2017-02-05

評論で探る新しい俳句のかたち〔10〕 「取り合わせ」と「切れ」を再考する 藤田哲史

評論で探る新しい俳句のかたち〔10〕
「取り合わせ」と「切れ」を再考する 藤田哲史

いったん、ここまで書いてきたことについてまとめてみたい。

まずこの連載では、現在の俳句にあるルーツを探るため、構造をポイントに俳句の特徴を捉えることにした。そして、前衛俳句には、近代俳句にあるような、ある時間・ある視点を想定した読み解き方が通用せず、いくつかの読み解き方が可能な構造をもつことを指摘した。

 一方で、俳句における構造の不連続性は、いわゆる「切れ」と言い換えられるものの、この「切れ」は「切れ字」の有無とは別の問題であることを示した。

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もしかしたら、ある人はこれを読んで「そんなことはごく当たり前のことで何も新しいことを言ってない」と思うのかもしれない。

むしろ、それでいい。この文章の前提は、俳句の持っている要素全てが普遍的な言葉で言い換えられる、というところにある。

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 ここで、次の俳句を見てほしい。

  木枯やいつも前かがみのサルトル   田中裕明

いかにも俳句らしい「切れ字」の「や」を含む構文を採用し、なおかつその「切れ字」の前後に一見関係のないフレーズを「取り合わせ」る。

 この俳句は、現在の俳句における一つの典型だ。現在、多くの俳句入門書に「切れ字」入りの構文と「取り合わせ」による方法が紹介されているし、この方法の上に成り立っている良作は少なくない。

内容を見てみると、「木枯」と「いつも前かがみのサルトル」を同じ時間・同じ場所の状況を示したもの、とは考えにくい。木枯が吹きすさぶ町でパリの舗道を思い浮かべたとか、現代哲学の本を読んでいたとか、いくつかの可能性を頭の片隅に置きながら読み解いていくことで複雑な味わいを得る、というような説明のほうが実際の感じ取り方に近い。

「~」と「~~」の響きあい。そのような言葉で現在の「取り合わせ」の俳句はよく評される。

 他方、ルーツという観点から見れば、この「サルトル」には全く異なる2つの面がある。

一つは伝統的な面。現代の日本語にはない俳句独自の「切れ字」が含まれている。

 もう一つは前衛的な面。これは前衛俳句的と言った方が誤解がないかもしれない。いくつかの読み解き方を可能にさせながら複雑な味わいを得る、という構造的な特徴は、どちらかといえば近代俳句でなくむしろ前衛俳句で顕著な特徴だ。

 実のところ、この「サルトル」は、伝統的なレトリックに前衛俳句が獲得した表現が入り込んだ、極めて現代的な作品とみなすのが妥当な見方だと思う。

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ただ、このような捉え方が同意を得られるのかどうか、私には心もとない。

 仮に同意が得にくいとするなら、その原因の一つには現在の俳句における「切れ字」や「取り合わせ」への過信があるだろう。

現在、「切れ字」と「取り合わせ」に関する言説はとても多い。特に、

① 俳句らしい構文 
② 季語 
③ 季語とは関係のないフレーズ

の3つで俳句を作る方法はとても簡単で、ほとんどの知識なしに俳句らしいものを作ることができる。この方法に準じて俳句を作れば、何となく、何らかの詩情をまとわせることができる。

もちろん、私もこの方法で俳句を作ってきた(ちなみにこの方法は俳句の量産にとても都合がよい)。しかも、③季語とは関係のないフレーズは、どのような言葉を持ってくるか完全に作者の自由だ。①と②を最低限満たすべき俳句の条件とするなら、この方法が最も自由な作り方であるようにすら見える。

 けれども、現在の方法の「取り合わせ」は、実のところ、一見自由でいながら、着想の契機だけでなく、それがそのまま詩情を生み出す原動力にもなっているところに大きな制約がある。

くりかえすけれど、「切れ」もとい構造の不連続性は0か1かで判断できるものではない。ただ、構造の不連続性がはっきりとしていればいるほど、俳句として複雑な読き解き方ができる余地がある。

だからこそ、だ。

私たちは無意識に季語以外のフレーズに意外性を持たせようと力みすぎていないか。「切れ」のはたらきを過信して、いつの間にか難解な俳句を量産していないか。あるいは内容の平板さを恐れるあまり不必要に「切れ」を入れていないか。
白雲と冬木と終に関はらず   虚子
今、改めてこの「白雲」と「冬木」の組み合わせと、自然体極まりない虚子の俳句を目の前にして、私はむしろこのような俳句にこそ、文脈に依存しない独立した一句の可能性を感じている。

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