2016-09-11

なぜ歴史的仮名遣いか 照屋眞理子

なぜ歴史的仮名遣いか

照屋眞理子



遅まきながら、夏井いつき第一句集『龍』の復刊を読み、ついでに既に手許にあった第二句集『梟』も思い出して開いてみたのだが、初めて、二冊には、作品の変化よりも先に大きな違いがあることに気がついた。

第一句集は歴史的仮名遣いであるが、第二句集は現代仮名遣いになっており、第二句集の「あとがき」には、「『歴史的仮名遣い』の呪文めいた効果を捨てがたく、迷う時期が長く続いたが、‥‥肝要なのは自分の感動を表現するのに最も適した『手法』『文体』『律』等を探し求めることであって『文語表現・歴史的仮名遣い』の遵守に腐心することではない……」とある。

夏井氏の決断に異を唱えるつもりは全くないが、「『歴史的仮名遣い』の呪文めいた効果」は、はてそれだけのことであろうかと、ふと思った。

いささか不細工な例文だが、

「蝶々はハ長調である」

という短文(「蝶々」は童謡のタイトルとでも思っていただきたい)をどのように〈読む〉か、考えてみる。〈読む〉は、正確には音声化すると言った方がよいかも知れない。

まず、現代仮名遣いでルビを振ってみると、

ちょうちょうはハちょうちょうである①

となるが、さてこれでこの短文が読めるだろうか。実は読めない。

歴史的仮名遣いでルビを振ると、

てふてふはハちやうてうである②

となり、こちらには読み方が示されているのである。

例えば、①を、日本語を学び始めたばかりの外国人が読むと、おそらく、「チョウチョウはハチョウチョウである」と、全ての母音「ウ」をはっきりと読むだろう。事実、私の知る外国出身で俳句を作る青年は、ローマ字表記を用いるとき、「chouchou wa ha-chouchou de aru」というような表記の仕方をしていた。
①はそうとしか読めないのである。

では、②はどうか。

これは、「チョーチョーはハチョオチョウである」と読む。

ローマ字で表すなら、「chōchō wa ha-choochou de aru」となる。

つまり、長音について、現代仮名遣いは読み分けるには不都合があるが、歴史的仮名遣いはきちんと読み分けているということである。

ハ行の仮名表記は「ー」で読み、「ちやう」など表記に「au」(または「ou」)が含まれている場合は「オオ」と読み、「調」や「兆」の「てう」の他、「灯」や「棟」の「とう」など単純に「う」で表記されている場合は「オウ」と読む、という具合に分化されているのである。

現代仮名遣いの不都合を、思いつくまま、もう二、三例。

「大通り」、これは現代仮名遣いでは「おおどおり」であるが、歴史的仮名遣いでは「おほどほり」とハ行の仮名が用いられている。

つまり、歴史的仮名遣いなら「オードーリ(ōdōri)」と音を思い浮かべながら読めるが、現代仮名遣いではそうは読めない。

「文明堂」、現代仮名遣いでは「ぶんめいどう」であるが、歴史的仮名遣いでは「ぶんめいだう」、すなわち「ブンメイドオ(bunmeidoo)」ときちんと読める。

尾崎紀世彦のヒット曲には不都合はないが、賛美歌はやはり「またオー(ō)日まで」と歌わなければ格好が付かない。しかし、現代仮名遣いではそのタイトルを「また会う日まで」と表記するしかなく、不格好が気になって仕方がない。

少し前の話になるが、オリックスに仰木という姓の監督がいた。テレビなどから聞こえる音声は「オーギ監督」であった。字面からは思いもよらない読み方のように思われるが、これも何の不思議もない。「仰木」は歴史的仮名遣いでは「あふぎ」で、「オーギ(ōgi)」と読むように表記されているという訳である。

さて、長音について、かなり端折った説明をしたが、何が言いたいのかというと、歴史的仮名遣いは、音の違いを、出来る限りその通りに表記しようと工夫した結果生み出された、非常に良く出来た発音記号ではないかということなのである。

それは音の違いをその通りに読み分けて味わいたい、という願いから生まれたものではないだろうか。

現代仮名遣いでは外来語の片仮名表記にしか用いられない「ー」までもきちんと表記しているのである。

現在では、短歌俳句の定型詩以外にはほとんど用いられない歴史的仮名遣いであるが、両定型詩にこれが残っているということは、何を示すのだろうか。

音を疎かにして定型詩は成り立たない、ということだと思う。

意味より先に音を楽しむ、定型詩にはそんな楽しみ方がある。現在まで歴史的仮名遣いを残してくれた数多の先達は、そのことをよく知っていたということではないだろうか。

音を楽しむという、詩の音楽性の一端を歴史的仮名遣いは担っているのではないか。

そして、やや乱暴で唐突な飛躍かも知れないが、言葉の音を蔑ろにすると、言葉は意味だけが幅を利かせてしまう。そんな風に考えるのだが、いかがなものだろうか。

現代仮名遣いと歴史的仮名遣い、新旧どちらが正しいかと言うことではない。

ただ、どちらが楽しいかと考えるなら、歴史的仮名遣いの方が断然楽しいという話である。


3 comments:

大江進 さんのコメント...

ご自分の嗜好をむりやり理屈で補強してる感じがします。歴史的仮名遣いでなくとも、ほとんどの人は発音を無意識的にちゃんと発音していると思います(とくに俳句を作っている人なら)。
 私はずっと現代仮名遣いですし、漢字も現在の一般的表記に従っています。今の世の中で、自分以外の他者に何をどう伝えるかを考えると、それがいちばん適していると思うからです。ただし、しょせんは趣味嗜好の範疇と私はとらえているので、他の人がどう表記しても批判はしませんが。

浜口 さんのコメント...

そうですね、むしろ旧仮名の発音を現代人が正しく把握しているのかどうかに不安があるような気もします。

大江進 さんのコメント...

旧かなには特別関心もありませんが、例えば「ネイティブ」の古老が方言を丸出しにして話しているのを聴くと、意味が不明であるのみならず、通常の五十音・ひらがな表記では表しようのない不思議な発音がいろいろ出てきます。「ん」ではじまる言葉などはごく普通にありますし。したがって旧仮名遣いで表記されている言葉が、本当に過去において現在の「旧仮名遣い」の使い手がするのと同じように発音されていた証拠はどこにもないような気がします。録音機器など当時はありませんし、大昔から寸部たがわず同じ発声をしつづけている人などいるわけもありませんし。