2014-12-14

【俳句を読む】 柘植史子の受賞一句について 吉田竜宇

【俳句を読む】
柘植史子の受賞一句について

吉田竜宇


戦争と野菜がきらひ生身魂 柘植史子


断定は詩歌の華である。

直情に基づいた偏見は、時に鋭く世情を穿つ一徹となる。しかし紅旗征戎非吾事と嘯いた貴族には支配階級としての屈託も矜持もあったと察せられるが「戦争と野菜がきらひ生身魂」の句には、どうか。

批評がない、という評がまるで意味を成さないほど、ここに描かれたものはあまりにもそのままでありすぎる。型と中身の違和によって生まれるゆがみが俳句の妙味であろうが、ここで俳句に注がれたものは、注がれる前もそのまま同じかたちで存在したであろうし、また隙間無く注ぎつくされたであろう。周囲からなにかを呼び込む空虚も、型に嵌らず抹殺されたなにものかもない。

ところで、野菜を嫌うのと同じ基準で戦争を嫌うのであれば、野菜は健康に良いのだから味が嫌いでも、と同じ理屈で、外交戦略上不本意ながら戦争を遂行する、との決定に逆らえないはずだ。

これは理屈といっても屁理屈だが、そういった批判を誘発することにまるで無自覚なように見えるのはなぜであろうか。季語がなんらかの相対化の役割を果たすかと思えば、それも覚束ず、単に感覚を是認しているだけである。

いや、巧みな斡旋と言えなくはない。長寿を敬うことにより、戦争から距離を置いてきたこれまでの経験を、ひとつの可能性として提示してはいる。しかしそれは、追従ではないのか。これまでまったく野菜を絶つ食生活が営まれてきたとはとても思われず、であれば句中において戦争の立ち位置は明白である。

にも関わらず全く屈託を感じさせない寿ぎで済ませるのは、なにか不気味なものさえ感じられる。

おそらくそれは戦後民主主義的ともいうべきもののある側面、国家の現実が単なる市民意識に左右されることを是とし、理想とさえする根拠なき自信であろう。そしてその自信は、あまりにも普遍的なものとして取り扱われ、それに反する一切を目撃すらしていない。

かつて台所俳句と誹謗された句群は、しかし生活という人間の生身に関わる細部から切り込んで世相を明らかにした。優れた句作は素材の反映たるにとどまるを乗り越えて、表現と呼ばれる領域に昇華した。

では前掲の句はどうか。これが単なる素材の反映かといえば、そうでもないように思われる。しかし表現かと問われれば、もっとそれ以前のものであろうし、型の一言で済ませたくもある。

とはいえひょっとすると素材そのもの、現実そのものであるのかもしれなく、ならば優れた作品というべきであろう。これほど直截な発露、不意に露わになってしまった現実は時代の刻印となり得る。

野菜を嫌うのと同じように戦争を嫌う、心優しい市民たち。優しい心は、なんの衒いもなく、そうするのがこの世で最も自然なことであるかのように歌われる。

それが受け入れられ、顕彰されるには、どれほどのものが必要であったか。どう褒めても皮肉で言っているようにしかならないはずなのに、なぜかそうはならない。

時代の花はやがて枯れ、その思い出をどこかでふり返る日が来るだろう。けれど、この句を前にして、いったいなにを悼み、どう弔えばいいのか見当もつかない。

掲句は(「俳句」2014年11月号 角川俳句賞受賞作「エンドロール」より)




吉田竜宇
1987生。第53回短歌研究新人賞受賞。
「翔臨」所属、竹中宏に師事。

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