2015-12-27

週俳2015年8月のオススメ記事 ねっとりと 黒岩徳将

週俳2015年8月のオススメ記事
ねっとりと

黒岩徳将



福田若之 時計と言葉とそれらがほんとであるということ 『久保田万太郎句集』の一句


時計屋の時計春の夜どれがほんと 久保田万太郎 を私が初めて読んだのは山本健吉の季寄せだった。句の中における「春の夜」の位置づけがとても新鮮で、以来何度も口ずさんだ。
福田の評は、時計=相対的なものという指摘にとどまらず、「季語が時計」であるという点が新しい。

通常、季語として読まれる言葉は春夏秋冬あるいは新年のいずれかを約束事に従って指し示し、また、そのことによって時間を間接的に表す。われわれもよく知っているように、これこそ季語の定義にほかならない。そして、季語のこの性質は、時計が時刻を指し示し、そのことで時間を間接的に表すのと同じである。したがって、季語は時計に似ているのではない。季語とは時計なのである。仮にその時計が止まってしまっているのだとしても、そうなのだ。
そして、「春の夜」という言葉もまた時計だというのであれば、「ほんと」なのか分からないのは、もはや、時計屋の時計ばかりではないということになるだろう。時計屋の時計、「春の夜」、どれが「ほんと」なのだろうか。
ここで、筆者にとっての万太郎句の新しい鑑賞が提示された。筆者が最初に読んだ時点では、「どれがほんと」の「どれ」は「時計屋の時計」を指しており、真ん中に置かれた「春の夜」はあたりを包みこむ空気の設定として置かれているだけだと感じていた。ところが、「季語=時計」論を先に提示した福田は、「春の夜」も「ほんと」なのかどうかの俎上に置かれるという。すると、今度は「ほんと」とはなんなのか、ということが頭をよぎる。
名句はいくつもの引き金を持っているということを思わされる記事であった。


小津夜景 草笛を手放して 竹岡一郎『ふるさとのはつこひ』を読む 

『ふるさとのはつこひ』は筆者は未読だが、「もはや古典の範疇ともいえるSF戦闘アニメの要素をひっそりと底に秘めた」と言われても、特定の映像作品を下敷きにして、引用されている竹岡句を読み進めることができなかった。しかし、「この手の句というのは、俳句業界では奇抜の範疇に入るのだろうか」(私には見当がつかない)とあるように、こういった試みをやることで「季語」や「俳句」、「定型」(竹岡句は定型を十分意識はしているが)といった既成概念に他ジャンルの手法を用いてゆさぶりをかけつづけていただきたいとは強く思う。筆者は、ファンタジーは俳句形式には不向きではないのか、と常々思っていたがこういったやり方もあるのだ。俳句を嗜む10代の少年少女、20年の青年等にはSF戦闘アニメを好むものもいると思うが、彼等彼女等がSF戦闘アニメの色を帯びた俳句を作り、大人達から見向きもされなかった経験が存在する可能性がある。そういった若者達が竹岡句と小津の評を読むと何を感じるのだろうか、そんなことを思った。


今井聖 名句に学び無し、なんだこりゃこそ学びの宝庫(12) 短夜や乳ぜり泣く児を須可焉乎 竹下しづの女

「通念や倫理に捉われるな」という今井のぶれない論が、この句を通すととてもわかりやすく理解できる。

「教科書的」な教師俳句を批判する今井の論を読むと、《曼珠沙華手に学校を消す呪文 今井聖》をいつも思い出す。

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八月らしく、良い意味でねっとりとした文章と素材が多かったように思われる。

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