002年、p.109)
【註】
〔*〕たとえば「少年愛」の流通する表象のひとつに「少年愛マンガ」があるが、藤本純子によれば「少年愛マンガ」とは、「「二十四年組」と呼ばれる女性マンガ家たちによって一九七〇年代を中心に発表された、少年間の友情を超えた関係性を描く作品をさす言葉」である。「少年たちは互いを特別視し、時に性的行為を交わす関係でもあるが、いわゆる「両想い」ではない。そこには、相手に対する想いの形や強さに明確な不均衡が存在している。つまり、より強く愛し求める側と求められる側である」と「少年愛マンガ」における〈葛藤〉や〈不均衡〉を指摘している。(藤本純子「「少年愛マンガ」という変節点」『マンガジャンル・スタディーズ』臨川書店、2013年、p.166-7)
2 comments:
柳本々々さんがこの記事に関連して、ご自分のブログに書かれています。こちらもぜひ。
≫http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-452.html
【関連記事】
樋口由紀子・金曜日の川柳
≫http://hw02.blogspot.jp/2012/10/blog-post_19.html
この句を含む『なつかしい呪文』については私も2010年にブログで記事を書いています。
≫http://tenki00.exblog.jp/10673115
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