2015-05-03

〔ハイクふぃくしょん〕人蟻 中嶋憲武

〔ハイクふぃくしょん〕
人蟻

中嶋憲武


『炎環』2014年10月号より転載

兄が母に切りつけられたと聞き、急いで病院へ向かった。兄の病室へ刑事が出入りしているらしい。

四月末のそろそろゴールデンウイークを迎えようかと云う、薄墨を溶いたような雲の光る、汗ばむような日だった。案内された個室へ入ると、兄は起きていて、上半身を起こし窓の向こうの陰気な空を見ていた。右肩から胸にかけて包帯がぐるぐる巻かれている。左の二の腕にも分厚く包帯が巻かれてあった。 

わたしに気づくと、兄は暗い視線を向けた。月の裏側のモスクワの海。その周囲を一晩かけて歩いて来たような顔をしている。包帯、すごいねと言うと、無表情この上無い様子で、ずきずき痛むんだよ。曇っているような日は多分、特にね。と答えた。大変だったね。お母さんと何があったの。ユリに話しても、どうかなあと、左手の中指の爪を小刻みに噛み始めた。考え事をする時に、昔からやる兄の癖だ。するうち、ぽつりぽつり話し始めた。

四十五になっても独身の兄は、築六十年になろうとする実家に七十八の母と二人暮らし。寝る時は二階の夫々の部屋で休んでいる。ある夜の二時頃、兄は母の悲鳴で目が覚めた。ぎゃあっと言う悲鳴と、それに続く誰かを叱責するような声。

泥棒でも入ったのかと思って、お母さんの部屋へ入ると、おめこ電球しか点いてなくてよ、布団の上に起き上がったお母さんが肩で息をしていたよ。どうしたのかと聞くと、息苦しさに目を覚ますと、蟻みたいに全身真っ黒な男が覗き込んでいたんで、叫んだらしい。夢中で半身を起こすと、その蟻男は消えてたんだ。顔は、目鼻の凹凸が辛うじて分かる程度で、耳も無いし口も無い、漆黒の大きな卵みたようだったとか。その晩が初めてだったかな。

兄は天気の話でもするみたいな口振りで話した。それ以来、その蟻のような男は度々、母の部屋に現れるようになった。

階段をみしりみしりと上がって来る音がして、襖がすーっと開く。黒い男が敷居の辺りに座っている。常夜灯の深い橙色に澱んで、ゆっくりと躙り寄って来たかと思うと、母の顔をじっと覗き込み、のしかかって来ようとするので、母は何事か喚きながら男を押しのけたが手応えが無い。消えていたのだ。

出刃包丁。俺を襲った凶器だよ。昨夜、ふと目を覚ますと、裸電球が煌煌と大きく揺れていた。眩しいと思って目を凝らすと、お母さんが喚きながら包丁を振り回してた。電球の揺れる影に向かって、逃げるなっとか怒鳴ってた。恐くなって俺は逃げようとしたんだけど、運悪く包丁に当たってしまった。お母さんの寝巻がはだけて痩せた乳房が揺れていた。恐いと思いながら、そんな事を妙に覚えているよ。

窓の外はいつしか雨になっていた。兄は雨を見ながら爪を噛んだ。雨を見たまま、お前がいてくれて良かったよと呟いた。

鯉のぼりものを思ふと爪を噛み
  丹羽晶子

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