2016-02-21

秩父道場参加の記 関悦史

秩父道場参加の記

関悦史

「海程」2015年8・9月号、一部校正・改稿


ろくに旅行をしないもので秩父といってもイメージがわかず、同じ北関東なので私の住む土浦と変わらない、平成不況でさびれた平らな郊外かと思いきや、実見してみたら地形も町並みも全然違っていた。

乗換駅には自動改札がなくて駅員に切符に鋏を入れられ、マイクロバスを仕立てて吟行に行った「ようばけ」は地層が露出した断崖が迫る岩石だらけの河原。そこまでの道も上下にゆるやかに動き、町も宿も昭和の風情が濃厚に残っている。金子兜太が普段目にしている土地柄はこういうものだったかと思う。

吟行先の神社にあった、岩石をそのまま転用した兜太句碑を皆で囲んでいて、参加の一人が、兜太先生に似ていると口にしたが、土地全体が緑も多いがとにかく石っぽい。

マイクロバスが途中で拾った五島高資氏が隣席になり、句集をもらったりした。個人的には吟行は滅多にしないし、大した句ができたためしがない。河原でも、断崖の上から落ちて来たらしい樹木の根にたかる蝿だの、巨大な落石の上に乗って遊ぶ子供たちだの、いろいろ細部を見ながら、無駄に体に溜め込んで帰ることになった。

途中、味噌工場の売店があったが、独り身で土産を買う習慣もないことから何も買わずに過ぎた。夜中に宿の一室に有志が集まって酒宴がはられたが、そこで島ラッキョウか何かと一緒に、昼間買ったという味噌が出てきて、これは買っておけばよかったと後悔した。

いや、その前に吟行後の句会があって、これがメインイベントの一つなのだが、大人数でなかなか終わらず、途中で夕食。夕食の大広間で初めて兜太御大登場となった。参加しなかった人がこの拙稿を読む可能性もあるから念の為に書いておくと、初日の吟行と句会の前半は兜太師は姿を見せていなかったのだ。

二三年ぶりにお目にかかり、動作がスローになった印象はあるもののお元気そうで、つい先日も沖縄に行ったなどと仰るのだが、ちょっとでも変な感じがすると思ったら無理は一切せず、毎夜九時には寝てしまうという。じつに細心なのだ。〈酒止めようかどの本能と遊ぼうか〉の句、最近のような気がしたが、伺ってみたらこれがもう三十年前であった。禁酒後ずいぶん経っているのだ。

考えたら兜太師は私と誕生日が二日しか違わず、どちらも乙女座である。自己管理はお手の物なのかもしれない。噂の秩父音頭が出なかったのは残念。

お食事もゆっくりなので、翌日の昼食も、皆が食べ終えて大広間から去ってしまった後、一人で残っておられた。この時二人きりとなり、戦争の危機やら、最近の報道統制ぶりについてお話したりした。報道統制はネットを見ず、テレビ・新聞が与える世界像だけに接している人には呑み込みにくい話でもあるのだが、兜太師、その辺は実に柔軟に聞き入っていた。

ちなみに「国境なき記者団」が発表している「報道の自由度ランキング二〇一五」では日本は昨年よりさらに二つ下がり、六十二位という低順位であった。「顕著な問題のある国」扱いであり、東アジアでは台湾、韓国より下である。誰も思い出したくもないであろう民主党政権の頃は十一位から二十二位の間だった。つまりあの頃は報道の自由度が高かったから叩き放題だったのである。

兜太師、普段具合の悪いところは特にないが、血糖値を調整する注射を外泊中はご自分で打っているとのことで、朝打つべきところを間違って夜打ってしまった。さあ大変だと思っていたら、それから宿の人からおにぎりを二個もらって助かった、長生きするヤツというのは運が強いんだなどという話もされていたが、こういうのは当人より周りがハラハラする。

句会での兜太師の講評は、採らない句については無論のこと、採っておいてから「何でこの句を採っちまったんだろうなぁ、騙されたな」などとくさし始めることも少なくないので、会員の方にとってはがっくりくることもあるだろうが、せっかく師についていながら褒められてばかりの句会など意味がない。褒められたところもともかく、どこがケナされたかの方が、句の結晶度とか格とかを観る上では余程参考になる。私が入門書的にアウトの細かいところ(季重なりとか何とか)でひっかかった句が、兜太師の裁断で「良い句」になってしまう局面もあった。このとき、句は上手い下手の次元ではなく、詩的位格の次元で鑑定されているわけである。ここを呑みこむのが重要。

もっとも口が悪いのは兜太師に限った話ではなく、その後、帰る間際の頃に参加された中のお一人が、私に「講評のときズバズバ斬ってくれてスカッとした」などと感想を伝えてくれたりもした。こちらとしてはある程度は言葉をやわらげていたつもりであったのでびっくりした。まだまだである。われわれ乙女座は批判精神が旺盛なのですよ。

句会では宮崎斗士さんの司会の手際がいいのに感心した。採った側、採らない側から適宜コメントを取り、時間内にまとめていくワザは人数の多い大結社ならではであろう。私がやったら途中で疲れて注意力散漫になり、何をやっているやらわからなくなったはずである。われわれ外部講師の応対も全部斗士さんの担当であった。かなりの作業量だったはずである。多謝。

二日目はその私と筑紫磐井さんの講演もあったのだが、これは特に話を合わせたりすることもなく、互いに好き勝手なことを話した。磐井さんとは同じ「豈」であるにもかかわらず、直接会うことはそうはない。大きなシンポジウムなどがあるときくらいである。

磐井さんの話は近著『戦後俳句の探求』の概説的なものだったが、これと前著『伝統の探求』の二冊で前衛と伝統を論じており、これで現代俳句の詩学の全域がカバーされたのかと思いながら、何となく得心できずにいたのだが、磐井さんの講演を聞いていて気がついた。この二著からは新興俳句の系譜が抜けているのだ。「豈」創刊者の攝津幸彦の出自が新興系で、磐井さんがその発行を継いでいるので気づきにくかったが、新興系の文学主義はあまりお好きでないらしい。

磐井さんの前に前座というか、私の講演が先に入って、古沢太穂の社会詠の話などしていたのだが、兜太師、朝もゆっくりなので、なかなかお出ましにならない。半分くらいしゃべったところで入って来られて、後ろから励ますように肩を二三度叩かれた。

全日程終わってお別れの時も両手で固く握手。こういうスキンシップ、俳句をやっていても他ではなかなかない。

またお会いしましょう。





付記……去る2016年1月31日に榮猿丸、鴇田智哉、トオイダイスケらと、SSTプレゼンツ「hike in three sounds」という朗読イベントを行った。朗読といってもテクノポップのリズムに乗せたものなので、なかば音楽イベントになっていたのだが、この企画、当初はもっとコント的な要素も入る予定だった。

その幻に終わったネタのひとつに、私が「現代思想と俳句」といったような内容で、(一見)生真面目な講演をやり、その背後に、褌ひとつで乾布摩擦をする兜太師の映像をリピートで流し続けるという馬鹿馬鹿しいものがあった。

秩父道場の講師になったので、今度兜太に会うという話をしたら、榮猿丸にそれはぜひとも出演交渉しろとせっつかれ、九十代の文化功労者をこんな企画にひっぱり出せるかと思いつつも、二日目の昼食時に、大広間で兜太師と二人きりになったので、ともかく切り出してみたのだが……

「じつは今度、榮猿丸や鴇田智哉とかくかくしかじかな朗読イベントの企画がありまして」
「ふむ」
「それでですね、その、金子先生に乾布摩擦していただいて、その映像を私が講演やってるバックで使わせていただけると大変にありがたいのですが…」
「はははははは。できるか、そんなこと」

と、破顔一笑、バンバン肩を叩かれ、この企画はあえなく流れたのであった。

ご無礼のほど、平にご容赦を。

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