2017-01-22

評論で探る新しい俳句のかたち〔9〕 構造と構文 藤田哲史

評論で探る新しい俳句のかたち〔9〕
構造と構文

藤田哲史


既によく知っているはずの事柄であっても、違う言葉に言い換えることによって、これまでと違う捉え方ができるのでないか、と書いた先週。先週に引きつづき「切れ」についてもう少し考えてみたい。

すでに指摘したことだけれど、俳句において「切れ字」の有無と一句の中の「切れ」の有無が必ずしも一致しない、というわかりにくさがあった。

この点をもう一歩踏み込んで考えてみると、一句の中の「切れ」は、それ自体を強弱で表すことがあることからもわかるように、もともと0か1かで捉えられる概念でない。

ここまで「切れ」という概念を積極的に構造の不連続性という言葉で言い換えてきたけれど、この不連続性という言葉には、程度というものが許される余地がある。一般的な言葉としての「切れ」には「切れ」ているかどうかの二者択一を求めるニュアンスがあるけれども、俳句における「切れ」では、はっきりとした「切れ」、ほとんど「切れ」ていない、という表現をしても全く違和感がない。

あるいは次の問いかけを考えてみてはどうだろう。俳句において完全な「切れ」は存在するのだろうか、と。

もし完全な「切れ」がありうるなら、それは、作者はおろか読者にも理解が及ばない言葉の並びなのだろう。しかし、そのような言葉の並びを、作者の意図が入り込む隙がないよう、アトランダムに言葉を組み合わせる自動生成機械で作ったとして、そこに詩情は見込めないのではないか。

「切れ」もとい俳句にある構造の不連続性が詩情を呼び込むときに鍵になるのは、むしろ連続性だ。一見何の脈絡もないような言葉の並びであったとしても、なぜそれが一つの作品として成立しているかを読者に問いかけ、何かしらの詩情を表すものである限り、そこには仄かにも連続性は存在しているはずだからだ。俳句はどれも「切れ」ているようで「つながって」いる。

「切れ」は0と1で捉えられるものでないのだ。



一方で、「切れ字」に注目してみると、こちらは「切れ字」を使っているかどうか、0か1かで捉えられることに気付く。

一句の中の「切れ」を構造の特徴として言い換えるなら、「切れ字」を含めた言葉の並びは、いわば、構文だ。

たとえば〔 名詞①+や+□+名詞② 〕という構文があるとすると、

秋風や藪も畠も不破の関   芭蕉
秋風や静かに動く萩芒   高濱虚子
秋風や模様のちがふ皿二つ   原 石鼎
秋風や昼餉に出でしビルの谷   草間時彦
秋風や射的屋で撃つキユーピツド   大木あまり

という作品例が挙げられる(ここでは特に名詞①が秋風である場合に限っていくつかの作品を挙げている)。

もし「切れ」と「切れ字」を合わせて捉えようとすると、「切れ」という構造の不連続性にはいくつもの度合いがあるので、「や」にいくつもの用法を用意しなければならなくなるだろう。

むしろ、一般的な文語文法に当てはまらない俳句独自の「や」を、俳句独自の慣用的な表現=構文として捉え、それとは別に「切れ」=構造の不連続性を考えたほうがずっと俳句表現の捉え方として見通しがよいように思うのだが、どうだろう。



この捉え方について人に話したところ、次のような作品が話題に挙がった。

月光の象番にならぬかといふ
   飯島晴子

ここで用いられている「の」を散文のように読み進めることはむずかしい。穏当に読み解けば、月光が照らすなかで、というような意味で受け取るのがよいだろうか。その人によれば、この作品の「の」は「切れ字」ではないけれども、少し「切れ」があるとして捉えている様子だった。

一般的な「切れ」という言葉のニュアンスに惑わされなければ、その人の捉え方はまちがっていないように思う。繰り返しになるけれど、「切れ」もとい構造の不連続性はいくつもの度合いが許されてよいものだ。

さらに言えば、「切れ」を構造の特徴、「切れ字」を構文の一部としてそれぞれを別のものとして捉えられる以上、「切れ」=構造の不連続性を持たせるのに、慣用的な「切れ字」を用いない表現を目指しても差し支えはないはずだ。



ところで、俳句における一句の中の「切れ」を構造の不連続性と言い換えたとき個人的に強くイメージされるのは、異なる物質を通っていく光の現象だ。

たとえば、ここにガラスの立体があるとする。そしてその立体は水のなかに沈んでいるとする。

水とガラスはどちらも透明な物質だけれど、異なる密度を持っている。この2つの物質の境界面は<不連続>だ。この<不連続>な面に斜めに光が差し込んでくると、それまで直進していた光はその面で進む角度を曲げてしまう。だが、決してその<不連続>な面で光が途切れるわけではない。

と、これはちょっとした思いつき。

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