2015-04-12

【週俳3月の俳句を読む】異次元の世界へ  陽 美保子

【週俳3月の俳句を読む】
異次元の世界へ

陽 美保子



せりなずなごぎようはこべら被曝せり   安西 篤

「せりなずなごぎようはこべら」は改めて記すまでもなく、正月七日の粥に入れる七種の一部である。七種類の若菜を粥に入れて、万病を防ぎ邪気を払い、一年の無病息災を祈る。中国からの伝来であるが、日本でも平安期から習慣となり、今日に受け継がれている。七は聖なる数とされるが、七日の日に七種類の若菜を頂くという行為は、霊験を頼む気持ちの現れでもあろう。

さて、掲句では、元来お祝いのための若菜である「せりなずなごぎようはこべら」が下五で一転して「被曝せり」となる。深読みをすれば、ここに挙げられた菜は聖なる七には足りず、四種類しかない。四という数は「死」と同じ発音で縁起が悪いというので、避けられることが多い。もっとも、作者は上五中七を十二音にしたまでで、特に意識したわけではないかもしれないが、図らずも不吉な数となってしまったわけである。また、正月七日は人日とも言われ、人を占い人を尊ぶ日と定められている。これも中国伝来であるが、元日から六日までは鳥獣や豊作を占い、七日は人の世界の運勢を占った。これもまた「被曝せり」となったわけである。これから一年、いやこれから何年も「被曝せり」という結果になったのは、これはもとより運勢などではなく、人の責任である。

ともあれ、掲句は寡黙であることによって、今まで詠まれてきた多くの饒舌な震災俳句とは一線を画している。「せりなずなごぎようはこべら」という物のみを提示することにより、「被曝せり」という下五が爆弾のような効果を上げている。そして、その詠み込まれた物が長く豊かな歴史的文化的背景を背負っている物であるがため、読者はさまざまに深読みをさせられるのである。


いつもより人の影踏む雛の日   渡辺誠一郎

不思議な感覚の句である。「いつもより人の影踏む」というのは、往来にいつもより人が多いということなのであろうが、直接人が多いと言わず、「人の影踏む」と表現したことにより、読者は現実とややずれた世界に入りこんでしまう。それは「雛の日」であるからであろう。たくさんの雛人形が無表情にこちら向きに並んでいる。人形というのは、どこか怖いところがある。「ひとかた」であれば、当然かもしれないが、どこか死の世界に繋がっている怖さがある。「雛の日」であることにより、「人の影踏む」が何か妖しいこの世ならぬ世界に一歩踏み込んでしまったような錯覚に陥るのは私だけであろうか。

また一人風にほどける春の辻

これも前句と同様、不思議な感覚の句である。現実に目にしたのは、人が街角を曲がるとき、風が強くて、スカーフやコートがふわっと舞い上がった景かもしれない。しかし、「また一人風にほどける」と表現されると、そのまま人そのものももほどけて消えてしまうような錯覚に陥る。「春の辻」である。何が起こっても不思議ではない。その辻を曲がるとどこか異次元へ行ってしまうかもしれない。前句と同様、季語を上手く利用して、何かこの現実の三次元の世界にふっと裂目を現出させたような感覚を起こさせる句である。


母の顔剃れば健やか雛祭    山西雅子

女性も年取るとムダ毛が目立つようになる。これはホルモンのバランスが崩れるからだという。特に顔のムダ毛、口回りが目立ってきて、髯を生やしているように見える人すらいる。老いて自分の外見を気にすることがなくなった母親は、そのようなムダ毛をほったらかしにして、ますます老いて見える。年取ると性別不明の顔をしている人も多い。

私の義母も若かりし頃はかなり美人であったが、晩年は鬱と認知症で表情は硬く、しかめ面をして髯を生やしていた。それでも髯を剃って、化粧をすると若返って見え、少しは笑顔を見せてくれることもあった。老人ホームなどでも、化粧をすると、認知症が軽減して生き生きするという話を聞くことがある。掲句でそのようなことを思ったりした。

作者の母上は鬱とも認知症とも無縁であるかもしれないが、高齢であることに変わりはなく、何か病気を患っておられるように見受けられる。せめて雛祭の日ぐらい、顔をきれいにしてあげたい。雛祭は女の子のお祝いの日なのだ。お母様もきっとにっこりされたことだろう。似たような体験をした者として共感した句である。


第412号
安西 篤 影の木 10句 ≫読む
渡辺誠一郎 国津神 10句 ≫読む
第413号
山西雅子 母の顔 10句 ≫読む

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