2017-02-05

【週俳12月1月の俳句を読む】新しい朝が来た 瀬戸正洋

【週俳12月1月の俳句を読む】
新しい朝が来た

瀬戸正洋


足を引き摺りながら歩き、腰痛は酷く、通勤快速に乗り最寄りの駅に着いたとき降りるのが一苦労なのである。座席から立ち上がりドアに向かうとき足元がふら付き、手すりに掴まなければ転んでしまう。そのうえ、毎夜、蒲団の中では背中、肩までもが痛み出し、ゆっくりと眠ることもままならない。そんな私を見かねて、老妻は、テレビの「ラジオ体操」を録画してくれた。第一、第二、ワンポイントアドバイス、都合、十分間の運動である。

ぶつからず揺れて互ひを恋ふ木かな  生駒大祐

揺らされているのではない。揺れているのだ。移動することのできない樹木にとって、これが精一杯の表現方法なのである。「見せる」ことが意思を伝達する全てなのである。「ぶつからず」とは、他者に対しての立ち位置として理想的な距離なのかも知れない。どこへでも自由に行くことのできるものたちは、このことを考えなくてはならない。

榛といふ名前に生まれさへすれば  生駒大祐

私の容姿は「榛」ではない。だが、精神は間違いなく「榛」なのである。あなたから見れば「榛」に見えないのかも知れない。身体と精神は異なっているのだ。それは、私だけの問題ではなく、誰もがそうなのである。平凡な暮らしの中で折り合いながら、あなたの望む「榛」に近付くために私は努力する。

シュワキマセリ水中のもの不可視なり  生駒大祐

イエスキリストはおいでになった。水中のものは肉眼では視ることはできない。イエスキリストはおいでにならなかった。水中のものは肉眼で視ることができた。大切なものであっても時には離れないと、それが足枷となり視えるものが視えなくなる。浮世は三分五厘程度だと諦めれば、まわりのものが視えてくるようになるのかも知れない。

襟立てて深海魚として街へ  青柳 飛

襟を立てたのは作者。つまり、作者は深海魚なのである。俳人は、深海魚になろうと思えばいつでもなれる。これから出掛けようとするところは深海なのである。暗闇の中には、ひとのあらゆるもの。たとえば、哀しみ、喜び、苦しみ、悩みなどの感情。あるいは、ひとが撒き散らした汚物、不要として捨てたものなどが散乱、堆積している。そこで、美しい何かを捜し出すのだ。

外套のボタンの取れし日のニュース  青柳 飛

ボタン、その生地の切れ端が透明なビニール袋に入れられてポケットにある。それは、そのまま捨ててしまう。ボタンが取れた経験などほとんどないからだ。この日、外套のボタンが取れたのである。確率からいえば非常に低いこと。そんな日は、必ず、どこかで事件が起きるのである。地下街のとあるBARでは、男と女が薄汚れた会話を楽しんでいる。このようなことが、とんでもない事件のはじまりになることをほとんどのひとは知らない。

その質問大根煮ながらは違反  青柳 飛

大根を煮ながらすることは約束に反する。その質問とは「私ヲ愛シテイルノカ」とか「私ハアナタヲ愛シテイルト思フカ」なのである。これは、すこしヒネクレテはいても、愛しているもの同志の会話なのである。大根は、ぐつぐつと煮えている。ぐつぐつと・・・。

枯園に捨てたる息の空へ空へ  小関菜都子

枯園にひとがいる。ひとが立っているというだけのことなのだ。吐いた息がどこへ行こうと誰も気にも留めない。だが、作者は吐いた息が地表に落ちるのではなく空へ向かっていくのだと思った。空へ向かって行かなくては嫌だと思った。

書斎とは小暗きところ花柊  小関菜都子

何かを書こうとするひとは、家族に対しても、世間に対しても申し訳なさそうに生きているものなのである。申し訳なさそうに、ぼそぼそと文字を原稿用紙に書き連ねる。書斎は、その家の中で一番日の当たらない納戸のような場所と相場が決まっている。手折った柊を空き瓶か何かに投げ込んでおく。それで、十分だと思う。それ以上のものを求めることは身の程知らすなのである。

書におもてうらあり厚さ寒さあり  中村安伸

書は薄さでもなく暑さでもなく、おもてとうらと厚さと寒さがあるだけなのだ。何を書いてもいい。書は意味を伝えない。ひとが言葉として発したとき、はじめて、その書は意味を成すのである。要するに、書とは精神のことなのだ。精神には、おもてとうらと厚さと寒さがあるということなのである。

マフラーを編み国境の橋を編む  中村安伸

私のためにマフラーを編み、私たちのために国境の橋を編む。マフラーを編むこととは国境の橋を編むことなのである。国境に橋を架けることは、正論を吐くことでもなく、誰かを愛することでもなく、記憶と、両手と、その指を酷使しして、ひたすら、マフラーを編むことなのである。

狐から鍵をもらつてゆつくり回す  中村安伸

鍵をゆつくりと回すのは不安であるからである。狐からもらった鍵ならばなおさらのことなのである。半信半疑・・・。これは、愛するひとから鍵をもらうことに似ている。ひとは弱いのである。狐が寄り添ってくれなければ生きていくことなどできないのである。

デモ隊の一人鯛焼食べてをり  西生ゆかり

意思表示はこの程度がいいのかも知れない。政治は必要悪である。その時代を生きている無力なひとりとして、俯きながらでも言わなくてはならないことはある。生きることは恥ずかしいことなのである。鯛焼きを食べながら歩くことぐらい許してもらいたいと思う。

冬ざれや即日融資の文字赤し  西生ゆかり

「即日融資」などという文字こそ、うさん臭さの極みなのである。怪しい文字ほど頑丈なものに書く、赤いインクで、けばけばしく文字を書く。季節や風景だけが荒れているのではない。街を歩くこと、生きていくこと、それらの何もかもが荒れているのだ。

青いねと言うとき空の声が変  瀧村小奈生

「青いね」と言ったのは空なのである。「青いね」と言った空の声が変だと感じたのである。空は、ひとが青空だと思っていることを、そう思ってはいないと言いたいのである。ひとは、一度、空とゆっくり話し合わなければならない。

脱ぎ捨てたものがかさこそ鳴っている  瀧村小奈生

脱ぎ捨てたものとは、そのひとの経験である。不要だと思い捨ててはみたものの思い切りがつかない。それで、かさこそ鳴っているのだ。鳴っているのはソファー、あるいは畳のうえに脱ぎ捨てたものではない。耳の奥、つまり、脱ぎ捨てたひとの脳髄がかさこそと鳴っているのだ。

子どもの頃の夏休みといえば「ラジオ体操」だ。メロディーも体操そのものも、身体に沁みついているはずだと思っていた。それが、ある日、あのピアノのメロディーが途中で聴こえなくなってしまった。順番がわからなくなってしまったのだ。録画した「ラジオ体操」のメロディーは、子どもの頃、慣れ親しんだものとは少し異なっていた。そのことも脳髄が混乱した理由だったのかも知れない。五十歳代はアイドリングの時代。六十歳からが新しい人生のはじまりなどと世間は煽て、年には「功」があるなどともっともらしいことを言う。だが、年を取ることは途轍もなく恐ろしいことなのかも知れない。また、ひとつ、自分自身を騙さなければならないものが増えたのである。騙しているのか騙されているのか訳の分からなくなっていくこと。これを痴呆というのかも知れない。



生駒大祐  10句 ≫読む

第508号 2017年1月15日
青柳 飛 襟立てて 10句 ≫読む
小関菜都子 空へ 10句 ≫読む

第509号 2017年1月22日 
中村安伸 狐の鍵 10句 ≫読む
西生ゆかり ままごとの人参 10句 ≫読む

瀧村小奈生 いいにおい 10句 ≫読む

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