2015-02-15

俳句/川柳を足から読む ホモ・サピエンスのための四つん這い入門(或いはカーニバルとしてのバレンタイン・メリイ・クリスマス) 柳本々々

俳句/川柳を足から読む
ホモ・サピエンスのための四つん這い入門(或いはカーニバルとしてのバレンタイン・メリイ・クリスマス)

柳本々々



第一、足が四本あるのに二本しか使わないと云うのから贅沢だ。四本であるけばそれだけはかも行く訳だのに、いつでも二本で済して、残る二本は到来の棒鱈(ぼうだら)の様に手持無沙汰にぶら下げているのは馬鹿々々しい。これで見ると人間は余程猫より閑(ひま)なもので退屈のあまり斯様(かよう)ないたずらを考案して楽(たのし)んでいるものと察せられる。(夏目漱石『吾輩は猫である』新潮文庫、2004年、p.220)

カーニバルの言語に特徴的なのは、〈裏側〉〈あべこべ〉〈裏返し〉の論理、〈上と下〉〈正面と背面〉の間の絶えざる変転の論理であり、さまざまな形のパロディ、もじり、そして、冒涜、道化的な戴冠や奪冠である。(阿部軍治「ミハイル・バフチンの生涯と創作」『バフチンを読む』NHKブックス、1997年、p.270)

神野紗希さんの『句集 光まみれの蜂』(角川書店、2012年)に、こんな句がある。

 犬の脚人間の脚クリスマス  神野紗希

この句には上昇し、了解する視点の移動のドラマがある。

「犬の脚」から「人間の脚」へと〈上〉へ移動するように視線が動き、そして「人間の脚」をみたことで〈いま・ここ〉という〈場〉が「クリスマス」なのだと〈了解〉する。

でも、わたしがこの句を去年のクリスマスの日に思い出しながらも、クリスマスの間、ずっと不思議だったのは、こんなことだった。

どうしてこの句は、「犬の脚」から〈視線〉がはじまってしまったのか?

私は酔っぱらい、ふらふらになりながら、チキンを片手にもちながら、三角帽子をかぶりつつ、鼻眼鏡はどこかに無くしてしまいつつ、かんがえつづけた。

でも、あまりによろけてしまい、どうと音を立てて後ろに倒れたときに、そこにいたひとびとの脚がみえた。

ああ、脚・脚・脚・脚だとおもった。

そのときわたしはふっと思ったのである。これは、《酔っぱらいのひとの視点》なんじゃないかと。

倒れたところから始まっているのだ。

そのとき、同時に、このわたしの、わたしのおなかを一所懸命にふみふみしている猫がいた。そこでわたしはもうひとつ、了解したのである。

ひょっとすると、これは『吾輩は猫である』のような四足歩行の〈動物〉が語り手となっている視点の句なのかもしれないな、と。つまり、この句の語り手は、猫かも、と。

この句では「人間の脚」と語られている。ふつうわたしたちは、ひとを「人間」とは呼ばない。それはカテゴリーの名称であり、わたしたちは友人や恋人を猫や犬とは間違えることはないので、《わざわざ》「人間」と使う必要はないからだ。

「人間」と《わざわざ》呼ぶのは、カテゴライズするときだ。だからこの句はある意味、「人間/動物」というカテゴリーの枠組みに基づいた句である。あるいはカテゴリーに敏感になって〈なにものか〉の句である(ちなみに漱石の『猫』は、「人間」と「猫」の差異に敏感になっていた)。

ふだん〈脚〉を気にする視線、もしくは〈脚〉から構成される世界にいる視点〈人物〉(ひと、じゃないかもしれないが)。それがこの句の中心にいるのではないか。わたしは脚がひしめくクリスマスのなかで、そんなふうにおもった。そして、ふいに、メリイ、クリスマスとろれつのまわらない声でいったようにも、おもう。だれかが、あのひとはもうだめかもしれないね、といったようにもおもったが、それは構わなかった。クリスマスだったから。

ここで〈脚〉をめぐる神野さんの俳句に、〈足〉をめぐる川柳を取り合わせてみよう。もう少し足を増やして考えてみたいという試みである。

2015年1月25日に『川柳カード叢書② 実朝の首 飯田良祐句集』が出版された。

飯田さんの句にこんな〈足〉の句がある。

 百万遍死んでも四足歩行なり  飯田良祐

わたしはこの句が神野さんのクリスマスの句とかすかに響きあっているように思えてならない。

この飯田さんの句は、徹頭徹尾〈足〉から考えようとする句である。ここには〈足〉しかない。「百万遍死」ぬことに、意味はない。むしろ意味があるのは、ここには〈足〉しかないということだ。そしてその〈足〉しかない世界が「百万遍死」ぬことと釣り合うくらいのエネルギーを有した、誤解をおそれずにいえば、祝祭的=カーニバルな空間だということだ。

「四足歩行なり」。

〈これ〉しかないのだ。だから、言い切る。〈足〉を、四つん這いを、つらぬく。ぶれない。語り手には、わかっているのだ。百万遍だろうが、壱千万だろうが、「四足歩行」なんだということが。

クリスマスとは、価値観がひっくりかえる祝祭空間のことである。みんな、鳥の脚をもって歩く。かれも、かのじょも、わたしも、あなたも、まあだいたいは、鳥の脚を目にする。脚にこのうえなくあふれた日、脚から構成されるカーニバル。それが、クリスマスだ。

だから、〈足〉から、〈下〉からかんがえるひとたちの祭りである(もちろん、「聖夜」が「性夜」と呼ばれるのもまたバフチン的な意味でのカーニバルである)。

ひとりで酔っぱらって倒れて、あるいは愛するひととねむりながら、あるいはそんなに愛さないひととねむりながら(クリスマスだからいろんなことが起こるから)、〈足〉からかんがえる祝日。そこには「犬」も「人間」もいる。ごちゃまぜの祝祭空間だ。

実はわたしは神野紗希さんの句を〈下〉の価値観を考え続けた思想家ミハイル・バフチンから読んでもおもしろいかもしれないなと去年かんがえていた。実際そうしようとおもっていた。でもクリスマスの日に、たおれ、それでもおきあがろうとし、四つん這いのままなんとかじぶんを取り戻そうとしているうちに、それは必要ないかもしれないなと、ふっと、おもった。問題は、思想=頭=知ではなく、〈脚〉=〈足〉だったから〔*〕

四つん這いから、クリスマスを、世界を、俳句を、川柳を、もういちど、かんがえてみたい。わたしは、そうおもった。

実際、リビングで四つん這いになったりして、手や足や犬や人間や二足歩行のカテゴライズをごちゃまぜにしながら、かんがえてみた。なにをやっているの、といったひとも、いる。でも、わたしは真剣だった。

クリスマスはたしかにおわってしまっている。でもまた今年もくる。今年がおわると、来年がくる。わたしがいなくなっても、くるだろう。クリスマス自体にも〈脚〉=〈足〉が、ある。

わたしは、ときどき、四つん這いをする。あなたも、すするかもしれない。でも、ときどきそんなふうに四つん這いするわたしやあなたは、その瞬間だけはきっと、クリスマスのまっただなかに、いる。体の一部が特権化されることのないような、「太平」としての祝祭空間に。

そうなのだ。漱石の『猫』だって、最後には悟ったのだ。「足」や「手」の、「動物」や「人間」の分別に意味は、ない。むしろそれらカテゴリーを放棄したところに、「太平」としてのカーニャバルは、あると。だから、
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎり御免蒙(こうむ)るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。(……)南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。難有い難有い。(夏目漱石『吾輩は猫である』、同上、p.544-5)


【註】
〔*〕その意味では、神野紗希さんの「図書室の脚立やバレンタインデー」(『句集 光まみれの蜂』)という句も、「図書」=知と、「脚立」=足が交錯し、転倒する句になっている。「脚立」は、「脚」を使って「図書」=知識を得るためのものなのだ。そしてその図書室をラッピングするのが、祝祭空間としての「バレンタインデー」である。実はそうした「脚」と「クリスマス」「バレンタインデー」の関係の主題を考えてみれば、エロティシズムの視点から読み直してみることも可能かもしれないとも、おもう。たとえば同じ句集から次のような句にも脚=足とエロティシズム(足からの身体の隣接性)の主題があるかもしれない。「明け方の雪を裸足で見ていたる」「おぶわれてサンダルの脱げそうな足」「雑誌繰る君素足なり寝ころんで」「詩に飽きて小猫の肉球と遊ぶ」

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