2014-11-23

拒絶されたスーパーマリオの内面 福田若之のパスワード 柳本々々

拒絶されたスーパーマリオの内面
福田若之のパスワード

柳本々々



春はすぐそこだけどパスワードが違う  福田若之

もはやゲームを単なる娯楽の一分野として片づけることはできない。ゲームを題材とすることは、そこから派生的に「人間とメディアの今日的な関係」を考察したり、あるいは「記号論とメディア論の関係」を考察したり、さらには「サイバースペースにおける他者との関係、あるいは、そこで形成される共同性」の問題を考察したりするうえでも有効な視座を提示するものといえる。その意味でゲームとは単なる娯楽の一形態というよりも、むしろ異質なものが相互に接触して絡み合う、たとえていうならば、いわば(現代のテクノロジー環境が生成する)「コンタクトゾーン」のような領域として、私たちにとっての議論の場を提供してくれるものだといえる。
(松本健太郎「「ゲーム化する世界」がもたらしたもの、もたらしつつあるもの」『ゲーム化する世界』新曜社、2013年、p.12)

週刊俳句編『俳コレ』(邑書林、2012年)の「302号室」から福田若之さんの一句です。

福田さんの句が興味深いのは「春はすぐそこ」と「春」との距離感を語り手が明示することによって語り手自身の位置性を強く打ち出しながらも、「パスワードが違う」と即座に発話をデジタルな〈風景〉に接続(アクセス)させることによって、そうした語り手自身の〈位置性〉を無化してしまうところです。

「パスワードが違う」というのは、グラデーションのように細やかな位相をもった「春」の〈風景〉とは歴然と異なる0か1かのゼロワンの〈風景〉です。

みずからがどのような人間であり、どのような位置に立ち、どのような権力をもち、どのような知識をもち、どのような階層にいて、どのようなジェンダーで、どのようなセクシュアリティをもっていようとも、「パスワードが違」えば、すべてこの〈わたし〉が持っている位置性はいっさいがっさい〈無化〉されてしまうのです。

そもそもがデジタルの〈風景〉においては〈内面〉が問題にならない。

「パスワード」が合うかどうか、です(その意味で、デジタル・セキュリティはわたしたちを〈動物化〉させます)。

「春はすぐそこだけど」と「春」が展開=開示されそうな〈風景〉からの〈内面〉を語りつつも、「パスワードが違う」とデジタル・メディアを介して〈内面〉が〈無化〉される仕組みになっています。

ここで定型によって〈風景=内面〉としての「春」が「パスワード」に接続されることにより、そもそもの〈春=風景=内面〉から、語り手はログインの挫折として、〈拒絶〉されたことになります。

ここでかつて、機構(システム)として構築される〈風景〉=〈内面〉を指摘した評論家の柄谷行人の言説をみてみたいと思います。
たとえば風景描写とよくいうけれども、そういう意味での“風景”を発見したのは独歩ですね。(……)
それまでの風景というのは名所旧跡で必ず文学や歴史と結びついているところですね。それに対して北海道だの武蔵野だのってのは全然文学のないところです。柳田もいっているように、日本人の風景文は実に無内容なのです。だから風景を発見するには、ある根本的な転倒が内的にあったと思います。風景の発見というのは、エクリチュールに対するパロールの優位あるいは、内面的な現存性の優位ということと結びつくわけです。
(柄谷行人「文学・言語・制度」『柄谷行人蓮實重彦全対話』講談社文芸文庫、2013年、p.42-3)
国木田による風景の発見、旧来の風景の切断は、新たな文字表現(エクリチュール)によってのみ可能だった。『浮雲』(明治二〇-二二年)や『舞姫』(明治二三年)に比べて目立つのは、独歩がすでに「文」との距離をもたないようにみえることである。彼はすでに新たな「文」に慣れている。それは、言葉がもはや話し言葉や書き言葉といったものではなく、「内面」に深く降りたということを意味している。というよりも、そのときはじめて「内面」が直接的で現前的なものとして自立するのである。同時に、このとき以後「内面」を可能にするものの歴史的・物質的な起源が忘却されるのだ。
(柄谷行人「第2章 内面の発見」『定本 日本近代文学の起源』岩波現代文庫、2008年、p.71)
わたしなりにことばにしてみると、〈言文一致〉という〈いま・ここ〉の〈わたし〉を〈そのまま〉表すことができる〈透明〉な描写的言語への転換によって、取り立てて意味もない〈風景〉を意味のある〈風景〉として見出すことができるようになり、無意味に有意味な〈風景〉を見いだす〈わたし〉として〈わたし〉の〈内面〉が見出されていく。ところがそうして見出された〈内面〉はあらかじめ既にあったかのように〈転倒=倒錯〉され、その〈内面〉がまた無意味に意味を付与する〈風景〉を再帰的に見出していく。そうした〈風景〉と〈内面〉がめいめいに所与のものとされながら相互参照=相互循環していく様相。

それが近代的な〈内面〉のシステムだったのではないかと思うのです。

こうした〈内面〉と〈風景〉の相互参照のシステムがあった一方で、福田さんの俳句は、〈内面〉を語ろうとしながらも、みずからが身を置くデジタル・メディア環境としての〈風景〉によって〈内面〉を語ることを拒否されてしまう。

デジタル・メディアの環境にとりまかれつつも、それでも〈そこ〉に〈季節〉としての〈風景〉を見出し語ろうとする〈俳句〉の語り手が〈内面の拒絶〉に遭遇してしまうこと。

そうした新しい〈(非―)風景〉と〈(非-)内面〉の「コンタクトゾーン」にこの句があるのではないかと思うのです。

デジタル・メディアに〈風景〉を見出そうとする者は、〈内面〉を拒絶される。

ここで思い出してみたいのが、ゲームを〈風景〉として取り入れた柳谷あゆみさんの次のような短歌です。

シャイとかは問題ではない一晩中死なないマリオの前進を見た  柳谷あゆみ(「弱い夜」『ダマスカスへ行く 前・後・途中』六花書林、2012年)

「シャイとかは問題ではない」と語られているように、ここでもまた〈内面〉が無化されています。

「マリオ」という指示子が表しているように、任天堂マリオシリーズにおける「マリオ」に賭けられているのは、「ピーチ姫」や「ルイージ」や「クッパ」や「キノピオ」に対する〈内面〉ではなく、〈死ぬか・死なないか〉、ともかくステージをクリアできるか・できないか、「前進」できるか・どうか、だからです〔*1〕

そこにおいて、〈内面〉は問題ではありません。むしろ〈内面〉が問題になった瞬間、「マリオ」の「ゲーム」は解体されていくはずです(「ブルーカラー」で「女の子よりも背が低い」ように設定されたマリオみずからがマリオみずからであることに悩むということ〔*2〕)。

ただこの歌でも大事なのは、福田さんの句にもみられたような、「マリオの前進を見た」という「見た」に語り手の位置性が示されていることです。

ゲームに〈内面〉がなくともそれを「一晩中」「見た」という語り手には〈内面〉=〈風景〉がある。〈内面〉があるが、しかしあくまでゲームの〈風景〉はその〈内面〉とは相互干渉していかない。「シャイとかは問題ではない」から。

「見た」という、ゲームを〈風景〉として〈見〉ている語り手の前にあるのはどこまでも〈内面〉が無化され、えんえんと一方向的にスクロールする「シャイとかは問題ではない」〈風景〉です。

パスワードが違うためログインできない〈(非-)風景〉。

〈内面〉をもたないマリオが一晩中無敵状態で多くの命を奪いつつ走り続ける〈(非-)風景〉。

このふたつの〈(非-)風景〉からわかることは、〈風景〉と〈内面〉が近代においては倒立的に結託していたのに対して、デジタル・メディアのまっただなかにおいては、〈非-結託〉としてしか〈内面〉と〈風景〉を受け取れなくなってしまっているという様相なのではないでしょうか。

しかし、それがデジタルの〈風景〉でもあるのです。

俳句や短歌を、(わたしたちが享受できるのは)〈ことば〉からです。

デジタルもまた、(わたしたちが享受できるのは)〈ことば〉を介するからです。

一見、めいめいがコンタクトしえないような異質な言説のネットワークにあるものの、それぞれの〈ことば〉と〈ことば〉が、「コンタクトゾーン」を見出し、出会う、というよりも、出会ってしまっているとき、そこにどのような〈風景/非-風景〉が見出され、そこからどのような〈内面/非-内面〉が産出されていくのか。

でも福田さんのパスワードの句にあっては、こうした言説自体が「パスワードが違う」ために拒絶されるかもしれません。

そもそも「パスワードが違う」とは、そうした次から次へと生産される言説=内面の無効化なはずです。

その意味ではこの句は、日常(春)=非日常(パスワード)の〈セカイ系〉としてきっちりと完結してもいます。
かつて、われわれは鏡の想像界、分身のいる舞台の想像界、他者性と疎外の想像界に生きていた。今日、われわれは画面の想像界、インターフェイスによる二重化された想像界、隣接性とネットワークの想像界に生きている。われわれの機械はすべて画面をもち、人間たちの対話は画面による対話となる。画面に書かれたもので、深層の意味を解読するために書かれたものはひとつもない。表層の意味をただちに意識化し、表象の極を短絡させつつ、即時的に読みとられるために書きこまれているのだ。
(ジャン・ボードリヤール、塚原史訳「ゼロックスと無限」『透きとおった悪』紀伊國屋書店、1991年、p.76-7)
思想家のボードリヤールのことばを借りれば、パスワードとは、「表層の意味をただちに意識化し」、セカイのありかを「即時的に」さぐる、もっとも「透きとおった」手段なのではないかと思います。

だから、パスワードが違えばあとは、〈セカイの外〉に出るしかないはずです。

つまり、このセカイから〈ほんとう〉にログアウトするためのパスワードは、

君はセカイの外へ帰省し無色の街  福田若之

 
【註】

〔*1〕「【1985 スーパーマリオブラザーズ】暗い密室から、青空の大地へ。横へ横へと広がる自由な世界。『ドンキーコング』や『マリオブラザーズ』で、ひとつの画面に閉じ込められていたマリオが広い世界へ飛び出した。じつは、このゲームは右にしか進めない。後ろに戻ろうとしても、画面が左へスクロールしないのだ。つまり、右にだけ動くベルトコンベア。一方通行なのである。(……)横スクロールのゲームで、広い世界を描く。『スーパーマリオブラザーズ』のステージデザインがなしとげた功績は大きかった。ファミコンの表現力の新しい扉が開かれたのである。」〔東京都写真美術館企画・監修『図録 ファミリーコンピュータ1983-1994』太田出版、2003年、p.168〕

〔*2〕「僕が昔からイタリアのマルデロというイラストレーターが好きだったことも関係してるかもしれませんが、マリオは大きな腹で髭を生やしているイタリア系の男。ネーミングは、「ドンキーコング」を売った頃、スタッフがアメリカで出会ったマリオという名前のイタリア人の寮のおじさんにちなんでつけました。たまたま顔がよく似ていただけなんですけどね(笑)。職業としてはブルーカラーで、女の子よりも背が低いというのが条件でした。」宮本茂「スーパーマリオ対談──任天堂ゲームプロデューサー宮本氏に聞く」〔『季刊 子ども学』Vol.1(1993年9月)福武書店、 p.82-3〕



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