2016-12-04

あとがきの冒険 第16回 コンセプト・ピンク・ビクトリー 山田航『桜前線開架宣言』のあとがき 柳本々々

あとがきの冒険 第16回
コンセプト・ピンク・ビクトリー
山田航桜前線開架宣言』のあとがき

柳本々々


山田航さんの現代短歌アンソロジー『桜前線開架宣言』についてはこれまで何度か書いてきたのでこれまでのものとは少し違う話をしてみようと思う。

いつも現代短歌を読むときに、うーんどこから出発したらいいんだろう、と思ったときはこの山田さんの本を取り出してくるのだが、この本の構成でひとつおもしろいのが、各歌人のサブタイトルとしてその歌人の短歌の上の句や下の句を《そのまま》使っているということだ。

たとえば中澤系さんの章のサブタイトルは「理解できない人は下がって」。これは中澤さんの歌である「3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって」の下の句を《そのまま》抜いたものだが、《そのまま》抜くだけでその歌人のコンセプトが《わかってしまう》というのはひとつの〈発見〉だと思う。だから、中澤系さんのコンセプトはたとえばこうだ。《わたしの短歌が理解できない人は下がって》。

短歌というものは、ある一部分を《適切に/恣意的に》抜き出せば、その歌人のコンセプトを一挙に引き出すことができる(場合がある)。それがわたしがこのアンソロジーから学んだことのひとつである。

前回の八上桐子さん達の〈時実新子アンソロジー〉でも述べたことだけれど、アンソロジーには編者の〈偏愛〉がなければ、読者は問いかけられないのではないかと、思うことがある。その意味で、〈編者〉は《偏者》なのである。そして偏愛をもった偏者/編者は読者にも偏愛をもって読んでもらおうとする。偏ってもらうために。そしてその偏りを吟味してもらうために。その意味で、〈偏り〉はあなたの氷った海を砕く斧になる。
要するに私は、読者である我々を大いに刺激するような書物だけを読むべきだと思うのだ。我々の読んでいる本が、頭をぶん殴られた時のように我々を揺り動かし目覚めさせるものでないとしたら、一体全体、何でそんなものをわざわざ読む必要があるというのか?……本当に必要なのは、ものすごく大変な痛々しいまでの不幸、自分以上に愛している人物の死のように我々を打ちのめす本、人間の住んでいる場所から遠く離れた森へ追放されて自殺する時のようなそんな気持ちを抱かせる本なのだ。書物とは、我々の内にある凍った海原を突き刺す斧でなければならないのだ、そう僕は信じている。(フランツ・カフカ「友人オスカー・ポラックに宛てた書簡」1904年)
「頭をぶん殴」り「打ちのめ」し「追放」する〈偏り〉からこそ、いつも新しい地平が生まれるのではないか。わたしたちは〈未来の復習〉をするためにアンソロジーを読むのではなくて、〈過去の予習〉をするためにアンソロジーを読むのだから。

その意味で本書は各歌人のコンセプトをきちんと提示している。だから読者は吟味することができる。中澤系さんのコンセプトはそうかもしれない、そうじゃないかもしれないと。そういう読者のあらかじめの期待を宙づりにしてこそのアンソロジーだとも、おもうのだ。

だからショッキング・ピンクの刺すような色の本書の表紙はあなたを《まずもって》試しているのかもしれない。わたしはこういう本です。偏っています。でもその偏りのなかであなたに感じてほしいものがある。こちらも本気です。読みますか、と。

わたしは読んだ。あなたは、どうするか。

そうだ。あとがきをまだ引用していなかった。だから本アンソロジーの「あとがき」の最後の一文を引用して今回の文章を終わりにしよう。この「あとがき」の最後の一文を読んでいろんなことを考えるはずだ。少なくともわたしは考えた。いろんな《偏り》のことを。「勝ち」負けとはなにかを。「二十一世紀」とはなにかを。アンソロジーは《あえて》あなたを挑発し、試す。そしてあなたに《価値判断》を問う。
二十一世紀は短歌が勝ちます。(山田航「あとがき」『桜前線開架宣言』左右社、2015年 所収)

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