2017-05-07

帰属から遠く 結社にまつわる二三の事柄 西原天気

帰属から遠く
結社にまつわる二三の事柄

西原天気

初出:『街』第121号(2016年10月)

ある句会が終わったとき、初参加の若者が「思っていたよりもアウェイではなかった」と感想を漏らしました。

かなり驚きました。アウェイとかホームとかという意識で句会に参加する人がいるとは! 句会にホームもアウェイもないと思っていた自分が鈍感すぎるのかもしれません。俳句をやっていくうえで帰属意識というものが存外大きいことに気づかされたような気がしました。

一方、俳句関係の人から、「所属」を訊かれることがあります。そんなときは「はがきハイク」所属と答えます。成員は笠井亞子氏(俳句とデザイン担当)と私の二人。「三人以上は、どうもダメなのです」と、冗談半分・本気半分で言い添えます。

過去に結社・同人所属だったこともありますが、長く続けず、頃合いを見て脱会しました。帰属というものに軽い拒否反応があるようです。大した意味はありません。性分です。俳句に関しては「気まま」をだいじにするという行動原理も理由。「そんなことで俳句を続けていけるのか?」と訝る向きもありましょうが、ご心配なく。今のところ充分に楽しんでいます。

だからといって、結社や同人に反発や否定的見解をもっているのかというと、そんなことはまったくありません。どんな状態に自分を置くかは、人それぞれです。「やめなさい」とも「やりなさい」とも言いません。

ただ、俳句世間が結社を「語る」ときの、その「語りよう」に違和感をおぼえることがあります。それを挙げていきましょう(結社に所属しない私に期待される話題は、どうもそのへんらしいので)。

 結社に入るべきか否かという問い

昔なら、本格的に俳句をやろうと思うなら結社、趣味でいいなら町内の句会、というのが正解だったでしょう。ところが、いまは、真剣に俳句に取り組もうという若者にも「結社か非結社か」というテーマが浮上しています。その背景には、結社以外にも俳句を学ぶ、あるいは楽しむ機会が増えているという事情があります(さまざまな句会、同人誌、インターネット等々)。

この問いへの私の回答は「知らんがな。好きにすれば?」です。俳句に「べき」なんて事柄はなにひとつない。「好きなように」が俳句的態度の第一歩と信じているので。

2 結社成員の高齢化、若者の結社離れ

これも「知らんがな」です。

日本社会が高齢化しているのだから、そりゃあ高齢化しますよ。若い人が入ってこないのは、魅力がないからでしょう。そうシンプルに言ってしまえば済む話ですが、気になるのは、同時に、個別結社と結社システム全体の混同です。「若者が入ってこない」「会員数が減っている」は、その結社の危機に過ぎません。

3 結社の消長=俳句の盛衰

結社が廃れると俳句が廃れるといった思い込み。

結社に入れ込んでいる人のなかには、これがあるようです。良く言えば矜持、悪く言えば傲慢。

俳句は、結社からは生まれません。

俳句は、人からしか生まれない。

あたりまえの事実を、人は忘れがちです。

俳句を読みたい人がいて、俳句をつくりたい人がいれば、新しく俳句が生まれていくでしょう。俳句へのニーズは未来永劫。でも、結社ニーズは永遠ではないかもしれない。

結社がなくなって、俳句への愛情がなくなるとしたら、個人レベルでも集合レベルでも、それは俳句をあんまり愛していなかったということでしょう。みなで寄り合うのが楽しいだけだったのかもしれません。

4 結社もどき

結社を否定しながら、やっていることは結社そのもの、といったことが(例えばインターネット上にも)少なくありません。結社システムを否定し、旧体制としての俳壇を否定しながら、内実は結社ごっこ、俳壇ごっこ。

5 超結社

ダサい言い方です。結社にこだわらない、結社の枠を超えたと言いたいのでしょうが、結社所属を前提にした考え方。昔なら、結社の拘束力が強く、結社の外の集まりに参加するのも難儀だったから、「超」に何らかの意義があったのでしょうが、いまさら、そんなことを謳う必要はない。



結社は、有意義なものです。でも不可欠ではありません。個人にとって、また俳句にとって、結社は、あってもなくてもいいものです。でも、現に、ある。日本中に数百の結社が存在します。結社から遠い場所で俳句を遊んでいる私からは、無責任なようですが、「俳句を楽しんでください」とだけ申し上げます。そして、できるなら、あまり旧弊なこと、大仰なことを言わず、肩肘を張らず、明るく楽しく、俳句と俳句愛好者が幸せになれるような結社にしてください。結社『街』に向かって、そして日本全国の全結社に向かって言い添えておきます。

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