2016-11-06

あふれでるもの 碧梧桐の長律句について 青本瑞季

あふれでるもの
碧梧桐の長律句について


青本瑞季


赤い椿白い椿と落ちにけり 『新俳句』(明治29年)
白足袋にいと薄き紺のゆかりかな (同)
この道の富士になり行く芒かな 『春夏秋冬』(明治33年)
虚空より戻りて黍の蜻蛉かな 『新傾向句集』(明治39年)
思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇 (同)
木蓮が蘇鉄の側に咲くところ 『新傾向句集』(明治44年)
林檎をつまみ云ひ尽くしてもくりかへさねばならぬ 『八年間』(大正7年)
曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ (同)
ポケツトからキヤラメルと木の葉を出した 『碧』(大正13年)
チゝアン女像にミモーザはローマの春のゆたに挿し (前書きに「ローマ回想」) 『三昧』(昭和5年)  *原文は「女像」に「ヲンナ」とルビ――引用者注
紫苑野分今日とし反れば反る虻音まさる 『三昧』(昭和6年)  *原文は「野分今日」に「キノフケフ」、「反」に「ノ」、「虻音」に「ネ」とルビ――引用者注
老妻若やぐと見るゆふべの金婚式に話題りつぐ 『海紅堂昭和日記』(昭和12年)  *原文は「金婚式」に「コト」、「話題」に「カタ」とルビ――引用者注


これらは子規生前から新傾向俳句や自由律化を経てルビ俳句から俳壇引退後の絶筆にいたるまでの河東碧梧桐の俳句だ。ざっと眺めわたしても碧梧桐の句風は大きく変わっていてどれか一つからその作家性を語るのはむずかしい。統一された碧梧桐らしさというものがあるなら、作品そのものよりその作句姿勢に通底する理念のうちにあるだろう。

『新傾向大要』(明治41年)の最後に、

文学の堕落は多く形式に拘泥するに始まる。〔…〕当代の俳句も多数作者の句を見ると、已にある形式に囚われた感がある。陳腐山をなし、平凡海をなす。この現状の打破は矢張「真に返れ」の声より外にはない。個性の研究はやがて事相の真を捕えることである。
とある。また、『二十年間の迷妄』(大正14年「三昧」創刊号)では、定型から離れ始めた時期を振り返って、
俳句の堕落した前轍をふむ径路に気づかなければ、明日にでも天保調とは別な、形を変えた明治の月並みになってしまう、というのが私の最初の悩みだった。〔…〕
始めて光明を認めたような気がしたのは、それまで絶対であった、五七五の定型を破壊し突破する運動だった。つまり私の悩みは、既成芸術の伝統性が爛熟した権威を持つようになれば、そこに自己を無視した概念化が生れ、同時にその滋味に溺れる遊戯化が匂って来る。自己の心情を詐わり、自己の要求を抛棄しても、それは詩に対する当然の犠牲だと考える、その危険性に対する目覚めだった。自己表現の芸術の要諦に立って、我が個性を純化する要求に萌していた。一言にして尽くせば、真を求める心だった。
と書いている。『新傾向大要』『二十年間の迷妄』の間には十七年経っているが一貫して”個性”、”真の追求”というものを重要視している。同じく『二十年間の迷妄』に〈真を求めることは、我々の生活に流れている感情の実体を求めることである〉ともあるので、自己の感情を純化して表現したところに個性があらわれるような書き方を理想としていたといえるだろう。その俳論を追っていくと、碧梧桐の俳句に真骨頂というものがあるとすれば、型の遵守をやめて自己感情を書くことに重きを置きだしたところ、抒情があふれるように韻律もまた定型をあふれていくような俳句を書くようになったところにあるのではないだろうか。

そういうわけで、前置きが長くなってしまったけれど碧梧桐の長律(辞書的な意味とは違うが便宜上この文章の中ではそう呼ぶ)の俳句を見てゆきたい。碧梧桐の長律句を読んでいくと時間に関わる表現が多いのに気づく。

牛飼の声がずつとの落窪で旱空なのだ 『八年間』(大正7年)
お前に長い手紙がかけてけふ芙蓉の下草を刈つた (同)
曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ (同)
梨売りが卒倒したのを知るのに間があつた 『八年間』(大正8年)
ミモーザを活けて一日留守にしたベツドの白く 『八年間』(大正10年)
散らばつてゐる雲の白さの冬はもう来る 『碧』(大正13年)


〈牛飼いの声〉〈曳かれる牛〉の句の中の”ずつと”には定点として描かれた今からはみ出して、過去と未来にひきのばされてゆく時間がある。牛飼いの声も曳かれてゆく牛も描かれる前からそこに長くあったし、描かれたあとにいつまでもある。じりじりと乾く窪地の中に牛飼いの声だけがずっとあるような、人に曳かれる牛の視線の痕跡がいつまでも残るようなせつない時間。反対に、〈梨売りが〉の時間は短い。眼前の梨売りがいきなり倒れ、その驚きでその瞬間は事態がのみこめていないが、また次の瞬間に梨売りが倒れたそれは卒倒だったのだとわかり、それから最初の瞬間に立ちかえって驚きによる認識の遅れを認識する。驚きが認識の時間をわずかにずらした刹那の時間だけがそこにある。

〈お前に長い手紙が〉〈ミモーザを活けて〉の場合、その中で描かれるのは”けふ”、”一日”という限定された時間だ。抑制からわずかにあふれた書きぶりで、手紙を書いた時の感情がそのまま下草を刈るときまで続いている、そんな幸福感に今日という日が満たされていく。また、宿の自室に戻って歩き回って疲れたところにミモザの黄とベッドのシーツの白が鮮やかであって一日が旅愁の中に思い出される。振りかえられるとき抒情とともに一日の時間がさかのぼられてゆく。

〈散らばつている〉の句は、”もう”を除いてしまって”冬は来る”を”冬が来る”にしてしまえば上五が字余りにはなるが違和感なくほぼ定型に近いかたちで読むことができる。だが、それでは、”来る”という表現の仕方からしてそもそも冬は描かれた時点にはまだ存在しないものであるのに、”もう”によってはっきりと示される冬とのわずかな隔たりが見えにくくなってしまう。“もう”があることで、感慨の対象が冬が来ること自体から、冬の訪れまで間がないことにうつるのだ。この俳句は定型に即していては捉えきれなかったであろう時間的な隔たりをしっかりと捉えている。

定型をはみだすことは表現の過剰によって句の抒情を損ねたり、視線の繊細さを隠してしまったりする危険を冒すことでもあるが、碧梧桐の長律の句は饒舌になることをまぬがれて定型にとどまって書くのとはまた別の抒情を獲得することに成功しているのだ。

※文中の碧梧桐の俳句はすべて岩波文庫の栗田靖編『碧梧桐俳句集』による。

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