2017-02-19

【「俳苑叢刊」を読む】 第4回 日野草城『靑玄』 見る愉悦 神野紗希

「俳苑叢刊」を読む
4回 日野草靑玄
見る愉悦

神野紗希


日野草城は、執拗に見る人だ。


1.

春暁や人こそ知らね木々の雨

春の暁、一人目覚めて窓に寄り、木々に降る雨を眺めている。人々はまだ眠りの中で知らないだろうけれど、今たしかに、暁の木々に雨が降っている。それを、私は知っている。見ることは、知ること。眠っていて暁の雨を見ない/知らない「人」と、起きて見ている/知っている、句の主体。人々に先んじて世界の春を感知している、静かな全能感、充足感、幸福感に満ちている。

たとえば、同じ集の中でも、

窓あけて春の夜の雨きこえけり

は夜の雨を聴覚に特化して詠んだ句だが、冒頭の句に比べて、全能感は薄い。窓を開けたら、そこには春の夜の分厚い闇があるばかり。雨音が聞こえるので、たぶん雨が降っているのだが、「きこえ」るだけで見えない。なんとなく、世界からやわらかく押し返されているような感じがするのは、「見る」ことで「知る」、という行為を遮断されているからだろうか。

見ることは、知ること。暁の木々の雨がそこにあることを、知ること。つまり、見ることで、木々の雨が、そこにはじめて存在し得る、ともいえる。

秋の蚊のほのかに見えてなきにけり
夕明り水輪の見ゆる泉かな
螢ゐて蘆のひと穂の見ゆるかな


いずれも、見えることで、対象の存在がたしかになった句だ。

一句目、秋の蚊が「ほのかに」だが「見え」た、見えたと思ったら耳のそばを通り過ぎてプーンと音がした。「て」でつないだことで、見えてからなくまでの時間の経過が示されるとともに、見えたのでないた、というような、ほのかな因果関係もにおいだす。見えたから、秋の蚊の存在が、より濃くなった。

二句目、夕明かりの中で、まだ泉の水輪がたしかに見える。わざわざ「見ゆる」と述べることで、光が絞られてゆく夏の暮れ方に、見えなくなってくる他の景色も思われる。

三句目、螢の光に照らし出されたことで、闇の中に消えていた蘆の、その一つの穂だけが、見出され、たしかにそこに存在するものとして知覚された。蘆は群生する植物だから、そこには無数の蘆の穂があるはずだが、ここで私たちが見る/知る/在らしめることのできる蘆は、たった「ひと穂」である。

秋の蚊も、泉の水輪も、蘆のひと穂も、句の主体に見られることで、そこにたしかに存在し得ている。あえて「見ゆる」と明示して、主体の認識をくぐらせることで、その存在のたしかさが、より濃く現れるのだ。

船の名の月に読まるゝ港かな

月の光が差しているので、夜でも船の名前を読むことのできる、この美しい月光の港であることよ。この句、船の名を読む主体が、人なのか、はたまた月そのものなのか、あやふやになっていることで、幻想的な味わいが出ている。

星屑や鬱然として夜の新樹

新樹たちは鬱然としているが、それでも星屑がちりばめられた夜空の明かりによって、その木々のシルエットが、闇の中にうっすらと込み合うのが見える。「星屑」という適度な明度が確保されることにより、夜の新樹は、見られて、たしかにそこに鬱然と現れる。


2.

雪の夜の紅茶の色を愛しけり

雪の白、夜の黒、紅茶の赤、色がくるくると変化してゆくのを「の」の助詞が順番に映し出してくれる。

この句は「色」の語が挿入されたことで詩が生まれた。雪の夜の紅茶を愛するだけなら、寒く冷たい雪の夜に、紅茶のあたたかさがうれしいなあ、というだけの句になる。紅茶はそもそも飲むもの。じっと見つめるものではない。けれども「紅茶の色を愛しけり」といわれたら、注がれた紅茶の面を、しばし口をつけずに見つめている時間が立ち現れる。

俳人はたいていものを見て句を詠んでいるように思われるが、草城がものを見るとき、それは「見る」ではなく「見つめる」場合が多い。一瞥ではなく、凝視。見つめる、凝視する行為には、時間が伴う。蛙が飛び込んだ一瞬、柿を食べたら鐘が鳴ったその一瞬を鋭角で垂直的に句に刻み込むのではなく、降り続く雨や、紅茶を飲むひとときを、平面的に句になじませるような詠み方。瞬間を介さずに、永遠の静けさを湛えた世界が立ち現れる。草城の句がしばしば演劇的であるとか物語性が強いと評されるのも、この、見つめる主体が持ち込む時間性ゆえではなかろうか。

そして、草城の句では、見つめている、凝視している主体が、一句の重要なファクターとして、その句の中に組み込まれている。たとえば「春暁や人こそ知らね木々の雨」の句の、「人こそ知らね」の中七。もし見られている対象=木々や雨のみを描くのであれば、「人こそ知らね」は要らない。この中七を挿入し、私は目覚めて知っている、という他者に対する優位性を組み込むことで、読者もまた、見つめる主体のひそかな喜びを共有できる仕組みになっている。


3.

「ミヤコホテル」の例を挙げるまでもなく、女を対象に詠んだ官能的な句は、草城の句の特徴のひとつだが、この女の句でも、見つめるという行為が大きな意味を持ってくる。視線は欲望の表象。見つめる行為には、性的な欲望がからみついている。

春の夜の足の爪切る女かな
春の夜のくつたびをぬぐ女かな


足の爪を切るところ、くつたびをぬぐところを、執拗に見ている男。いずれも女本人にとっては日常的な場面だが、「かな」と詠嘆して、行為者が女であることを強調したことで、その姿に向けられた視線のエロスが可視化される。つややかな時間と空間を抱き込んだ「春の夜」の季語も、句のエロチックな気分を増幅させる。

手袋をぬぐ手ながむる逢瀬かな

くつたびだけでなく、手袋をぬぐ姿もまた、欲望の視線を集める。手袋を脱ぐ手は、衣服で隠されたその人の生身の肉体が垣間見える部分であり、そこを「ながむる」ねっとりとした視線が、逢瀬の心中のねっとりとした欲望を感じさせている。

重ね着の中に女のはだかあり

これはやや直接的な句だが、重ね着の中に、見えない女のはだかを、幻視しているのだ。いくら隠しても、見せないようにしても、見られることで、見えてしまう。だから、見るという行為は、見つめる対象の優位に立つものであり、見られる側はただ見られるしかない。「見る」男の視点によって、「見られる」側にならざるを得ない女たちは、男の見る行為によってそこに「女」として存在するが、逆に、そうして見出された場合、「女」以外であることは許されない。男のまなざしが向けられることで、女は女というモノ、対象物に変えられてしまうのである。

山蟻に這はるゝ足のうつくしき
脚ながく水着のをとめ歩み去る
こひびとを待ちあぐむらし闘魚の邊
手をとめて春を惜めりタイピスト


いずれも、見つめる時間がとどめられている句だ。山蟻の這う時間、水着の乙女が歩み去るまでの、脚に見とれている時間、恋人を「待ちあぐ」ねている時間、仕事中にOLが手をとめて春を惜しんでいる時間。さらに、見る者と見られる者の視線は交わらない。句の主体は、一方的に、足を見つめ、女を見つめているが、女たちは、歩み去るほうを見つめ、恋人を思い、ゆく春のけだるさにたゆたっている。だからこそ、草城の句のエロスには、危うさがない。男が見つめ、女は見られるだけ。見つめ合う緊張感や、見られることで自分もまた男として対象化されることから自由な、ただ見つめていればいい、幸福なエロスに満ちている。

砂日傘彼まどろめり彼女読む

砂日傘の下のカップルを見つめている。男はまどろみ、夢の中へ。女は本を読むのに夢中。視線は、「彼」にとがめられる心配もなく、二人を侵すことができる。

春の灯や女はもたぬのどぼとけ

「春の灯」と光源を置くことで、闇の中にほんのり浮かぶ、のどのシルエットが見えてくる。その肉体のなめらかなラインが、美しく艶っぽい。

朝寒やはみがきにほふ妻のくち
たはぶれに妻を背負ひぬ秋の暮
初雪を見るや手を措く妻の肩
読み倦めば妻の弾初きこえけり
春愁の妻に紅茶をつくらしむ


一方、妻を詠んだ句は、こんな感じである。はみがきの匂いがしたり(嗅覚)、妻を背負ってみたり肩に手をおいてみたり(触覚)、弾初の音が聞こえてきたり(聴覚)、紅茶をつくらせたり(味覚?)。妻に対しては、見る、見つめるということをあまりせず、かえって五感のほかの感覚によって捉えようとしている。妻を女として見ていない、といってしまえば悲しい捉え方になるが、むしろ、見つめることでただの女に還元してしまわず、歯磨きをしたり、雪を見たり、弾いたり愁えたりしている日々の妻の姿をこまやかに記述した結果が、こういった句になったのだ、と考えることもできる。

湯あがりやアダムのごとく居て涼し

男の肉体を詠んだ。アダムは、蛇にすすめられて知恵の実を口にするまでは、裸でも羞恥心を知らず、堂々としていた。見られることを知らない、恐れないことの「涼し」さを、湯あがりの堂々たる男の裸体に、ふと見た。


4.見られる側に

そんな、執拗に対象を見つめつづけてきた草城の句の主体も、見られる側にまわることになる。『青玄』は昭和十五年三月二十五日発行、既刊の四冊の句集から、大正六年から昭和十二年までの、草城の俳句生活二十年の作品を集めたアンソロジーだ。おのずと、集の最後は、戦争を詠んだ句で占められてゆく。

短髪の青き頭顱を子にわらはれ
泣くまじき妻の眼よむしろ厳しき
持薬飲み補充兵われ腑甲斐なき


出征のため、短髪にした頭を、我が子に見つめられる。泣きたいような妻の眼に見つめられる。そんなとき、見つめるばかりで何者でもなかった、句の主体としての私は、見つめられることによって、父となり夫となり、持病のある腑甲斐ない補充兵に固定されてしまう。主体が、見る存在から見られる存在に変容し、見られることによって、その存在を規定されてゆく。戦争とはそのようにして、その人に役割を与え、何者でもない私の自由を、奪ってゆくのだ。戦争に見つめられることの怖さ。渡邊白泉の〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉が芯から怖いのも、私よりも先に、戦争が私を、廊下の奥からじっと見据えているからだ。
そして、

諜者の眼片蔭に在るごとくなり

と、片蔭から見られる/知られることを恐れたり、

渇きつゝ熊の昼寝を子と見てゐる

と、せめて眠っている(こちらを見られない)熊を見つめることで、見られる渇きを癒そうとしたりする。

戦争詠の中で、彼が見られる側ではなく、見る側にまわるのは、わずかに夢を見る間であった。

野を蔽ふ大進軍を白日(ひる)の夢に
凱旋の夢をみたりき短き夢


野を覆うほどの大進軍も、凱旋する誇らしい姿も、希求する未来だが、それは「短き夢」としてひらめくばかり。束の間の、幻を「見る」愉悦を、ほのかに噛みしめる。


5.

高きよりひらひら月の落葉かな

高いところ、つまり大樹の上枝から、ひらひらと葉が落ちてくる。が、「月の落葉」という省略の効いた表現によって、もしかしたら月から降ってきたかもしれないという奇想まで許してくれる句となった。月の光によって、また「ひらひら」という擬態語によって、その葉の動きがあきらかに見える。見られる落葉、見せる月、見る私。見るという行為にかかわる三者が、シンプルに仕立てられている。

木隠りの沼(ぬ)のあをあをと秋の暮
月落ちて露のにほへる木の間かな


草城は木の詩人、樹木を素材にした句がとても多いが、木もまた、視線を遮るものとして、私たちを見られることから守ってくれる。

朧夜や人にも逢はず木の間ゆく

朧夜の、視覚が遮られている中で、さらに視線を遮る樹間を、ただひとり、歩いてゆく。そのときの、見られることから自由である解放感よ。

夕風にすゞしく撓むポプラかな
アネモネやひとりのお茶のしづこゝろ
春眠やつぼみの薔薇を枕邊に


この句において、ポプラやアネモネや薔薇を見つめている主体は、誰でもいい。草城でなくてもいいし、男でも女でもいい。草城の多くの句は、見られることを意識せず、何者でもない自由を手に、ただ静かに、「しづこゝろ」にて対象を見つめている。「見る」愉悦の、香気に満ちている。

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