2017-07-16

【句集を読む】 〈フラワーズ‐カンフー‐すること〉あるいはアマチュアとして書くこと(後篇) 小津夜景『フラワーズ・カンフー』 福田若之

【句集を読む】
〈フラワーズ‐カンフー‐すること〉あるいはアマチュアとして書くこと(後篇)
小津夜景フラワーズ・カンフー

福田若之


≫承前

ところで、「私の「故園」」にいるのが「私ではなく夫だつた」というありようは、坂口安吾の「文学のふるさと」とも一脈通じるところがあるように思われる――というか、より正確には、この安吾の文章を読んだ柄谷行人が、『坂口安吾と中上健次』に収められた「懐かしい安吾」と題された小文において、「「ふるさと」とは、帰りついて安堵するような自己同一性ではなく、われわれを突きはなし無根拠のなかに生きることを迫るような「他なるもの」のことである」と書いていることや、あるいはまた、同書にその文字起こしが収められた「安吾の「ふるさと」にて」と題された講演において、「安吾にとって、「ふるさと」とは、親和的なものではなくて、まさに「他なるもの」から突き放されて在ることです。突き放されて在ることのほうが本来的なのです」と述べていることに通じるところがあるように思われる。「出アバラヤ記」における「故園」は、「私の「故園」」でありながら、いや、それゆえに、「私」を突き放しているように思われるのである。

そして、また一方では、「私の「故園」」にいるのが「私ではなく夫だつた」というこのありようは、自伝の他者性といったことがらを思わせもする。「私」は「私」について書こうとするのだが、そのとき書かれた「私」は「私」にとっての他者として立ち現れてしまうのだ(もちろん、ここでいう「他者」は必ずしも柄谷的な意味におけるそれではないとしても)。たとえば、イタリアの哲学者でデカルトの批判者として知られるジャンバッティスタ・ヴィーコの自伝はこう書き出される――「ジャンバッティスタ・ヴィーコ氏は、ナポリで一六七〇年、とても立派な世評を残した実直な両親の子として生まれた」(上村忠男訳)。もちろん、『彼自身によるロラン・バルト』において「彼の書くものには、二種類のテクストがある」とされる場合の、バルト自身によって「彼」として書かれるバルトのことを思い出してもよいだろう。あるいはまた、ガートルード・スタインによって書かれた『アリス・B・トクラスの自伝』が、ガートルード・スタインの書く「私」ことアリス・B・トクラスの視点から見たガートルード・スタインそのひとについての三人称的な記述に溢れていることを思い出してもよいかもしれない(念のため書き添えておくが、アリス・B・トクラスは実在の人物である)。

三人称としての自己自身。近しい記述は「出アバラヤ記」にも次のとおり見出される。
そのとき私はまるで他人のやうに、車輪のかまびすしい寝台車に乗せられて、ひややかな夜のリノリウムを走つてゐた。頭上をのみこんでゐる深い闇の気配とは対照的に、中庭の差し込む星の光がその人を包むシーツに美しくふりそそぐのを、その私といふ人は見た。
さらに、文章は《棹さしてくらんくらんと月の酔ふ》という、荻原井泉水の《棹さして月のただ中》のパロディと思われる句――いずれにせよ、月の姿見としての水、つまり、ナルシス的なモチーフを描いた句だ――をまたいで、こう続く。
古びた車輪の音は凱歌さながらに神々しく、それはほんたうの楽園を旅してゐると思はれるほどで、私は心ともなく実際さう口にした、とその他人のやうな声は語り、私の耳はその声を聞いた。
他者としての自己自身(「その私といふ人」)をめぐるこの記述、「他人のやうな声」と「私の耳」とをめぐるこの記述は、『他者の耳』に収められたジャック・デリダの講演、「ニーチェの耳伝」(「耳伝」と訳される«otobiographi»という造語は、«autobiographi»すなわち「自伝」のもじりである)を思い起こさせもする。この講演についての質疑応答の際、デリダは、クリスティー・V・マクドナルドの問いに答えるなかで、「ニーチェが言っていたみたいに、私が私に私の歴史を語るのだ、ほらこれが私が私に語る歴史だということ、このことは自分が話すのを聞くということを意味しますよね」とし、さらに次のとおり述べていた。
私を、私をこそ語り、私の自伝のautos〔みずから〕を構造化するのは、他者の耳なのです。私の署名がなされるのは、他者が、ずっとあとで、充分に鋭敏な耳でもって私がその者に宛てたものを受けとったときなのです。
Jacques Derrida, L'oreille de l'autre : otobiographies, transferts, traductions
自伝が自伝たりうるとき、つねにすでに、他者の耳が――あるいは耳の他者性が――そこに介在しているのだ。自伝が、私が私に私の歴史を語るのだと自ら告げているときにさえ。自伝についてのデリダの言及は、『声と現象』の、「形而上学の歴史は、絶対的な〈自分が話すのを‐聞き‐たい〉である」(太字は原文ではイタリック体)という文言ともかかわっている。もしかすると、デリダがここで述べていることがらは、形而上学の歴史的な欲望であると同時に、『フラワーズ・カンフー』に限らず俳句というジャンル一般の歴史的な欲望でもあるのかもしれない。たとえば、《待遠しき俳句は我や四季の國》(三橋敏雄)の一句が物語っているのは、まさしくそうした欲望にほかならないのではないか。とりわけ、西東三鬼が「二つの底流」において「俳句は所詮、自らが己の声を聴くべきものであらう。一木一草の声も己の声のさゝやく一木一草である」と書いていることを思えば、すくなくとも、俳句の歴史にこうした欲望がたしかに存在していたことは認めざるをえないだろう。これはまさしくナルシシズムだ、ひとは「自然物」としての水面に自らの顔を映し、「自然物」としての水を愛するかのようにして自らの顔を愛する。ナルシスとは、たとえばオウィディウスの『変身物語』の第三巻に語られる起源神話の順序とは逆に、まさしく水仙という「自然物」の擬人化によって、すなわち、「自然物」にただ「人間」の反映のみを見ることによって造型された人物ではなかっただろうか。要するに、まさしくナルシシズムという語の成り立ちにおいてすでに「自然物」と「人間」との区別から生じる「人間」のナルシシズムが作用していたのであって、俳句の歴史とは、結局のところ、この起源的なナルシシズムの一変奏にほかならないのではないか。その一切は、首を吊られた象の写真を見たときにひとびとのこころに生じるあの文字どおり他愛のない同情とおなじく、こうしたナルシシズムに由来するものではなかっただろうか。

『変身物語』において、ナルシスが彼に恋するエコーの反響言語echolaliaを聞くことしかせず、ついには彼女の腕をはねつけたことを思い出しておこう。俳句の歴史は、自らが他者たる自然として自らの声を聞くというのでないかぎり、たんに自然の他者性を剝脱することの歴史、すなわち、自然の植民地化の歴史にすぎないのだということ、言いかえれば、俳句の歴史は自ら他者としてある自然の歴史であるか、さもなければ、人間による自然の蹂躙の歴史でしかないのであって、自然と人間の共生の歴史などではありえないということを、僕たちはいずれ受け入れなければならないのではないだろうか。そもそも、植物の屍体から作られた紙のうえに、一般に動物の屍体が変化したものであるとされる石油を原料として作られたインクによって刻印される俳句は、その限りで、それがどのような句であるとしても、そうしたものたちの数かぎりない死によって贖われざるをえないもののはずである。それゆえ、少なくともそうした含みを持たないかぎり、自然と人間の共生とは、「俳句以後」以上の〈俳句を絶するもの〉、すなわち、俳句がもはや遺産としてさえ相続されなくなったときにはじめて可能となるだろうところのもの、したがって、すなわち、俳句によっては実現も思考もまったく不可能なものとなざるをえなかったもののはずだろう。言い換えれば、そうした含みのない自然と人間の共生というものがもしありえたとするならば、なによりもまずそれ自体が、俳句とはまったく共生不可能なものだったに違いないだろう。したがって、そうした自然と人間の共生というものが、もしも俳句とともにありえたというなら、それはまさしく俳句にとっての幻想にほかならなかったことだろう。

注記しておくが、僕は決して、あらゆるナルシシズムを悪として告発しようとしているわけではない。ただ、結局はある種のナルシシズムでしかないはずのものをそれと認めずに語ることは欺瞞だと言っているのだ。デリダは、『中断符』Points de suspension所収の「「ナルシシズムなるものは存在しない」(自伝写真=自らの生の書き撮り)」««Il n'y a pas le narcissism»(autobiophotographies)»と題された対談において、こうした欺瞞について、次のとおり指摘していた。
〔単数形で定冠詞を付けていわれるところの〕ナルシシズム……! 〔単数形で定冠詞を付けていわれるところの〕ナルシシズムなるものも〔単数形で定冠詞を付けていわれるところの〕非‐ナルシシズムなるものも存在しません。多かれ少なかれ思いやりのある、寛大な、開かれた、薄められた諸々のナルシシズムがあるのであって、ひとが〔単数形で定冠詞を付けて〕非‐ナルシシズムと呼ぶものは、よりはるかに愛想よく、歓待的で、他者としての他者の経験へと開かれたあるナルシシズムの経済でしかありません。あるナルシス的な再所有の動きなしには、他者との関係は完全に消滅するだろう、あらかじめ消滅するだろうと、私は確信しています。次のようであるに違いありません、他者との関係は……――それがまさしく非対称のまま、可能な再所有なしに開かれたままである場合には――それは、愛を可能にするために、たとえば、それ自体のイメージのうちで再所有の動きを素描するに違いないのです。愛はナルシス的なのです。
Jacques Derrida, ««Il n'y a pas le narcissism»(autobiophotographies)»
愛のいっさいは、このようにして、結局は何らかのナルシシズムをぬきにしてはありえないのである。

そろそろ本題に戻ろう。僕が語ろうとしていたのは、あくまでも〈フラワーズ‐カンフー‐すること〉あるいはアマチュアとして書くことだ。それは、つまり、愛しながら書くことだ。そこには、ナルシシズムが不可避的に存在するのである。この句集の表紙に大きく片仮名で「フラワーズ・カンフー」と表記され、小さく「FLOWERS' KUNG-FU」と表記されているタイトルは、まさしく僕が「自らが他者たる自然として自らの声を聞く」という言葉で表現した類のナルシシズムを刻印している。『フラワーズ・カンフー』の主体は、〈フラワーズ‐カンフー‐すること〉の実践において、花たちとしてふるまおうとしているのだ。

こうしたナルシシズムをとりわけ「後衛」の愛のありようについての議論へとつなげるために、ここでさらに、デリダの著作のうちで、『法の力』の第二部の次の記述を参照しておくことにしたい。デリダは、ヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』について語りながら、こう述べている。
崩壊はネガティブな出来事ではない。そもそも、それはあきらかに出来事ではない。ひとは、おそらくはベンヤミンとともにあるいは彼にしたがって、おそらくは彼に逆らって、廃墟愛についての短い論を書くことができるだろう。その他に、そのうえに、何を愛するというのか。ひとは、その壊れやすさ――それはずっとそこにありつづけていたのではなかった、それはずっとそこにありはしないだろう、それは有限である――のそれ自体不安定な経験においてしか、記念碑、建造物、制度をそれとして愛することはできない。そしてまさしくそれゆえにひとは死すべきものとして、その誕生とその死を通して、その崩壊の、私の崩壊の幽霊=幻fantômeないしは影絵を通して、それを愛するのである――ということはその崩壊は私の崩壊であるかあるいは私の崩壊を前もって先取りしているのだ。この有限性において愛するほかにどう愛するというのか。
Jaques Derrida, Force de loi
ひとは廃墟しか愛することができない。言い換えれば、ひとは、対象の壊れやすさのそれ自体不安定な経験、すなわち、そうした死すべき者の有限性において、その崩壊を私の崩壊ないしはそれに通じるものとして受け取るときにしか、記念碑、建造物、制度をそれとして愛することはできないのだ。そして、そうすることは、すなわち、崩壊の幽霊にして幻あるいはその影絵を通して愛するということなのだ。

以前として抽象的に過ぎるだろうか。それでは、続けて、同じ著者の『盲者の記憶』に目をむけることにしよう。ルーブル美術館の展覧会のために書きおろされたこの書物が出版されたのは1990年で、『法の力』が出版された1994年よりも前だが、『法の力』の第二部のテクストは1989年の討論会ですでに参加者に配布されていたというから、それよりは後のものということになる。この『盲者の記憶』のなかで、デリダは、語り手のひとりに、自画像というもののありようについて語らせながら、先ほど僕が『法の力』から引用した箇所と同様のことがらを、次のとおり述べさせている。
崩壊はきのう無傷だった記念碑に災難のようにして突如降りかかるのではない。初めに崩壊がある。崩壊=廃墟とは自画像、自己の記憶として穴のあくほどしげしげと見つめられたその顔、自己への最初の一瞥において造形が隠れてなくなるやいなや幽霊spectreとして残りあるいは帰って来るもののことである。肖像はそのとき自らの可視性が損なわれているのを見る、それは風化することなしに自らの手つかずのありようを失う。というのも目に見える記念碑の不完全性は、ただただ注意をひくばかりの、自画像の陰に自らを映し出すことの能わない、描線の月食的な構造に由来するのである。ことごとく逆転可能な命題だ。ひとは同様に廃墟の絵を、肖像画の、さらには自画像の比喩形象として読みうる。
Jacques Derrida, Memoires d'aveugle : L'autoportrait et autres ruines. 太字は原文ではイタリック体)
ここで「崩壊=廃墟」と訳出した、無冠詞で文頭に置かれている大文字のRuineは、おもに経験としての建物や制度などの崩壊を意味する単数形の小文字のruineとも、おもに物としての廃墟を意味する複数形の小文字のruinesとも違って、たとえばジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の"HE WAR"WARが、英語とドイツ語のあいだでの決定不可能性によって、戦争と存在したこととのあいだで揺れているのと同じように、フランス語とドイツ語(一般名詞であっても最初の文字を大文字で記す)のあいだでの決定不可能性によって、崩壊と廃墟とのあいだで落ち着きどころなく揺れているように僕には思われる。いずれにせよ、ここで述べられているのは、自画像はつねにすでに起源的な崩壊によって、ちょうど「水、不意の再会」に《ただあるがままなる貌(かほ)の日陰かな》と書かれるこの「貌」の肖像のようにして、その可視性を損なわれているのであり、その意味で、自画像とはつねにすでに廃墟であるということだ。そして、廃墟の一切は、すなわち、幽霊的な残余にして回帰の一切は、自画像でありうるのだということだ。デリダ(の語り手)は段落を変えてこう続ける。
それゆえ、廃墟愛。そして、窃視症が、覗き趣味そのものが、起源的な崩壊をじっと窺っているということ。ナルシス的な憂鬱、愛自体の喪に沈んだ記憶。崩壊の可能性以外のものをどう愛せばよいというのだろう。不可能な全体以外のものを。
Ibid.
廃墟とはまさしく「死んだもの」、《いつまでも屍体だりんと鳴く虫だ》というときの、あの屍体である。崩壊の可能性とは、たとえば、《くらげみな廃墟とならむ夢のあと》におけるくらげの可能性であるだろう。死んだものをなおも愛するとは、崩壊の可能性を、廃墟を愛することだ。それは、自画像を愛することにほかならない。フロイトの「ナルシシズムの導入」によれば、「人間が己の理想として眼前に投射するものは、彼が自分自身の理想だった幼年期の失われたナルシシズムを代替するものである」(立木康介訳)。さらにまた、デリダは、『視線の権利』のなかで、語り手のひとりに次のように語らせていた。
ひとは自分しか愛することはできません。あなたはよくわかっているでしょう、ナルシシズムのあたらしい理解、あたらしい「忍耐」、ナルシシズムのあたらしい情熱=熱情=受苦passionをぬきにしては、他者への、あなたへの、それとしての他者への愛については、なにひとつ理解したことにはなりません。ナルシシズムの権利は回復されねばなりません、そのために時間と方法が必要です。もっとナルシシズムを。たえずより多くのナルシシズムを――よく考え抜かれた、他者の一部分を含みこんだそれを。
Jacques Derrida, Le droit de regards
こうして、なんらかの自己愛としての廃墟愛だけが可能な愛なのだということになるのだ。したがって、もはや、可能なのは、死んだものをなおも愛すること、すなわち、崩壊の可能性を、廃墟を愛することだけなのだということを、今一度、僕たちは自らに言い聞かせる必要があるだろう。

たとえば、《いきいきと死んでゐるなり水中花》(櫂未知子)は、まさしくこうした愛しい廃墟のありようを端的に語っている。プルーストの『失われた時を求めて』の語り手は、紅茶に浸したプチット・マドレーヌを口にしたときに起こった無意志的記憶の想起を、水を吸って開く水中花のありように喩えていた。そのようにして思い出されるとき、記憶とは、まさしく、「いきいきと死んでゐる」ものにほかならない。幽霊のように。「いきいきと」しているがゆえに、「死んでゐる」にもかかわらず、ひとはそれを愛してしまうのだ。

アラン・レネ監督、マルグリッド・デュラス脚本の映画、『二十四時間の情事』を思い出そう。この映画においては、広島の崩壊=廃墟へ向けられたまなざしを契機として、まさしくフランス語圏とドイツ語圏のあいだでの、あのどこにも落ち着くところのなかった愛が想起され、語られることになる。そして、エマニュエル・リヴァ演じるヒロインは、第二次大戦中に亡くなったかつての恋人であるドイツ兵を岡田英次演じる聞き手の男に重ね合わせながらなされるこの自伝的な語りにおいて、次のとおり言うのである――「死んでいても、それでも私はあなたを呼ぶJe t'appelle quand même, même mort」。「前衛」や「後衛」という語が、それ自体として、まさしく戦争の記憶を湛えたものであることを思い出そう。「前衛の後衛」であるとは、すでに死んでいると知りながらその死んだものをなおも愛するとは、この「死んでいても、それでも私はあなたを呼ぶ」にほかならない。

付言しておくなら、「前衛」や「後衛」といった語が戦争の記憶を湛えているというこのことは、まさしく俳句の歴史にもかかわっているように思われる。金子兜太が戦後に「前衛俳句」という呼称を自ら受け入れつつその担い手となりえたのは、彼が戦中には前線の兵士であり、彼が死んだものが何かをその目で知っていたからではなかっただろうか。逆に、高柳重信は、「偽前衛派」において、「俳句文学の宿命の子とも言うべき偽前衛派は、同時にいつも亜流であった」と述べ、さらにまた、「句集『蕗子』の頃」において、「戦後まもなく「偽前衛派」という文章を僕が書いたことも、あるいは前衛俳句派のひとたちと混同される一因となったかもしれないが、その文章のなかで繰り返し述べているのは、いわゆる「前衛俳句」の主張とは裏腹な、たとえば、俳句形式の新しい可能性の否定ということであった」とその主旨を確認している。彼がこのようにして「前衛俳句」の運動からはっきりと距離をとっていたことには、彼が、戦時中、病弱ゆえに兵役につくことがなかったということが関係していたのではないだろうか。重信による記述を参照することもなしに彼を「前衛俳句」の旗手に位置づけるようないかなる言葉も決して信用には値しないし、『海程』の終刊が決定した今日においてなお、「前衛俳句は死んだのか」などと問うことは、僕にはあまりにも軽率なことに思われてならない。兜太は現に生きているのだし、彼がいまなお戦争の記憶を背景としながら俳句と向き合っていることはあきらかである。仮に、その向き合い方が、ときに疑問を覚えさせずにはおかないものであったとしても、そのことに変わりはないはずだ。だが、いずれにせよ、このような状況を見ればわかるとおり、俳句におけるこの「前衛」という語については、さまざまな混乱がいまだに解消されていないといわざるをえない。僕が、『フラワーズ・カンフー』のあとがきの記述をふまえたうえで、この文章の表題に「前衛」や「後衛」といった語を含めなかったこともまた、実にこのあたりの事情を鑑みてのことだった。

話を戻そう。〈自分が‐話すのを‐聞きたい〉という形而上学的なナルシシズムは、「前衛の後衛」となることを通じて、ついに「死んでいても、それでも私はあなたを呼ぶ」を引き受けるに至る。だから、memento mori、愛するために。愛し、なおも愛するために。そのためにこそ、「出アバラヤ記」の書き手がそうするように、《長き夜のmemento morimの襞》を愛撫することが必要になるだろう。ただし、そのようにして廃墟を廃墟と知りながら愛することは、おそらくは『失われた時を求めて』の語り手や『二十四時間の情事』のヒロインたちとともにあるいは彼ら彼女らにしたがって、おそらくは彼ら彼女らに逆らって、記憶の、とりわけ忘却の側面を肯定することでもある。というのも、忘却なくして廃墟は廃墟たりえないのだ。たとえば、《忘れちゃえ赤紙神風草むす屍》(池田澄子)の句は、戦争に対して真に批判的に向き合うためにこそ、二度とあやまちを犯さないためにこそ、すくなくとも一度は文字どおりに忘れてしまうことを自らに言い聞かせる必要があったのではなかったか。山口優夢は、「『たましいの話』を読む」と題された一文において、次のとおり問いかけていた。
「赤紙」→「神風」→「草むす屍」、という、この恐ろしくも悲しい、避け得なかった奔流をこそ、彼女は忘れてしまいたいのではないだろうか。彼女が覚えていたいのは、その人に「赤紙」が来る前の、あの、幸せな日々。それを覚えていたい、そしてそのために、赤紙以降のことは忘れてしまいたい、そういうことではなかったのか。
(山口優夢「『たましいの話』を読む」)
戦死者をなおも愛するためには、その愛からふたたび出直すためには、ときにつかのま歴史を傷つけなければならないということがありうるのだ。もし父の一生から赤紙と神風と草むす屍とを消し去ることができたなら、彼は、まだ生きている。彼が死んでいることは、たしかに分かっているとしても。『フラワーズ・カンフー』において、《忘却は星いつぱいの料理店》であったということを、忘却のために思い出しておこう。すなわち、忘却を原因として、忘却を目的として、さらにまた、忘却そのものにどうか喜んでもらいたいという気持ちから、この句を思い出しておこう。三つ星どころではない料理店なのだ、しかし、天井が朽ち、星空がみえているのだとすれば、この料理店はすでにして廃墟である。「音に触る」の一句、《アルバムに日付のなくてあたたかし》もまた、こうした忘却を肯定している。日付が忘れられていることは、あたたかいことなのだ。「息をのむ坂道」のはじまりに置かれた、《あたたかなたぶららさなり雨のふる》においても、白紙状態の肯定的な資質があたたかさとして語られていた。おそらくは、そこに記号が満ち溢れると、「明るい土地より」に《そこかしこシーニュ悴むほどシーニュ》とあるように、ぐっと冷え込んでしまうのである。

忘却なくして廃墟は廃墟たりえないということ。したがって、廃墟愛とは、愛それ自体の廃墟でもあるだろう。夜景は、『週刊俳句』に掲載された20句作品の詞書において、そのことを次のとおり示唆していた。
おそらく
実らなかった恋の果てに
終わってしまった愛の果てに
わたしは
言葉で人を愛するすべを学んたのだ
愛はすでに終わっている。その果てにこそ、言葉による愛としての廃墟愛が成就するのだ。

たとえば、『俳句新空間』に掲載された「短絡論的恋愛的」の表題は、その末尾の《さへづりの降り置く不在メールかな》という一句からしても、おそらく東浩紀『存在論的、郵便的』のもじりであると思われる。存在論が短絡論であるかどうかは置くとしても、郵便を恋愛に置き換えることは、まさしく言葉による愛としての廃墟愛にかかわっていたといえよう。そして、ここにも全く遊戯的な参照が見出される。ここで夜景がとりわけ郵便を恋愛に置き換えるのは、おそらく佐藤文香の定理によってのことなのだ。すなわち、《手紙即愛の時代の燕かな》(佐藤文香)において示された、手紙=愛というあの等式によってのことなのである(もちろん、こうした言い回しはあくまでも喩えにすぎないのだけれども)。ここで、佐藤文香の定理が「時代」のものであること、すなわち、数学的な普遍性とは無縁のものであることに注意しよう。この等式は、それ自体がすでにして手紙=愛という等式以前の時代の廃墟であると同時に、いずれ手紙=愛という等式以後の時代において廃墟となりうるものなのである。手紙即愛の時代は永遠ではない。デリダは、そのことを、『絵葉書』の第一部「送る言葉」の、1979年6月23日の日付が付された一通のなかで、こんなふうに書いていた。
君はいつも「僕の」形而上学、僕の生の形而上学、僕が書くものすべて(僕の欲望、パロール、現前、近接、掟、僕の心と魂、僕が愛し君が僕よりも前に知っていることすべて)の「裏verso」だった                                                    賞金稼ぎたちを当惑させるために、スピード写真、モンタージュ写真式の絵葉書あるいは貼り紙やポスター(「手配中wanted」)を彼らに残すこと――彼らがそれを使って作りうるものなど何ひとつなしにその皮を手に入れたい=その息の根を止めたいと望むようにするために。これが文学のない文学というものだよ、文学全体とはいわないまでも、前述の文学の一時代全体は、遠隔的なコミュニケーションのある一定の技術的な体制より長く続くことはありえないということを証明するための(政治的な体制はこの点については副次的なんだ)。哲学も、精神分析も否なんだ。恋文もだよ。君が僕に書いた何通かのそれを僕は道中急ぎながら読み返す、そして、僕は苦痛で狂人のようにうめく、それは僕がこれまでに読んできたもののうちの最高のものだ。ひとがこれまでに書いたもののうちの最初のものだ、それゆえ、僕から君に言っておかなければならないけれど、最後のものでもある。君は僕に運命づけられていただけではない、君は最後の恋文を書くことを運命づけられていたんだ。のちには、彼らにはもはやできないだろう、僕にもだ、そして僕はそのとき君のために少しばかり胸のうちに痛みを覚える。君の愛がそこでは少しばかり終末論的な黄昏の色合いを帯びるからというだけではない、もはや「コイブミlettredamour」なるものを書くことを知らない以上、彼らは決して君のことを読みはしないだろうからだ。
Jacques Derrida, La carte postale : de Socrate à Freud et au-delà
こうして、「手紙即愛の時代」は歴史と集合論の両方の意味において「閉じられる」だろう。さらに言えば、A=BにおいてAはBの、BはAの自画像すなわち廃墟である以上、等号とは両者を結ぶ廃墟愛であり、しかも、廃墟愛とは愛の廃墟なのだった。愛の廃墟にして廃墟愛である佐藤文香の定理は、夜景の廃墟愛によって、自画像の可能性として愛されていたのである。こうして、佐藤文香の定理の発展形としての、小津夜景の定理が導かれる。この定理は次のとおり書き表される。
手紙=愛であるとき、
手紙=文字=愛=廃墟=自画像、なおかつ、この等式自体がひとつの愛のかたちである。
この定理は、『フラワーズ・カンフー』の全体に適用可能だろう。それゆえ、『フラワーズ・カンフー』を読むとき、あなたは、「反故に吹かれて」にそう書かれているとおり、《梨をむく指に手紙のあふれたり》と思うことだろう。あなたは、たとえば、「こころに鳥が」の《たてがみを手紙のやうに届けたい裸足でねむる樹下のあなたへ》という一首を読みながら、きっと、自分のこころが、「西瓜糖の墓」にそう書かれているとおり、《草の穂が惚れあふやうにかゆくなる》のを感じることだろう。あなたは、「明るい土地より」に《脅迫状したためたるよ日向ぼこ》と書かれているこの「脅迫状」さえも、きっと、恋文として読んでしまうだろう。

もっとも、場合によっては、セルフポートレートは絵画ではなく写真のそれかもしれない。「初めに崩壊があった」としていたデリダは、『視線の権利』には、「初めに写真があったのです、遅れてきた、見られるものとしての……」と書いていた。『フラワーズ・カンフー』に目をむければ、「水、不意の再会」の《夏はあるかつてあつたといふごとく》は、『明るい部屋』においてバルトが見出した写真のノエマ、すなわち、「それは‐かつて‐あった」という日本語訳が定着しているあの«Ça-a-été»をふまえているように思われる。「それは‐かつて‐あった」と言われるものとは、まさしく廃墟ではないか。「それは‐かつて‐あった」とは、写真機を介した最初の一瞥が、それによってもたらした崩壊の証ではないか。スーザン・ソンタグは、その『写真論』に収められた「プラトンの洞窟で」において、「ちょうどカメラが銃の昇華であるとおり、誰かを写真に撮ることは昇華された殺人――悲しく、恐ろしい時代にふさわしい、おだやかな殺人――である」と書いていた。それは、写真の一瞥が対象を廃墟にするからではなかったか。いずれにせよ、あらゆる写真は、ひとは死から逃れられないということを思い出させるのだ。そのことを、ソンタグは「あらゆる写真はメメント・モリmemento moriである」と書いている。思い出そう、「出アバラヤ記」の一句は、まさしく《長き夜のmemento morimの襞》を、書きとりながら愛撫していた。また、「さらさらと」には、《青写真なみだのうみにうみなりが》という句がある。思い出しておこう、デリダは、『盲者の記憶』においてアンドルー・マーヴェルの詩、「眼と涙」を引用したうえで、二人の話者にこうやりとりさせていた。
――見る涙……。あなたは信じるのか。
――私にはわからない、信じるほかないのだ。
Derrida, Memoires d'aveugle, op.cit.
涙と目が同一化されるマーヴェルの詩の「見る涙」は、もちろん、夜景の「なみだ」に通じている。しかし、夜景の「なみだ」は、ただ見る涙であるのみならず、涙から眼へ、眼から眼帯への換喩的な連想を通じて《風鈴の音が眼帯にひびくのよ》(三橋鷹女)を思い出させるような、聞く涙でさえある。これは、見る涙よりもいっそう信じがたい。だが、やはり信じるほかないのだ。この聞く涙においてはじめて、ひとは自分自身の嗚咽を聞きとるのであり、また、それによって、写真においては失われたものとならざるをえない「うみなり」が、ついに幽霊のように残りあるいは帰って来ることになるのだから。この一枚の青写真は、そうした「うみなり」――それはあの起源的な崩壊を思わせるような「うみ」の嗚咽であって、決して心地よい潮騒などではない――の廃墟なのである。「水、不意の再会」の《なみがしらなみだの楼をなしながら》という、それ自体が廃墟としてのなみがしらを思わせる句において示唆されているとおり、「なみだ」は文字どおり「なみ」を湛えているがゆえにこそ「うみ」なのであり、また、それゆえにこそ、「なみだ」を介して「うみなり」がよみがえるのだ。それにしても、《くらげみな廃墟とならむ夢のあと》というあの「くらげ」という生きものほど、ほとんど「うみ」でできているといってよい生きものがあるだろうか。写真すなわちphotographは、語源的には、光の書画という意味である。「水、不意の再会」において、《くらげらの声をひかりは書きしるす》といわれるとき、ここでは「くらげらの声」が写真に撮られているのだ。写真機による最初の一瞥は、そのようにして、「くらげらの声」を、「それは‐かつて‐あった」といわれるところの廃墟にしてしまうのである。そして、その「くらげらの声」を聞き取るためには、なんとしても、聞く涙が必要なのだ。

「ひかり」によって書きしるされる「くらげら」は、たしかに「ひかり」とのかかわりはあるものの、あの《ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ》(田島健一)の「ただならぬ海月」とはまるで異なっている。ここで注意しておきたいのは、「光」を「追い抜く」ものである「ただならぬ海月」は、句に書きしるされている語順とは逆に、先走った「光」のあとにしか「ただならぬ海月」ではありえないということだ(あくまでもひかえめに、せめて括弧のなかだけで済ませておきたいのだが、バタイユの『眼球譚』における闘牛を見ながらの「愛の身体的な行為に特有の全体的でかつ反復されるあの噴出の感情」とのかかわりを考えた場合、「先走る」という動詞はここではやはり性的な含みをもつものとして読まれうるだろうし、もし読者の欲動がそうした読みへと自らをさしむけるならば、僕にはそれを途中で制止することはできない。このとき、「光」は、《ハイウェイの光のなかを突き進むウルトラマンの精子のように》(穂村弘)と歌われたあの「ハイウェイの光」のように、放たれる精子に先んじて、その道しるべとなるだろう。「光」は、そうした精子の群れを散種へと導くものとして理解されるだろう。ひとは、「光」のあとで、現像された写真を通じて、つねにすでに「ただならぬ海月」を通じて、《それは‐かつて‐あった》といわれるところの「くらげらの声」にかぎりなく遅ればせながら、それからつねにすでにかぎりなくずれたところで、それからつねにすでにかぎりなくずれたものを、すなわち、かぎりなく、ずれた、くずれたものとしての廃墟を、もはや愛するすべなく愛するのである。「ぽ」が散種されるのは、この局面においてである。かつてあったあの二棟の世界貿易センタービルについてだけでなく、カメラを介した愛はつねにすでにあまりにも遅すぎる。僕はいま次に示す句のことを言っているのだ、僕は自分の読みに自信がないのだが、ここでは勇気をもって引用しておこう――《ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ》(なかはられいこ)。僕はそろそろ長くなってしまった括弧を閉じることにする。そのあとの文章は括弧の前の箇所から直接につながっていくことになるだろう)。「ただならぬ海月」は、すでにただの海月のありのままのありようを失っているのである。したがって、夜景の句の側から見れば、それはくらげの廃墟なのだ。ただならぬ「ぽ」、それは廃墟にこだまする「くらげらの声」の廃墟なのである。

「出アバラヤ記」に話をもどそう。死んだものをなおも愛すること、廃墟を愛することは、自画像を愛することである。したがって、《語りそこなつたひとつの手を握る》の身ぶりは、この点において、《僕よ寒くて僕のどこかを摑んでゐた》(大塚凱)の身ぶりと重なり合うのだ。夜景のアマチュアとしての身ぶりと外山一機の「俳人としての私」の宣言の身ぶりとのあいだに仮構されていたあのアマチュアとプロフェッショナルの二項対立は、おそらく、ここにおいて解消する。「フラワーズ・カンフー」の《もぢもぢと師系告げあふ堤防で》という一句は、愛する者もまた信仰告白しうるのだということを示唆していたのである。だが、バルトが『恋愛のディスクール・断章』の「言うに言われぬ愛」の章において書いているとおり、少なくとも愛する主体である限りにおいて、「私は自らについて書くことができないのである」。愛する者は自らについて語りそこなう。かくして、自伝の他者性は「後衛」たることのアポリアとして生起する。このとき、「出アバラヤ記」という表題は、『出エジプト記』よりもむしろ加藤郁乎の『出イクヤ記』を暗黙に参照したものと理解される。たとえば、『出イクヤ記』に収められた散文、「わたしは憎み、かつ、愛す」は、加藤郁乎が「レディ・メード」と呼ばれる女性の視点から彼自身の俳句とのかかわりを小説的な嘘を交えつつ描きだした文章だ。それは、言い換えれば、自伝的でない様相の自伝的な文章、他者としての自己自身についての伝記であって、その試みにおいてはまさしく自伝の他者性が意識されているのである。とはいえ、ただちに断っておかなければならないが、レディ・メード名義で書かれた加藤郁乎の文章は、端的に言って男性中心主義的であり、その意味では問題をかかえている。 そのことは、「レディ・メード」という名の意味をあきらかにする次の一節からもあきらかだろう。
照れ屋なくせに大膽なホモニムを使うのが好きなイクヤは、わたしをlady madeつまり、淑女にして女中なんだと考えているのです。世閒の常識で平󠄁たく勘ぐれば、旣成品の女、という意味にもとれましようが、祕書にして愛人、でもあるんだわと氣を取り直したわたしは、ハイハイ、左様ですこと、と他人事みたいな二つ返󠄁辭をしてしまいました。
(レディ・メード「わたしは憎み、かつ、愛す」)
「レディ・メード」は、郁乎にとって「都合のいい女」でしかない。そして、文体におけるその女性性は、あまりにも過剰に演出されたものである。

夜景は、やはりホモニムへの関心を共有する書き手ではあるものの(「しあはせ」と「死合はせ」)、すくなくとも「出アバラヤ記」においては、郁乎のこうした身ぶりからは距離をとっているように見える。「出アバラヤ記」においては、「私」が「妻」であることこそ明示されているものの、その文体は郁乎の「レディ・メード」のようには女性的ではない。だが、加藤郁乎がレディ・メードの名において次のとおり書いていることは、夜景のありようと通じ合うところがないだろうか。
俳人だつたイクヤのお父さんの遺󠄁著や藏書に讀み耽り、たつた十七字で愛のオルガスムを訴えることもできるこの世界にのめり込󠄁んでいつたわたしは、すつかり俳句の魅力のとりこになつてしまいました。
(同前)
郁乎自身のありようを暗に示すようにしてここに語られた「愛」は、夜景におけるそれと通じあうところがあるように思われるのだ。

たしかに、レディ・メードに「イクヤは、「私」という文字の頻出するようなガセネタずくめの文學作品を信用するほど、僕はお人好しの読者じゃない、などとうそぶいています」と語らせる郁乎は、「出アバラヤ記」を決して信用することはないかもしれない。また、「出アバラヤ記」が、形式のうえで、どれほど散文のあいだに句が伸びたりちぢんだりしているようにみえるとしても、夜景は、レディ・メードが「〔……〕男根のようなイクヤの一行詩が、無斷で拝借した皆さんの女陰のような散文のなかで伸びたりちじんだりしているところに、愛と笑いを感じています」と述べるような仕方で自らの句と散文を愛したり笑ったりすることはおそらくないだろう。「出アバラヤ記」の形式がそれ自体なんらかの隠喩であるとすれば、それはむしろ「どんなに季節が移り変はろうとも、いつでも我が家はその流れのはざまにうちしづみ、かたくなに周囲を拒んでいる」と語られている家と周囲の関係を喩えたものにほかならないはずだ。夜景と郁乎のあいだに多くの違いがあることは否めない。

だが、そうであるとしても、郁乎がレディ・メードの声を通じて語る「愛のオルガスム」は、夜景において見出される「死合はせ」な享楽と通じあうものであるように思われる。いずれにせよ、両者に共通しているのは、なによりもまず、アマチュアとしての自己自身を、その愛のパフォーマンスにおいて、他者を介在させながら物語っているということ、これである。

むろん、両者のかかわりはこのことだけに終わるものではない。実は、『出イクヤ記』は、「出アバラヤ記」のありようと深く関わるひとつの構造を、その表題にかかわる一句において提示しているのだ。だが、それについて語るためには、ここで一度「出アバラヤ記」から出て、「天蓋に埋もれる家」のうちに身をおく必要がある。引用しよう。

わたくしは空き家であると名を告げり  小津夜景

この一句は、「天蓋に埋もれる家」の三つの句群と交互になるようにして置かれた短い文章のつらなりと響きあっている。句群と同じく大きく三つの部分に分けられたこの文章の語り手は、そのおわりに近いところで、次のとおり述べているのである。
実は私はこの家の幽霊なの広すぎるやうな、狭すぎるやうな、いつさいを呑みこんでしまつたやうな、じぶんの重さで天蓋にめりこんでしまつたやうな、この家の幽霊なのここがすべてを呑みこむせゐで、私は世界の外をうしなひ、私は孤独な世界になつた
「幽霊」である「私」は、家がすべてを呑みこんでしまうがゆえに、家の外、世界の外をうしなって、孤独な世界としての空き家と同化するのである。廃墟とは幽霊として残り、かつ、帰って来るものだった。「天蓋に埋もれる家」とは、廃墟の私語りによる自画像なのである。こうした単なる自縄自縛とも受け取られかねない「私」のありようが持つ意味は、森敦『意味の変容』に対する批判を通じて理解されるだろう(以下、『意味の変容』と「出アバラヤ記」のかかわりについては、現代俳句協会青年部第149回勉強会「ただならぬ虎と然るべくカンフー」において関悦史が示した読解に少なからぬ示唆を得た)。

『意味の変容』について、語り手は「すごく面白かつたわただね、私、作者が生と死を対称の観念として扱つてゐることには、どうしても納得がゆかないの」と語っている。
え?もしも生死の意味をいちど完全にとつぱらつてしまつたとしたらどうなると思ふか、ですつて?その場合はもちろん生も死もなくなるもはや対応するなんていう話にはならず、あるともないとも言へない風体で漂ふだけよ違ふ?生死から意味を取り去つてしまへば、もはや構造することはできないより正しく言えば、二度とふたたび構造を認識することはできない意味を取り去つてなほも構造できるとうそぶく人は、世界を眺める「私」を取り去るのを忘れてゐる生死の意味を対称性へとねぢまげるために平然とそれを忘れてゐる
これは、『意味の変容』の語り手が、活字を拾う文選工のありようにもとづいて、「いかなるものも、まずその意味を取り去らなければ対応するものとすることができない。対応するものとすることができなければ構造することができず、構造することができなければ、いかなるものもその意味をもつことができない」(明朝体は原文ではゴシック体、太字は原文では傍点)としているのを批判しているのである。

ただし、この批判を「私」という一人称をもってする語り手は、そうしている以上、「生も死もなくなる」ようにそれらの意味を取り去ることなしに、むしろ生死に非対称の意味を与えつづけているということになる。生死の非対称は、端的に、「生の結末を生きえない人間」という言葉に現れている(「だつて目的といふのは、生の結末を生きえない人間にとつて、ちやうどカタルシスの先取りを意味するんだもの」)。

批判は、「あのね、私はこの本のリアリズム信仰に大反対なの」という言葉に端的に現れているように、「リアリズム」の批判として展開されている。
ここがすべてを呑み込むせゐで、私は孤独な世界になつたそしてどこまでも開かれた「家」に存在する私には、どこにも出てゆかれる場所がない人でなしといふのはさういふものところでそれがリアリズムなんかぢやない、どれだけ恐ろしいリアルそのものなのかあなたにわかる?
「私」を都合よく忘却する「リアリズム」に対しての批判。これを俳句の文脈に引きつけるなら、高濱虛子の掲げた「客観写生」という語についての俗流の解釈に対する批判と受け取ることもできるだろう。それは、すくなくともある点において、たしかに坂口安吾と重なりあっている。安吾は、そのFARCEに就て」において、「近世たまたま、芸術の分野にも理論が発達して理論から芸術を生み出さうとする傾向を生じ、新らしい何物かを探索して在来の芸術に新生面を附け加へやうと努力した結果、自然主義の時代から、遂に単なる写実といふものが、恰もそれが正当な芸術であるかのやうに横行しはぢめたのであつた」と、まさしく近代俳句的な自然主義に対する批判を投げかけながら、「一体、人々は、「空想」といふ文字を、「現実」に対立させて考へるのが間違ひの元である」として、次のとおり述べているのである。
単に「形が無い」といふことだけで、現実と非現実とが区別せられて堪まらうものではないのだ。「感じる」といふこと、感じられる世界実在すること、そして、感じられるといふ世界が私達にとつてこれ程も強い現実であること、此処に実感を持つことの出来ない人々は、芸術のスペシアリテの中へ大胆な足を踏み入れてはならない。
(坂口安吾「FARCEに就て」、太字は原文では傍点)
もちろん、《在らぬさへ見あかしあはれ見しことの》と述べる「天蓋に埋もれる家」の語り手は、「見る」ことを単に形のあるものを視認することとして語ることはないし、その思考は、「見る」ことを「感じる」ことに対置させてそれを退けるといった単純な筋道をたどるものではない。だが、この点に注意さえすれば、「感じられる世界実在すること、そして、感じられるといふ世界が私達にとつてこれ程も強い現実であること」を訴える安吾の文章は、「現実を問ひつづけて、あへて実存の翳にとどまつてゐるときにこそ、私は「私」の仮面のはづれてしまつた「あるがままにある」「なにものでもない」人でなしとして、ひそかに実現されてゐるのよ」という「天蓋に埋もれた家」の語り手がそのようにして視覚的な影以外の何ものかとしての自画像をひそかに実現しようとする《嘔吐(もしわれ影でない何かなら)》やあるいは空耳をなにか物的なものとして語る《空耳とはぐれて茶葉を煮てをりぬ》といった句をはじめ、『フラワーズ・カンフー』の数々の句に通じるものだといえる。

ちなみに、安吾の批判が近代俳句的な自然主義への批判を含んでいるということを確認するには、すでに正岡子規からして、その「俳諧大要」において、彼が「修学第一期」とみなす初学者を想定しながら、「俳句をものするには空想に倚ると写実に倚るとの二種あり」と説いていたことを思い出しておけば充分だろう。もちろん、子規は、「修学第三期」を想定するに及んで、「空想と写実を合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず」としてもいるのだが、いまこの場でこれ以上子規を擁護しようとすれば、本来の目的をあまりに逸脱することになってしまう(それに、ほんとうに擁護しきれるのかどうかは、やってみなければ僕にはわからない)。だから、いまは「天蓋に埋もれる家」に話を戻そう。「私」を都合よく忘却するという欺瞞をはらんだ『意味の変容』の「リアリズム」を批判することによって、「どこにも出てゆかれる場所がない」という「私」は、はたしてどこに踏みとどまろうとしているのだろうか。そして、「恐ろしいリアルそのもの」とは、どのようなものでありうるのだろうか。

ヴァルター・ベンヤミンは、その自伝的な文章である「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」の「隠れ処」という章で、幼い頃の住まいの隠れ処を回想しながら、こう書く。
隠れ処では、私は物の世界(Stoff〔素材〕)のなかに包み込まれていた。物の世界が途方もなく露わになり、無言のまま私に迫ってくるのだった。そんな風に、ひとは絞首台に立ったときはじめて、綱とは何であり、木材とは何であるかを知覚するのだ。戸口のカーテンの後ろに立つ子供は、自身が風に揺らめく白いものになり、幽霊になる。食卓のしたにうずくまれば、それによって子供は、彫刻を施された脚を四方の柱とする神殿の、木彫りの神像と化す。そして、扉の背後に立てば子供自身が扉なのであり、重たい仮面として扉をかぶり、魔法使いになって、何も知らずに部屋に入って来る者をみな、魔法にかけてしまうだろう。
(ヴァルター・ベンヤミン「一九〇〇年ごろのベルリンの幼年時代」、久保哲司訳)
「天蓋に埋もれる家」の語り手は、この子供のようにして、家そのものと同化して幽霊になりながら、物の世界を知覚するのだ。絞首台に立ったひとのように、「死合わせ」に。そして、このとき、この子供にとってはカーテンや食卓や扉といった物たちのいっさいが自画像であり、したがって、廃墟である。そして、こうしたことの一切を成立させている「恐ろしいリアルそのもの」とは、要するに、廃墟の可能性なのだ。そして、ただそこに自画像を(見ずに)見るかぎりにおいてのみ、ひとはそれを愛しうる。戸口のカーテンを愛するためには、そうしたリアルそのもののアマチュアであるためには、自らがカーテンのようになり、幽霊にならなければならない。恐ろしいリアルそのものを愛するためには、自らが恐ろしい幽霊でなければならないのだ。自己自身であることを捨てることなしに。だが、愛する幽霊になるときに、なぜひとは自己自身を捨ててはならないのか。

「私」は、「私は自分がこの家から抜け出て、死んだり生きたりする日が来るとは全然思ってないのよ」という。それは、「生を垣間みたいのなら問ひを終はらせてはいけない」ということにかかわる。そのためには、「内部の現実を外部の実現と接続させてはいけない」のである。「私」は、すでに見たとおり、その理由を「現実を問ひつづけて、あへて実存の翳にとどまつてゐるときにこそ、私は「私」の仮面のはづれてしまつた「あるがままにある」「なにものでもない」人でなしとして、ひそかに実現されてゐるのよ」と説明している。仮面としての「私」をとりはらった生身の、人でなしとしての生を実現するために、自らのかけがえのなさにとどまることが、ここでは言われているのだ。これは「かんたんな話」だ(「え?もつと分かりやすく?こんなかんたんな話なのに」)。要するに、自我はそれみずからの身体にしか宿りえないということなのである。
この家はあやふやなどころか、ありありとした感触で私に押しつけられてゐたどこから来た訳でもなく、なにをなし得た訳でもなく、ふと気がついたときにはもうこの家に、私は約束を待ちつづける人みたいに閉じ込められてゐたそれがどんなに残酷なことかあなたにわかる?
「家」と言われているのは、身体なのだ。だからこそ、出ていかないという以前に、そもそも出ていけないのである。そうでなければ、生も死も認識することはできないし、もはや「死合はせ」も、愛もなくなってしまう。したがって、アマチュアであるためには、自己自身を捨てることはできない。愛の身ぶりは、その「死合はせ」は、この「私」なしには成立しない。愛とは、どこまでも「私にとって」なのだ。それは客観的な意味ではなく主観的な価値の問題なのである(愛というのは、それがときに測り知れないものになりうるとしても、したがって、金銭的なものではないとしても、決してかけがえのなさそれ自体ではなく、かけがえのなさによって可能となるあの計り知れない価値なのである)。したがって、「リアリズム」の批判は、アマチュアであることに踏みとどまるための契機だったのだ。

アマチュアたるものは自己自身を出ていくことができないということは、一見すると、「出アバラヤ記」についてこれまでに述べてきたことと矛盾するように思われるかもしれない。なによりも、そのタイトルが家を出ていくことにかかわっているのだから。しかしながら、出ていくことと出ていかないこととの二項対立は、ここでは破棄されているのである。

「出アバラヤ記」の庭の光景をつぎつぎに思い出してみよう――「霞にしづむこの庭ではいまだ、純白であるべき天がほの暗い精神でしかなく、漆黒であるべき地がうす明るい現象にすぎない。またそこに息づくいきものはといえば、私の視線をすりぬけるばかりのまるで幽霊みたいな人でなし」、「そんな天と地と人とが睦まじくたゆたふこの庭にゐて私は愉しく飛躍する。実はこの私こそ、その人でなしなのだと」、「私には生と死の境目がない」、そして、「私は自分の生死をいかなるカタルシスに明け渡す気もない」。「幽霊」であり「人でなし」である「私」、すなわち、「生と死の境目がない」といい、「自分の生死をいかなるカタルシスに明け渡す気もない」というこの「私」は、「天蓋に埋もれる家」の「私」と重なり合っている。

「出アバラヤ記」の「私」は、「天蓋に埋もれる家」の「私」と同様、生と死の対称性を拒絶することによって、「私」の仮面をはずして飛びまわっているのだ。こうしたありようは、「私」が夫とともに家の外へ出ていくときにも、その身体のうちに住まいつづけているかぎりで、決して本質的には違っていない。ここでは、自己自身のうちにとどまりながら書くことで、他者としての自己自身が実現されているのである(そうか。僕は、おそらく、いまこうして一年半ほど前に中村汀女の《外にも出よ触るゝばかりに春の月》の句をめぐって書かれた僕自身のとまどいを乗り越えようとしているのだ。そう、「月」だ。ブルース・リーは、あの『燃えよドラゴン』のなかで、それを「感じろ」と言っていたのだ、まるで安吾のように――「考えるな、感じろ。それは月を指し示す指のようなものだ。指に気を取られるな、さもなければ天上の栄光をとりのがすだろう」)。

「私」は出ていき、かつ、出ていかない。あるいは、むしろ、出ていかないことによって、出ていく。Das Unheimliche、すなわち、不気味なもの。フロイトは、その「不気味なもの」と題された論文において、次のとおり書いていた。「unheimlichであるとは、どのようにしてか、ある種heimlichであるということなのだ」(藤野寛訳)。自らの身体に等しい住み慣れた家das Heimのなかにあって、なおかつその家と相容れないものとしての幽霊たち。《別のかたちだけど生きてゐますから》と告げる他者としての自己自身、すなわち、ドッペルゲンガーによる、ドッペルゲンガーとしての、ドッペルゲンガーの自伝。

『出イクヤ記』がふたたび思い起こされるのは、ここにおいてである。その最後の句である《冬の日のやつがれいくや出ていくや》(加藤郁乎)は、「出アバラヤ記」に通じるアポリア(道のないこと/解決法のない問題、とりわけ、いずれも正しいように思われる矛盾した命題の両立)を刻印している。句の語り手すなわち「やつがれ」たる「いくや」は、自分自身を「出ていく」のだが、「出て」なお「いくや」でありつづけるのだ。そして、こうした郁乎のありようは、レディ・メードによって、身体を家とみなす隠喩としての、あの「住む」という動詞を用いて、次のとおり語られていたのだった――「自分を語りたがらない饒舌家と、それを外出排出させようとする別自我、つまり、エクトプラズム狀のドッペルゲンガーとを背中合わせに住み込ませて平然としているのですから、これでは自業自得としか言いようがありません」。あるいは、それはまるでイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」に泊まってしまったひとびとのようでもある。
「どうかおくつろぎください」、と夜勤の男が言った、
「われわれはおもてなしすることになっています。
あなたはいつでも好きなときにチェックアウトできます、
ですが決して出ていくことはできないのです!」 
Eagles, Hotel California
まさしく出口なしのアポリア。ところが、出ていけることと出ていけないこととが重なり合うこれらのアポリアにおいては、なんとも不気味なことに、アポリアは同時にアポリアではないことになる。

「私」を出ていかず、それによって「私」を出ていくこと。その地点に身を置きながら、身を引き裂かれながら、「前衛の後衛」であること。〈フラワーズ‐カンフー‐すること〉とは、そうした、ひとつの「死合はせ」な愛の身ぶりにほかならない。それは、《ジェラートの燃えて宇宙が永き午后》の、冷たくも熱い身ぶりとしてのジェラートの燃焼である。そして、宇宙が、時間が、灰のように残り、かつ、帰って来る。不易の廃墟として、すなわち、流行の廃墟として。

ふいに、「ホテル・カリフォルニア」の給仕長が発したあの幽霊的な言葉がこだまするのが聞こえる――「1969年からというもの、ここではあの酒=精神=幽霊spiritは置いておりません」という、あの声が。フラワー・ムーヴメントがウッドストックにおいて最高潮をむかえ、オルタモントでの発砲事件によってそこに暗い陰が落ちた1969年について、その声は告げているのだ。実際、『フラワーズ・カンフー』という書名が僕にまず思い起こさせたのは、映像と写真と録音に残るあのウッドストックのヒッピーたちではなかっただろうか(さらに忘却のために思い出しておこう。ホテル・カリフォルニア、すなわち、あの「かくも愛らしい場所」は、まるで廃墟のようにもの悲しいあの曲調にのせて歌われるところによれば、まるで自画像のように「かくも愛らしい見た目=顔face」をしている。そして、その中庭では、「あるひとびとは思い出すために踊る、あるひとびとは忘れるために踊る」。〈フラワーズ‐カンフー‐すること〉とは、思い出すためにカンフーし、忘れるためにカンフーすることではなかっただろうか。ホテル・カリフォルニアとは、「聖夜を燃やす」の一句を借りるならば、まさしく《もろびとのこぞりて愛に引き籠る》ところではなかったか)。

だが、「出アバラヤ記」の「私」はこう語る。
だがすべての記憶を真実とみなすことはできない。だつてその人は夢を見てゐただけなのかもしれないから。人は夢を見る時、ぼんやりとわだかまる記号の世界から抽出された、含むところの多い神性を捉へうるにすぎない。
ああ、そうだ。たしかに、そこにいるのは、思い出されたあのウッドストックにいるのは、僕ではない。そこは僕の「故園」ではない。それでも、僕が最初に思い出したのは、たしかにあのときのあの場所ではなかっただろうか。

答えはなく、残響は続く。

不易と流行の名において。

夢のあとに、僕のなかで。すなわち、廃墟のなかで。

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