2015-03-15

【週俳・1月2月の俳句を読む】川柳はストリートファイトである 飯島章友

【週俳・1月2月の俳句を読む】
川柳はストリートファイトである

飯島章友



太箸に栗きんとんの甘さかな   小野あらた

読みおえて、一瞬(おや?)と思った。その(おや?)の由来を考えてみたところ、「太箸」ではさんでいるのが「栗きんとん」という物体ではなく、「甘さ」という感覚だからなのに気がついた。ふつう、箸ではさんだ時点では物体的な「栗きんとん」が意識される。ところが、上掲句では一足飛びして味覚が意識されているのだ。

まあ実際は、栗きんとんが甘いことは周知の事実だし、また、とろりとした餡の形状はすでに甘味を体現しているので、太箸にはさんだ時点で「甘さ」はじゅうぶん意識されるのではあるが、そういうことを抜きにしても、これは短詩型ならではの面白い措辞だなと思った。散文でこの妙味は出ない。外山滋比古著『省略の詩学』に、「ヨーロッパの詩はことば、思いを、つみかさねてつくる。建築的である。それにひきかえ俳句は、ことばも詩想も、できる限り削り落とす。彫刻的である」と書かれているのを思い出した。


鼬得て温もりゆけり鼬罠   花尻万博

「鼬得て温もりゆけり」という妖しい措辞に魅了された。鼬罠に意志が宿るかのような「鼬得て」、カメラをフィックスしたまま移ろいを静観する「温もりゆけり」。「ゆけり」という未来へつづく表現が情の侵入を防いでいる。かりに「温もりゐたり」としたばあい、表現に少しく情が入り込んで、やや通俗的になってしまったかも知れない。

「鼬得て温もりゆけり」と移ろいに軸をおいた措辞をとってきて、一旦〈切れ〉をおく。ホースの先をつまむと水が遠くへ飛ぶように、掲出句も〈切れ〉によってそれまでの移ろいに圧力がかけられ、そのうえで全体像の「鼬罠」が明示される。そのときの「鼬罠」はどうだ。人間の情など寄せ付けない圧倒的な存在感で立ち顕れてくる。


緑と白の境が葱のなきどころ   なかはられいこ

川柳はストリートファイトである。ストリートファイトとは街で行われる素手の喧嘩だ。顔面にこつこつパンチを出しておき、相手のボディががら空きになったところへ強烈な一発を放つのは専門家のボクサー。対してストリートファイター(川柳人)は、自分のセンスだけを信じて思いもよらぬところからパンチを放ってくる。ボクサーは具体的技術をもつが、ストリートファイターにはない。それはちょうど「我が拳は我流、我流は無型、無型ゆえに誰にも読めぬ」と言った、『北斗の拳』に出てくる戦士〝雲のジュウザ〟みたいだ。

上掲句はストリートファイター的なセンスが光る一句。具体的な裏付けはなくともみごとに直感で葱の弱点を察知し、すかっとするほど強烈な一発を入れてみせた。


約束を匂いにすればヒヤシンス   なかはられいこ

東直子の第一歌集『春原さんのリコーダー』の冒頭近くに、

  ひやしんす条約交わししゃがむ野辺あかむらさきの空になるまで

という短歌がある。「ひやしんす条約」だけではそれが何なのかは分からないが、三句目「しゃがむ野辺」からの内容を見れば、その条約がどんなものだったかを想像できる構造になっている。東はストリートファイター的なセンスを短歌に持ちこんだ歌人だと勝手に考えているのだが(東直子ファンの方々に怒られそう……)、短歌形式によって必然的にボクサー的な裏付けが表れている。

だが、なかはらの句の「ヒヤシンス」には、その匂いのヒントとなる具体描写がない。短歌と違い下の句77がないのだから当然だ。裏付けのないままヒヤシンスが直接読み手に投げ出されている。その意味で上掲句もストリートファイター的だ。しかし、この句のばあいはストリートファイターなりの経験知がうかがえる。それは何かというとヒヤシンスの音の効果だ。たった五音の中に「ひ」「し」「す」と無声音が3つもある清らかで果敢ない音質、そして「今夜はとってもヒヤシンス」と言葉遊びなどでも使用される「ヒヤ」の涼感。そういうヒヤシンスの音的要素によって句中の「約束」は、あたかも、渡すことが出来ないままひんやりと、そしてひっそり抽斗に蔵われつづける古い恋文のような質感へと昇華された。


ボタンにしか見えないものを押している   兵頭全郎

今回はモノボケ、ホロホロとポロポロ、双子の子など、似たモノ同士の関係性から発想された句群と捉えてみたが、だからといってそれを共感性へと結実させる方向には構成されていない。これは兵頭のスタイルの特徴といえるのだが、傍から見るとたいへんストイックに思える。

いまの川柳界にはずいぶんと善い人たちが集まっている。清貧、忍耐、労り、家族愛といった要素を組み合せれば〝川柳さん〟という人格が出来上がりそうなくらいに。そんな善い人たちが川柳をつくればどうなるか。たとえばだが、「ボタンには見えぬボタンを押している」と書いて戦争の脅威をほのめかし、「むぅ、過去に学ばない政治家をうまく皮肉っておる」「然り然り」といった共感を得ようとするだろう。たしかにそれは戒めとして拳拳服膺すべきことではあるが。

ところが、兵頭の句のように最初から「ボタンにしか見えない」といわれたらどうだろう。ボタンに見えないモノを押す→実は爆弾のボタン、という固定的イメージがあるその分だけ、読み手は肩透かしを食う。「ボタンにしか見えない」という措辞に込められた裏の意味を探し出そうとしても、「ボタンにしか見えない」レベルを離れることはできない。何というかこれは、プロによる緻密な犯罪と思いきや10代の少年による素朴な犯罪でした、というケースに似ているかも知れない。そう上掲句は、「ボタンにしか見えない」などと純朴に、あるいは冷徹に、あるいは馬鹿真面目に言っている事態を楽しめればよいのである。それは、いわゆる〈膝ポン川柳〉の共感性とは別次元の楽しみ方だ。


水捌けのよいロゴマーク的月夜   兵頭全郎

ロゴマークに月といえば〈花王〉を思い出してしまうが、それはさておき、「ロゴマーク的月夜」とは冷静に考えると面白い。ロゴマークは社名や商品名などをデザイン化したもの。したがって、語順からいうと何かの名前を受ける形で使われることが多い。たとえば「花王のロゴマーク」「花王的ロゴマーク」という形であり、上掲句でいうなら「月夜的ロゴマーク」となるのが順当に思える。ところが、ここでは逆転している。そのため、じつは月夜の方がロゴマークであり、ロゴマークが月夜であるかのような倒錯性が生まれる。と同時に、ロゴマークと月夜の領域の水捌けがよくなった分、「水捌け」「ロゴマーク」「月夜」の各語がぜんぶ流れてゼロに帰する不思議な感覚がおとずれる。


え戦争俺のとなりで寝ているよ   赤野四羽

上掲句は電話を受けての台詞と捉えてみた。電話の相手は「戦争」の行方を探して、心当たりのある所に電話をかけまくっていたのだろう。緊急事態なのである。にもかかわらず、主人公は戦争に添い臥しながらあっけらかんと「え戦争」という。添い臥す相手とは、通常ならば子供、妻、恋人、愛人などが考えられるが、主人公と戦争との距離感・関係性がそのまま現代への批評につながっている。

野口あや子の第一歌集『くびすじの欠片』にこんな短歌がある。

  戦争よやあねいやあね水槽に金魚の餌をこぼせば匂う

「やあねいやあね」という口調は、戦争を〈他人事〉と思いたい主人公のあり方が提示されており、それが三句目以降の具体描写によって示唆的に補強されている。いかにも芝居がかっている。だが、70年間戦争がなく、貧困とはいえ飢え死にすることもなく、あらゆる価値の相対化が促進され平均化されようとしている現在、主人公を道化にすることでしか自らの立ち位置を、ひいては社会一般の状況を逆照射する方法はないのかも知れない。


第405号
小野あらた 喰積 10句 ≫読む
第406号
花尻万博 南紀 17句 ≫読む
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なかはられいこ テーマなんてない 10句 ≫読む
  
兵頭全郎 ロゴマーク 10句 ≫読む
赤野四羽 螺子と少年 10句 ≫読む

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