2017-01-29

あとがきの冒険 第21回 檻・鬱・認知行動療法 川合大祐『スロー・リバー』のあとがき 柳本々々

あとがきの冒険 第21回
檻・鬱・認知行動療法
川合大祐スロー・リバー』のあとがき

柳本々々


川合大祐さんの句集あとがきから始めよう。
ずっと檻の中にいた(比喩です)。この世界を憎んでいた(比喩かどうかは不明)。……川柳句集のあとがきなのに、病気の話ばかりで気が引けるが、僕は、病気が好きである。そしてたぶん、自分が、自分の川柳が好きである。
この川合さんのあとがきには〈病〉と〈定型〉の関係とはどういったものかというテーマの一端が端的にあらわれている。川合さんにとっての〈病み=闇〉は、「ずっと檻の中にいた」ことであり、「この世界を憎んでいた」ことも含まれていたと思うが、しかし、〈定型〉とは、もしかすると、「ずっと檻の中にい」ることを引き受けてしまうことかもしれない。比喩、として。

もしそうだとすると、「病気が好き」で、「自分の川柳が好き」になるということは、「檻」=定型の〈意味〉そのものをとらえ直し、受容し直すことにも関わってくるかもしれない。

たとえば。

瓶詰めの天国ならぶ忌忌忌忌忌  川合大祐

この句は、「忌」をさらに続けようと思えば、舞城王太郎さんの小説の壊れた人間たちのように〈続けられる〉句である。

瓶詰めの天国ならぶ忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌忌

と、してもいいのだ。しかし、その〈病的過剰性〉をくい止めたのは、ほかならぬ定型である。下五には、5音までしか入らない。いくら続けたくても、過剰に、病的に、饒舌になりたくても、キ・キ・キ・キ・キという5音までしかここには入らない。ここで〈過剰性〉を食い止めているのは、〈定型〉である。

社会学者の上野千鶴子さんが、俳句の発話形態についてこんなふうに言及していた。
発話ができない状態の時に表現を可能にしてくれた文学というので、わたしは俳句を「失語症の文学」と呼んできました。(「捨てて、捨てて、捨てきってもなおあふれでた言葉」『尾崎放哉』2016年、河出書房新社)
上野さんとは視点が少し異なるが、〈饒舌なわたし/過剰なわたし〉を食い止めるための〈積極的失語〉をもたらすのも、また、定型である。言葉がなさすぎるところから生まれる〈消極的失語〉としての定型詩もあるだろうが、言葉がありすぎるところから生まれる〈積極的失語〉としての定型詩もあるのだ。そして、それが、たぶん、定型詩だ。

わたしたちは、ふだん、ことばを、《質(クオリティ)》の側面から考えている。それがよいことばかどうか。いいこといったかどうか。うまいこといったかどうか。ひざをぽんとたたけるかどうか。

でも、定型詩は、ことばを、《量(クオンティティ)》からみることを、かんがえなおすことを教えてくれる。いっぱい話しすぎてないかどうか。話し足りなさすぎてないかどうかを。

うつ病治療でも、大野裕さんの認知行動療法が注目されたりしているが(参照:大野裕『最新版「うつ」を治す』PHP新書、2014年)、それはうつ病をなんとなくな〈質(クオリティ)〉から考えるのではなく(きょうはなんとなく元気、なんとなく死にたい)、なにができて・なにができなかったかを〈量(クオンティティ)〉としてノートに検証しながら考える療法だった。たとえばすごくこわいこと・できないことがあったとしても、実は〈認知(思いこみ)〉が問題なのかもしれず、実際ノートに書き出しながらやってみると〈できる〉かもしれない。というより、〈できる・できない〉が客観化され、〈量〉となり、検証できるようになるのだ。そしてその検証によって、認知のゆがみがなおされていく、というより、なおしていく、じぶんで。

もしかしするとそうした〈発話の認知〉を修正する役割が、定型にはあるかもしれない。様式のなかで欲動を考えること。そう、実は、川合さんの句集のコンセプトは〈それ〉である。様式のなかで、定型のなかで、欲動を、病を、過剰をかんがえること。

それは、きちんと、句としても、示されている。様式=「時代劇」のなかで、欲動=「リビドー」をかんがえることを。この句。

リビドーですべてが動く時代劇  川合大祐


(川合大祐「あとがき」『スロー・リバー』あざみエージェント、2016年 所収)

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