2017-09-24

BLな俳句 第15回 関悦史

BLな俳句 第15回

関 悦史
『ふらんす堂通信』第150号より転載

氷菓もつ生徒と会へりともに避け  能村登四郎『咀嚼音』

男子生徒が学校外で不意に先生と出会ったら何となく気づまりなものであろうし、教師も同じように感じざるを得ないから、「ともに避け」ということになる。氷菓を持っているところがまた当人からすれば照れくさく、教師からすれば子供らしくも見えて、なおのこと互いに声はかけにくい。

子供らしいだけではなく、屋外で持ち歩ける氷菓となれば、カップに入ったタイプのものではなさそうなので、当然それを舐める舌の動きも目にすることとなる。ふだん人に見せる部位ではない。生徒と教師の関に不意に闖入する生徒の舌のなまなましさもこの句の裏にはひそんでいるといえる。その上での微妙な腹の探りあいじみた交渉が描かれているのだ。

なお登四郎は旧制中学の教師だったので、この句が実体験にもとづくとすれば、相手の生徒は今でいえば中学生から高校生に相当する。

わが生徒笙つかまつる春祭  能村登四郎『咀嚼音』

こちらも教師として生徒の口に着目する句だが、ハレの舞台である。祭とはいっても笙となると野卑な喧噪とはほど遠い厳粛さが漂う。いわばただの人ではない、端然たる、神聖さを帯びた生徒の姿を目にしていることになる。

ジャンルBLにも陰陽師やもののけといった、怪力乱神に属するキャラクターが出てくることが少なくないのだが、この句の場合は、そうした怪しげな力を帯びることによる魅力というよりは、「春」と「笙」に接する唇の組み合わせで、清浄さのなかから自然に立ち昇る艶麗さが持ち味といえようか。

攀づるとき吾子と息あふ深山百合  能村登四郎『咀嚼音』

傍から若い男性を見ている句が多い登四郎だが、これはわが子である。普通であれば、さほど性愛の匂いは漂わない句材であるはずなのだが、それにしてはこの句の色気は何なのか。

山を攀じ登り、息を乱しているわが子。それと息が合っているのは、さしあたりは、語り手である親であるはずだ。だが句のなかでは「息あふ」でなだらかに繋がる「吾子」と「深山百合」との息があっているようにも見える。植物との潜在的な三角関係とも、「深山百合」という回路を通した父子のゆきすぎた生体的同調ともとれる。

検索してみたところ、ミヤマユリという名の植物は特にないようだ。クロユリの変種でミヤマクロユリというのは出てくる。また「ミヤマナルコユリ」というのもあるがこれはユリとは似つかない別の科の植物である。「深山百合」は高山に生えているユリの総称ということになりそうだが、白ではなく、黒とか赤が主であるらしい。そうした濃い色の方が、健常な身心としての「吾子」にはふさわしい気がしなくもない。

スキーに唇触る若ものゝ眠りふかむ度  能村登四郎『合掌部落』

スキー場へ往復する移動中の若者を見ている句だが、相手は眠っていて無意識であり、気づかれないのをいいことに、もはや視姦に近いまなざしが向けられている。

単に座席で眠りこんだ若者というだけでも、その容貌や、見る側の嗜好によっては、目を楽しませる光景になりうるかもしれないのだが、スキー板を抱えたまま舟を漕ぐこの若者は、あろうことか、スキー板への接吻をくりかえしている。

語り手はその唇の感触を、若者の側ともスキー板の側ともつかない位置で、というよりも、むしろ唇の肉感にとりつくようにして想像的に追体験しつつ、その全景から決して目を離さない。当人は全く気がつかないうちにもたらした眼福だが、この若者の恋愛感情が無意識のうちに、女性よりもスキー板に強く向いているようにも見え、そこに予感される不毛と徒労を、指一本ふれないまま見守り続ける語り手の内面にわきおこる感情を、いまの用語でいうとするならば、それは「萌え」以外の何ものでもないのではないか。

執拗な客観描写がそのまま秘めた感情に化けるロブ=グリエの『嫉妬』については、以前にもこの欄で龍太の句を鑑賞したときに引き合いに出したことがあったが、俳句の写生というものもそうなりうる可能性を秘めているのではないかと登四郎の句は思わせる。

少年の汗の香と寝る雨の航  能村登四郎『枯野の沖』

これまで取りあげてきた句はもっぱら視覚に拠っているものだったが、視覚とは五感のなかでもっとも明確に対象との間に距離を置く、分析性の高い知覚であって、対象との同調ということからいえば、この「汗の香」に見られるような嗅覚や触覚の方がすぐれているのかもしれない。とはいえこの句でも相手が「少年」であることは認識されているのだから視覚が全く入っていないわけではなくて、いわば合わせ技となっているのだが、「雨」の航海の最中、その湿気に溶け入るようにして届く「少年の汗の香」は、必ずしも不快なものとしては描かれていない。

またここでは少年と語り手のどちらもが寝た体勢となっている点が重要だろう。もっとも意識の規制がゆるくなり、隠し事すらふと漏らしてしまいかねないリラックスした体勢である。

もっともここでも登四郎句にしばしば見られる、一方的に対象を見る、愛でるという構図はじつは何ら変わっていない。

「少年」は自分の汗のにおいが、同室者に何らかの感興を与えていようとは、おそらく微塵も気がついていない。そもそも「少年」という呼び方自体が、語り手との間にほとんど何の人間関係もまだ築いていない、語り手から見れば、若々しい身体というだけの、ただの物件に近い扱いであり、いわばここでは嗅覚による視姦とでも呼ぶべき事態が起こっているのだ。それがさして暑苦しい句に結実していないのは、結論が「雨の航」であり、「少年の汗の香と寝る」のも旅のなかの一時の感興にすぎないというスタティックさが支配しているためである。少年の色香は、いわば雨の船室そのものの景へと拡散し、浸透しているのだ。逆にいえば、語り手のいる時空そのものが「汗の香」をとおして少年と化しているともいえる。

ところで能村登四郎は第三句集『枯野の沖』以降、少年や青年を詠んだ句が増えている。登四郎本人は定本のあとがきで「混沌時代」と呼んでいるものの、それまでの『咀嚼音』『合掌部落』に比べて、登四郎の資質が明確になりつつある時期だったのではないか。

夏痩せて少年のゐる樹下を過ぐ  能村登四郎『枯野の沖』

身軽に樹に登る少年、その躍動感に圧倒されるかのように語り手は夏痩せする。もちろん通りすぎる瞬間に夏痩せが起こるはずもなく、夏痩せ自体は少年のいる樹にさしかかる以前から起こっていたことだ。樹下を過ぎる刹那に不意に意識されたのは、樹上の少年のわかわかしい生命力との対比するかたちとなったわが身の衰弱である。いやむしろ衰弱していることによって、樹上の少年の身体との感応がかたちづくられ、一セットとなったというべきか。

夏痩せや老化が、それゆえに年若なものの身の活力への感応を強く引きおこすということはたしかにある。もちろん樹上の少年にとってはあずかりしらぬことであり、仮に告げられたところで知ったことではあるまい。

そして、その非情な、あるいはマゾヒスティックな非対称性こそが、離れて指一本ふれぬまま少年の存在を強く感じることを可能にしているのである。

句集『枯野の沖』にはこの句の数ページ前に〈少年銛を熱砂に刺してもう見えず〉という句も収録されている。こちらは少年の活力が語り手の視野をさっさと振りきっていってしまった格好。ルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』の、ダーク・ボガード演じるアッシェンバッハの立場を句にしたようなもので、「もう見えず」の先まで追おうとすれば破滅的な事態が待ちかまえている可能性がある。のんきな叙景の句のように見えて、こちらも、とうてい少年に追いつけないであろう、わが身の衰弱が、エロスをひきつける装置として機能している。

シヤワー浴ぶ若き火照りの身をもがき  能村登四郎『枯野の沖』

「少年」「若もの」「吾子」「生徒」などといった対象を指し示す語はこの句では消えていて、三人称ではなく無人称的な作り方となっている。つまり、この句だけを単独で見た場合、「若き火照りの身」が語り手自身のことなのか、それとも他の誰かのことなのかは判然としない。海水浴場やプールなどに設置されたシャワーを他人が使っているさまを眺める機会はないではないのだろうし、作者のこれまでの句に鑑みれば、他の青年を眺めている句ということになりそうだが、言葉の上ではそうした区別は無人称のなかに溶かし込まれているのである。いや眺めているなどという悠長なものではなく、見入り、その若き身の味わっているであろう体感にまでシンクロし、渾然一体となりながら、同時に冷静に句の言葉を組織しているといったところである。没入と冷静が同時になりたっているところが、かえってそのまなざしの恋着ぶりを際立たせるのである。

「若き」「もがき」が脚韻的に結びつくので、この二語の続きよう自体が、身の火照りをあらわすオノマトペのような効き方もしている。若者の身の活気を、離れたまま味わう登四郎句の、ひとつの頂点というべき句だろう。

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関悦史 流星

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