2015-09-20

【週俳8月の俳句を読む】それは「俳句」なのか 久留島元

【週俳8月の俳句を読む】
それは「俳句」なのか

久留島元



「俳句」を、人に「教える」という立場に、立つことがある。

肩書きとして「講師」を拝命するからは、自分の意志や実際の手法とは別に、それは「教える」立場でしか、ありえない。

「俳句」の入り口として、私は、「季語+○○」で十二音を埋めてみよ、という入り口を用意する。

週刊俳句ではおなじみ、悪名高い「十二音技法」だ。

私はこの手法が、俳句のいわゆる「取り合わせ」、まったく関係のない言葉同士を掛け合わせて生まれた結果生まれるトリップ感を実感させる練習としては悪くないと思っていて、だから多くの人たちにこの手法をすすめている。


棒読みの防災無線南瓜切る
  江渡華子

「棒読みの防災無線」と「南瓜切る」行為との間に何の関わりもないが、日常ののどかさと、そのなかにひそむ暴力性との対比が、あざやか。


声変わりしてるしてない氷菓食う  中谷理沙子

「氷菓」がともなう夏休みのノスタルジックさは、思春期時代を呼び込み、大人ではない気後れや誇りや、大人になってしまう気恥ずかしさに重なって、軽やかに甘酸っぱい。



それでも「十二音技法」が一部アレルギーのように拒否感をもって指弾されたのは、それが基本型として流通することで、多様な俳句表現を狭めるように見えたためだろうか。

十二音技法は、当然ながら「有季定型」という「俳句」の枠組みを前提とする。

しかし周知のごとく、その枠組みの中でも「俳句」は驚くほど多様であり、現代にあって文語という技法を加えてさえ、なお新しい姿をあらわす。

牙生えてきて黙しをる夏野かな  藤井あかり

牙は、誰に生えたものか。生える牙をふるうことなく、「黙しをる」者とはなにものか。

ここには内なる異形に過敏に、清冽に向き合う作者の姿が在り、有季定型という形式を守りながら、高屋窓秋の正統な後継者ともいえる「夏野」の風景がある。


八月のラジオ海流のぶつかる音  大塚凱

ラジオから聞こえる音が、「海流のぶつかる音」という。

おそらくはノイズ音の聞きなしであろうが、そこに「海流」を想起し、その聞きなしを詠い止める作者が、どうしようもないナイーブな青春性を匂わせる。


風鈴の揺れれば胎児宙返る  柴田麻美子

胎内に別の生命を宿す感覚とは、一体どんなものか。雄たる私はついに味わうことができないが、あらゆる事象に因果と奇跡を感じさせる偉大な期間に違いない。



「取り合わせ」という技法をあざやかにみせるとき、多くの人が使うのは「切れ」である。

俳句に限らず、短詩において内部に飛躍を取り込もうとすれば「切れ」が生じるのは当然であり、その飛躍の大きさや、方向が、「取り合わせ」俳句の生命といえる。


夕虹を指すに遅れて嗚呼と云ふ  青本瑞季

切株の膚のごとくに蛾の鱗粉  同

虹に驚く嘆声の、一呼吸遅れた「嗚呼」(それが自分のものであれ、同伴者のものであれ)に気づいてしまう感性は、どうしようもなく「俳句」的である。
対して「蛾の鱗粉」を喩えに「切株」の「膚」を想起する作者の自意識は、「ごとく」の強引な連結によって飛躍のポイントを見失わせ、我々はいささか置いてけぼりを食わされる。


麦茶注がれていびつな氷だと気づく  宮﨑玲奈

がつかうのおほかたが夜扇風機  同

「切れ」による飛躍のポイント、「定型」五七五という枠組みを多少踏み外しても、麦茶の氷の形状に「気づく」視点、学校という空間を「おほかたが夜」と捉える見方、それがすでにして俳句的な定型感に包まれていて、戸惑った私たちは安堵を取り戻す。

しかし、そこにあるものが、「有季」でも「定型」でもなくなったとき、私たちはどうやって「俳句」を判別するのか。

これは俳句じやないわつて誰か言つてくれよ、ぼくの横で笑つて  中山奈々

確かにこれは、全く私たちのよく知る「俳句じゃない」。

しかしこのtwitterにも似た、しかしながら不思議に定型感(五七五)にそった、しかしあまりに個人的な、そのうえで妙に客観的な視座に立ったこれは、それでも「何か」と言われれば「俳句である」と、あまたの逆接を踏まえて私は思う。

少なくとも、そこに「俳句」を味わうときに似た、あの感触がある。

悪口を言ふために呑む、鈴虫の相槌が上手い  同

母さんが優しく健康に産んでくれたので飛蝗捕る  同

ネンテンさんネンテンさんネンテンさん水澄んでをる  同

外山一機を笑はすばい独楽が手に入らない  同

だから私は改めて言う、作者は紛れもなく「俳句」を志向しているし、やっぱりこれは「俳句」なのだ、と。


第432号 2015年8月2
宮﨑玲奈 からころ水 10句 ≫読む
第433号 2015年8月9
柴田麻美子 雌である 10句 ≫読む
第434号 2015年8月16
青本瑞季 光足りず 10句 ≫読む
第435号 2015年8月23
藤井あかり 黙秘 10句 ≫読む
大塚凱 ラジオと海流 10句 ≫読む
第436号 2015年8月30
江渡華子 目 10句 ≫読む
中山奈々 薬 20句 ≫読む
中谷理紗子 鼓舞するための 10句 ≫読む

4 comments:

おもと さんのコメント...

12音を悪く言う方はどのようにして
俳句の作り方への導入部を作るのか、気になります。
いきなり一物仕立てでやらせる人までいると
話だけは聞いたことがありますが、初心者にできるとはとても思えません。
少なくともその初心者たる私には無理です。

minoru さんのコメント...

確かに紹介された中山奈々さんの句は、わたしたちの良く知る有季定型の俳句ではないけれど、私たちの知っている自由律俳句の手法に乗っ取った「俳句」であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもない、ということでもあると思います。もちろん、自由律俳句は俳句ではないという立場にたてば、奈々さんの句は1行短詩であって俳句とは違うと簡単に言い切ってしまえるでしょうが。そして、自由律俳句は自由律俳句としての、それ自身の歴史と成果を積み上げてきているので、それをことさらに「不思議に定型感(五七五)にそった」(ちなみにもしかすると「安定感」は「定型感」ということなのでしょうか)というような韻律面から、あるいは「妙に客観的な視座に立った」といういわゆる「客観写生」と関連付けるようなあいまいな性格付けで、有季定型俳句の側に無理して取り込む必要はないのではないか、とも思われるのですが。そのうえで、中山奈々さんが有季定型俳句の従来の自分の枠から踏み出して自由律という俳句形式を試みる中で、逆に自己の俳句の見直しや内実の充実を図ろうとして頑張っておられるようにも思え、その実践のひとつが今回紹介された一連の作のようにも思えるのですが。

曾呂利 さんのコメント...

コメントありがとうございます。

>おもとさま
>12音を悪く言う方はどのようにして
>俳句の作り方への導入部を作るのか、気になります。
12音技法に対する批判については、過去記事などを適宜ご参照いただければと思いますが、
そもそも「ことばに関心の無い人に俳句の作り方を教える必要があるのか?」
という批判もありました。
12音技法以外の手法としては、季語を知るとか写生とか、
具体的な作品紹介や添削例から入るとか、
本屋に行けばたくさんの入門書が並んでおりますので、これも適宜ご参照ください。

>minoruさま
なるほど、
「有季定型俳句の従来の自分の枠から踏み出して自由律という俳句形式を試みる中で、逆に自己の俳句の見直しや内実の充実を図ろうとして頑張っておられる」
というあたりは、よくわかりますが、作品中にあるとおり中山自身が「俳句じゃない」
ぎりぎりの可能性に迫ろうとしていること、は重要かと思います。
これはあくまで短歌でも川柳でもなく「俳句じゃない」って言って欲しい「俳句」なのだ
ということ、です。
そのうえで、では、ツイッターのつぶやきと一行詩と、ここで自由律俳句を加えたとして、
どこが違うのか、という疑問にたどり着きますが、それを印象評(妙に客観的な視座に立った)
以上に論理化することはできませんでしたので収めました。
ところですみません、「安定感」ではなく私も「定型感」と言及しているところですが、
何か疑問がありましたでしょうか?

minoru さんのコメント...

すいませんでした。「定型感」、こちらの見間違えでした。失礼しました。「五七五」に安定感を見ている私の側の見間違いということになるのでしょうか。
「俳句ではない」と「有季定型」俳句に対する試みとしての否定の契機を含みつつ、しかし広く自由律の中に包含されているということになるのでしょうか。
有季定型や自由律を広くカバーする俳句性それ自体の問いかけ、という意味合いもそこにはあることになるのでしょうか。