2018-07-15

愚人正機 高田獄舎は何が気に入らないのか 高田獄舎✕久留島元

愚人正機
高田獄舎は何が気に入らないのか

高田獄舎✕久留島元



本対談は、高田獄舎氏に関心を抱いた久留島が接触を試み、201867日から一ヶ月にわたりメールでやりとりした内容を再構成したものである。

久:獄舎氏は俳句甲子園出身なんですか?

獄:そのように思われる方が多いのですが、違います。俳句甲子園どころか、文芸部すらない、軍隊的な雰囲気の地方の公立高校出身です。ただ俳句甲子園の存在はテレビなどで知っていました。早口でしゃべりまくる高校生たちを見て「生意気なガキどもだな」と思っていました。今でも毎年、ネット等で俳句甲子園を観戦するたびにそう思っています。

久:そうでしたか、失礼。今年も生意気なガキどもの、暑い季節がやってきました。
俳句を始めたきっかけは。

獄:俳句を始めたのは大学2年生の4月。
大学一年生のときバカなことばかりしてしまい「大学デビュー」に失敗し、地獄のような大学生活から抜け出して青春の勝者になりたいと思い、早稲田の学生ではなかったのですが、早稲田大学の俳句研究会に居候し始めたことがきっかけです。なぜ俳句研究会に入ったのかというと、中学生のときから寺山修司の俳句が好きで、大学生になっても自分のなかで俳句について醸成しつづけているものがあったから、興味を持ったのだと思います。しかし入会後も結局バカをやりつづけ、いつまでも「大学デビュー」できないまま大学を卒業し、海程に入会して海程に句を発表したり、ネット(私がやっているクソブログ「愚人正機」)で勝手に発表したりして今に至ります。まぁ近々、海程の終焉とともに私も退会するのですが。

久:なるほど、歌人の山田航さんなど、寺山修司は世代を超えて現代の学生にも影響力がありますね。
以前関西現代俳句協会青年部HPで作品を寄せてもらったので名前は覚えていましたが、同世代の中では珍しい作風だと思います。同世代作家に対して思うところは。

獄:同世代の作家(本当は作家などと呼びたくありません。お前らの個性ごとき「作家」と呼ばれるほどのものではないだろと思います。私自身、自分が「作家」だとは今のところ思わない。若者を「作家」としてチヤホヤするべきではありません。)については、もちろん福田若之、生駒大祐、小野あらた、大塚凱、堀下翔、三村凌霄、高田獄舎など、見事な句を作る者がいて、彼らの作品に感動することが多いですが、彼らを含め同世代にはムカつくこともまた多いです。年寄りのような句を作るものが多く、本当に自由に句を作っているのか? と常に思います。いつまで俳壇の権力者にゴマを擂っているのだろうか? つまらん句をしか作ることができないなら、俳句なんかやめて労働だけしていろ!!

久:作家と呼びたくないというのはひとつのスタンスですね。私は逆で、「俳人」より「作家」と呼ぶことで表現について自覚したい/して欲しいと思っています。
それに、これは楽観的なのか悲観的なのかわかりませんが、自分の経験をふりかえっても、ちやほやされてもやめる人はやめていきます。おだてられたり梯子はずされたりしながら、それでも残っていく人だけが最後は評価に値する「作家」だろうと思っているので、私は間口ができるだけ大きい方がいいと思っている。
いま同世代としてあがった名前はほぼ『天の川銀河発電所』(左右社)入集作家ですね。

獄:『天の川』を読んでいると「オルガン」の作家(以下、私は久留島さんほど甘くないので、やはり「作家」という言葉を使いたくないのですが、便宜的に我慢して使います)が全員入集しているのは不気味ですね。これはブログでも書いたのですが、下手であり、かつ似たような傾向の俳句ばかりで何度もうんざりさせられました。名前を挙げていいと思いますが、一番下手なのはトオイダイスケですね。下手と言っても平均的なレベルに達しているとは思いますが、それ以上ではない。 彼の作品がアンソロジーに乗るレベルに達しているものとは思えない。また、佐藤文香の人選・選句のセンスがないというのもあります。「天の川」では上段と下段の二段にわけて作家の作品が配置されており、佐藤は上段に「特に読んでいただきたい作品」を配置し、下段には「資料的に作品を補足し」ていると書いているのですが、明らかに下段のほうが読んでおくべき句が多いと思いました。佐藤が考える「いまの俳句」「次の俳句」がこのアンソロジーに込められているのだとしたら、それは随分と閉ざされていて浅はかなものだなと思えてなりません。
『天の川』についての批判を書けばキリがないのでここらへんでやめておきます。

話題がつながりますが、最近『天の川』や「オルガン」周辺作家への強烈な批判をSNSで展開しています。批判のポイントを簡単にお願いします。

獄:
・相互批判意識の欠落
・過剰なくつろぎ空間
・「ムラ社会」的言動
・自閉と傲慢(「オルガン」の句について)
を、挙げます。これらは作家をとりまく状況に対する批判です。いや、批判と言うより嘆きに近い。正直、このような事を語ることに私は何の意味も見いだせない。書くことで自分の俳句が上達するわけでもない。
久留島さんや私が何を語り合い、それを「週刊FUCK俳句」に掲載しようが、何も変わらない。今の俳句「作家」どもには何の影響も与えない。すでに状況は変わりようのないところまで来ているという感覚が私にはあるからそう思う。それでも、私の言うことが、これから出てくる作家、いま日本に住み、これから俳句を担うかもしれない大学生、高校生、中学生、小学生、幼児、胎児、精子、卵子に受け継がれることを願い、語ろうと思います。

久:オルガンへの批判「自閉と傲慢」について、ブログでも書いていましたが、具体的に作品あげて批判できますか。

獄:このようなことを意識するようになったきっかけは、私がブログで『天の川~』の句に対する感想を書いていたとき、「オルガン」の宮﨑の句に対して批判的な事を書いたら(それについてはSNS上で宮﨑自身の反論があった)、北大路翼や佐藤文香が彼女を擁護したこと。宮﨑自身が私の書いたものに反論を加えるのは何ら違和感がないのだが、北大路や佐藤がなぜ彼女を擁護する必要があったのか。(宮台真司的な用語を用いざるをえないことに恥ずかしさはあるのですが)
そのとき、『天の川』を通して彼らと、彼らに共感する者の間にひとつの【島宇宙】―その島宇宙は〈「いまの俳句」「次の俳句」を担い、また、共通のものを担うゆえに相互に脅かし合うことのないわれら〉という連帯感の母胎に覆われたもの―が生まれてしまったのではないか(だとしたら、佐藤がわざわざ自身のブログで宮﨑を擁護したのも頷けます。自分が次の俳句を担うだろうと思っていた同じ島宇宙内の俳人が傷つけられたのだから。)、というのが、私の基本的な認識です。この『天の川』島宇宙には「オルガン」「里」「アウトロー俳句」などが含まれます。

獄:いくつか例を挙げます。北大路はNHKのハートネットTVという出演したとき、テレビカメラは正月の歌舞伎町を歩く北大路の姿をとらえていました。そのとき、北大路は俳句を書いた短冊を歌舞伎町のお店の門松に捨てました。軽犯罪といってしまえば言い過ぎですが、あきらかに批判されるべき事柄でしょう。しかし、私以外にそれを批判する者がいなかった(「里」の黄土眠兎という俳人は彼の行為を擁護すらしました)。北大路に軽く注意する者すらいなかった、あまつさえ彼の行為を擁護する者がいたというのは異常です。ちなみに北大路率いる「アウトロー俳句」の屍派は島宇宙化して単なるくつろぎの空間に堕していて、屍派のメンバーが「殴る」などの犯罪を示唆する言動をTwitterでしても、他のメンバーはそれを注意すらしません。屍派の代表的人物である北大路もそれを放任しています。無責任以外の何物でもありません。

獄:もう一つ。ついこないだ(2018年5月)、上田信治が(週刊俳句576号http://weekly-haiku.blogspot.com/2018/05/576201856.html)の「新人賞ふたつ」という記事で芝不器男俳句新人賞のことについて述べているのですが、この記事で上田が「もっとも若い書き手:」以下に、他に数人いたであろう、予選通過者であった特定の若い書き手の名前を上げませんでした。島宇宙内に存在しない者は黙殺するという手段をとった上田は、私がTwitterでそれを批判すると「それが、なにか?」と返答しました。上田はバランス感覚の欠如を露呈したのですが、本人にその自覚はないようです。「天の川」島宇宙が内面化されすぎた結果でしょう。

獄:上田の所属する「里」で起こったことついても述べておきます。「里」の田中惣一郎が、アマゾンのレビューや自身のブログにおいて俳句界の「天の川」や「自生地」に批判的な態度をとっている佐野波布一という人物の、言論ではなく佐野波という人物そのものに対して侮辱するような低レベルの文章を「里」に掲載し、のちに田中自身のブログにも掲載しました。私がそれを批判すると中山奈々・黄土眠兎が田中を擁護しましたが、どの程度田中の文章の問題性・稚拙さを認識していたか疑問です。
まとめます。佐藤文香・北大路は宮﨑を擁護し、北大路を屍派が擁護し、北大路も屍派を放任というかたちで擁護し、上田は島宇宙外を黙殺し、中山・黄土は田中による佐野波への侮辱を擁護しました。
彼らは島宇宙内でのコミュニケーションに淫したことで、〈批判⇔反批判〉による言論活動の進展を不可能にしてしまった。身内を擁護し、優遇し「それが、どうした」と開き直ることを平然と行い、批判は島宇宙内で吸収・消滅してしまうのです。
こういうことが何をひきおこすか。句を批判的に読むことができなくなり、また、句が批判されると感情的に反発し、批判したを奴をみんなで集中砲火。島宇宙内の誰かが句集を出せば内容にかかわらず褒めまくる。日本各地でイベントやパーティーを開いてお互いを承認し合い、同じ島宇宙の人間であることを再確認する。そしてキャッチーな国歌https://www.youtube.com/watch?v=6e1Xf8PmIwgなんか作っちゃったりするということです(なぜこういう歌が必要かというと、この歌の価値観にどのような反応を示すかで「身内」か否かをすぐさま判断できるからです)。
ああ、語っていて死にたくなってきた。

久:北大路さんの行為や、Amazonレビュアーを相手取った戯文については、私もたいがい呆れましたが、「アウトロー俳句」の場合、作品がアウトロー(無法)なのではなく、作者がアウトロー(はみ出し者)であることをうたっているのだから、作家として評価していいのかどうか迷うところがある。彼らからすれば、俳句だけでなく軽犯罪的なものをふくめ実人生をパフォーマンスとして見せているということなのかもしれず、彼らを論評することは難しいと感じています。

獄:「アウトロー俳句」関係の人々を「作家」と扱うのは、先人たちに失礼極まりないことだと思います。北大路は「作家」ではありません。キャラクターとセットでわたしの俳句をどうぞ、といった具合に、実は北大路は作家や俳人というよりやり手のビジネスマンなわけです。北大路の〈フォロワー〉である屍派の俳句愛好家の方々はそれを真似ているだけでしょう。彼らの無価値な作品について語るのは時間の無駄ですから言及するのはここまでにしておきます。

久:佐野波布一という人のAmazonレビューについては、おもしろく読みました。ただ「サブカルは文学ではない」という強固な価値観によってサブカル的感性の俳句を一律否定したうえ、人格に否定まで筆が及ぶことが多く、心穏やかに読みにくいものがありますね。
特に福田若之くんの句を評価する青木亮人さんを研究業績のない寄生虫とまで罵っているのは明らかに「坊主憎けりゃ」の類いです。
人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義というべきで、島宇宙的ともいえるのではないですか。

獄:私も佐野波氏の言っていること全てに納得しているわけではありません(私はブログで『自生地』のいくつかの句についてを高く評価しました)。が、佐野波氏の文章における人格否定だの強固な価値観だの(私はそれにあたると思われる部分について、さほど問題になるようなものではないと思っているのですが)については、彼のそのようなスタンスが俳句界にとって薬になる場合もあるだろうというように、私はむしろ肯定的にとらえています。俳句について、彼以外に彼のように、彼のような温度で語ることのできる方が今の俳句界にいますか? いませんよね。彼の文章に気持ちよく受け取れない部分があったとしても、積極的に語る貴重な読者を発見することができたと、彼の存在を慶賀すべきだと思うのですが(彼が「島宇宙的」? ハァ? 意味わかりません)。彼の言い草をあげつらう浅はかさから離れて、彼のような批判を展開することのできる者がなぜ今の俳句界に見当たらないのかを考えるべきです。ついでながら佐野波氏のブログの最新記事(2018年6月17日現在) http://sanova.site/?eid=270 を読みましたでしょうか? 田中惣一郎の文章についても触れられています。

久:熱心な読者を得たことを慶ぶべきことと、その批判に対して答えることは別であるし、福田若之に対する評価だけを基準として信用できる/できないを簡単に二分していく論法は排外主義以外の何者でもないでしょう。彼とは違う形で俳句愛を語りうる作家など、いくらでもいます。
とはいえ佐野波氏の評価をここで語っても仕方ないので獄舎氏の指摘にもどると、上田さんや佐藤文香に対し「中立」を求めすぎな気がします。
むかし田島健一さんも指摘していたことがありますが、価値観の変革を目指す作家は、政治的公平さより偏向したマニフェスト、プロパガンダによって自分たちの基準を押し通そうとすることがある。正岡子規や高浜虚子がしてきたことです。
特にアンソロジーというのは、ある程度の公平さは求められるにしても、+αでどう自分好みを出すかが勝負だと思う。その偏向を批判しても、彼らは自覚して既存の価値観に挑戦しているのだがら意味はなくて、大事なのは、偏向の妥当性を論じること、つまり具体的には選ばれた作品に足りない点を指摘したり、選ばれていない作品の新しさをアピールしていく批評をしたりすべきだと思う。
私自身、ふたりとは違うところに俳句の可能性を感じていますから、重なる部分は応援するけれども、違う部分は自分でやっていくしかない。

獄:それらのご指摘、私は真摯に受け止め、反省すべきところだと思いました。〈「天の川」島宇宙〉叩きをいつまでもやっている時間はありませんし。「具体的には選ばれた作品に足りない点を指摘したり、選ばれていない作品の新しさをアピールしていく批評をすべき」というところ、そういう仕事をしなければならないとは薄々感じていました(どうせ徒労に終わるでしょうが)。
ところで、久留島さんが感じている、「ふたりとは違うところ」にある「俳句の可能性」について、よくわからんので教えてください。

久:これは、べつに獄舎氏と共感できる点でもないでしょうが、私はもっと俳句は軽やかで多面的でよいと思っているわけです。言葉遊びもあるし、意外な人生の重荷を垣間見せることもあるし、くだらない句もあるし、ひとりの作家がいろいろな面をみせる、けれども総体としてひとりの作家像が浮かんでくる。それが理想なんですね。
だから動機付けを固定したり、「俳句は○○」と理想や美意識を一点に絞りたくない。
あえて言えば「現代の作家」である根拠みたいなものは欲しいから、私自身は口語にはそれなりにこだわってますが、別に他の作者に強要するつもりはない。

獄:久留島さんの俳句についての考え方はわかりました。ただおっしゃるとおり、共感はできませんね。インテリらしい理想論です。私は自分の美意識や理想で他の俳人を粉砕することしか考えていません。久留島さんの考えは、俳句に対して「なんでもあり」という態度に接近してしまうのではないかと思います。そういう態度の俳人の句はだいたい下手くそです。久留島さんの句を読んだことはないけれども、読むに堪えないものだろうなと予想できます。

久:そういわれると厳しいな。先のは読者としての「理想論」なところがあるので作者として理論倒れの力不足と言われるのは甘受して精進するしかないかもね。
ということで、オルガン句、とくに鴇田智哉さんに対する評価を聞かせて下さい。
私自身は、鴇田さんは確かに「何も言っていないのに不気味な存在感が残る」という意味で「最強の文体」であり、すぐれた作家だと思います。印象的で覚えてしまっている句(「人参を並べておけば分かるなり」「食べられて茸は消えてしまひけり」「7は今ひらくか波の糸つらなる」など)はたしかに面白いと思う。
同時に、ひとつの方向性に深化していくことで、それ以外の可能性を振り捨ててしまっていないか、とも思う。私自身は多様な可能性を模索し続ける俳句が好きなので、そのあたりは合わない。どうでしょうか。

(対談のために先日から『天の川~』を読みかえしているのですが、体が拒否反応を起こして顔にニキビがいくつかできました)(まず最初に述べておきたいことがあります。正直、私は「オルガン村」の連中の句について書きたくありません。それは、上田信治がやったように、俳句界においては「黙殺」こそが俳人を殺す最強の攻撃法だからです。批判するためであれ、連中の句について書くことはそのまま彼らの名声を高めることにつながりかねない。俳句界では「語られる」ということ自体が意味を持ってしまう。つまり、語られたとき、クソみたいな無数の句から区別され、特別な句となって俳句史の流れの中に一本の小枝として浮かべられてしまうのです。私にしてみれば、オルガン村の村人の句はクソみたいな無数の句のなかにとどまっていてほしい。しかし、そんなこと言っていても始まらないので我慢して書きます。)
まず挙げられた句から語り始めたいと思いますが、現時点での私の感想としては、クソつまらないです。何が面白いのでしょうか。こんなものを「たしかに面白いと思う」とは……久留島さんは私との対談で疲れてついに頭がおかしくなってしまったか、あるいは誰かによって劇場版『テラフォーマーズ』を千回連続で見せられる拷問でもうけたのでしょうか。いや、本当に私はこれらの句の良さがわかりません。さまざまなところでこれらの句について語られたものを読んだ記憶があるのですが、そのどれにも納得させられませんでした。
獄:田島健一のブログでこんな文章を見つけました→「躓く男 ~鴇田智哉作家論」(http://moon.ap.teacup.com/tajima/1606.html)。ここから引用すると、田島はこの句について
この句を、散文の断片として読んではならないだろう。
日常生活の一風景を切り取ったものとして読んでしまうと、
必ず「何が分かったのか」が問題になってしまう。

「なぜ」、「誰が」、「何のために」─こうした切り口は、
すべてこの句を「所有」しようとする試みでしかない。
本来、この句は次のような順序で読まれるべきなのだ。
として、この句を並び替えて読み解くのですが、いちいち並び替えなければ読み解くことができないものを俳句と呼んでよいのでしょうか。わたしははいくをはじめたばかりなのでわからないんですけど、俳句ってパズルでしたっけ?
まあオルガン村村人田島の無理のある鴇田句ヨイショ記事はどうでもいいです。
そもそもが、私はなぜ鴇田の句を批判するのか、それについて語るならば、私自身の俳句観についても語らなければならないでしょう。

獄:言語化するのは難しいのですが、私の考えでは、俳句とは作者だけのものではありません。また、読者のだけのものでもない。作者⇔読者間の〈交通〉によって成立するものです。〈交通〉において、作者は能動的、読者は受動的ではなく、その両者はどちらも能動的に機能します。その〈交通〉によって俳句のおもしろさが初めて理解できる。ですから、鴇田ただ一人だけが真の意味を理解することのできる「人参を並べておけば分かるなり」(「7は今~」の句もそうです)という句は私から見れば作者によって独占されており(私はブログでこのことを「俺の句を並べておけば分かるなり」と揶揄しました)、〈交通〉は成立していません。読者がこの句をどう解釈してもそれは作者に通じない。作者である鴇田が「分かるなり」というゲートを閉ざすような表現をしているからです(そしてゲートの向こう側では自己満足の楽園にくつろぐ鴇田がいるのでしょう)。「7は今~」の句にしても、「7」の正体は作者しかしらない。こういう句に対して、読者は能動的に句を読んでいるつもりでも結局は受動的な立場に閉じ込められて、この句をそれぞれに解釈して自分で納得するしかない。そうせざるをえないのです。こういう鴇田の(そして、オルガン村の村人にみられる)自慰的創作態度を私は批判します。手淫して精液まみれになった手を見せられて「俺が何に興奮したかわかるか?」と言われても、困るじゃないですか。

久:とても面白い指摘。むしろ鴇田さんやその周辺は、その努力をふくめて「おもしろい」句、目指すべき句ととらえているようなフシがある。私もそれは「おもしろい」と思うけれども、獄舎氏は、それを読者側への無理な負担と考えているのか。

獄:「独占」という言葉を私は使いましたが、その内実は〈解釈への強制と、解釈の支配〉です。強制・支配の自覚なき「読者側への無理な負担」が鴇田らの句にまとわりついている。鴇田の句を読むとき「わからない」から理解できるように「おもねる」しかない。奴隷気質の現代日本人の心をよくとらえた作風と言え、実際〈鴇田の句を否定した奴を、俳句を読めない奴扱いする空気〉が蔓延していますが、私は鴇田の句も作風も〈空気〉も拒絶します。俳句についての「わからない」がよくSNSで話題になりますが、それ自体に問題の本質はありません。問題の本質は、「おもねる」ことの強制にあるのです。
もう一つ言いたいことがあります。『天の川~』38p、佐藤文香による鴇田智哉の[読み解き実況]で、「鴇田さんは以前インタビューで「それだけで生えている」ような句が書きたいと言っています。何かを見て写し取るんじゃなくて、何か自体であるような。だから句が命そのものであるようなところがある。それは句が妙であることともほぼイコールで、すごくおばけっぽい。」と佐藤は述べています。爆笑モノです。句はどこまでいっても、どのような表現をしても、それは「言葉」です。句に対して、「生えている」だの、「命」だのとイメージをかぶせることは勝手ですが、それを俳句として提出し、他者に披露している以上は、俳句とは「言葉」でできたものであるということを見落とすべきではない。福田若之も『自生地』のあとがきで「あれらの句がこの地にこうしたかたちで自生するために~」と書いていますが、「生えている」句もありえなければ句の自生などもありえません。句は言葉です。逆に言います。ひとつの植物を指さして「これは俳句である」と言って、納得するひとはいないでしょう。それなのになぜ、句を指さして「これは生えている」「これは命だ」「これは自生している」と言われて素直に納得することができるのでしょうか。句についてそのように語る者の傲慢を問題にしなければならないでしょう。

久:私にとって鴇田句の面白さは、投げ出された言葉の面白さ。それを彼自身は「生えている」などというわけだ。
ある意味で鴇田俳句は「去年今年貫く棒の如きもの 虚子」に通じる気がしているのだが、獄舎氏は、そっちの面白さは完全に「ナシ」なわけですか。

獄:久留島さんのその認識がマヌケだと言いたい。虚子の句を挙げていただきましたが、鴇田ごときの句と通じるものはありません。違いすぎるといっていい。虚子に失礼だと思います。
前の私の言い方を使えば、虚子の句には〈交通〉が成立している。「去年今年」を貫く「棒の如きもの」は具体的に何を指すか不明ですが、読む者の感覚(時間・空間に対する)を揺らがせる力があります。「棒の如きもの」を手渡されたとき、読者は自分の中にある「棒の如きもの」を、虚子の感じたものと[共通するもの](ここ大事です)を発見・再発見することができる。言葉の間主体的な性質が活きている句だと思います。久留島さんは投げ出された言葉というけれども、虚子のこの句の言葉は投げ出されたものではありません。読み手に対して正確に置かれた言葉です。鴇田の「人参の~」の句は読者に何も手渡しません。さきほど言ったように、その手は手淫に用いられているからです。読み手は鴇田の句を読んでいろいろ考察するけれども、鴇田と共通ものを感じることができた人がどれほどいるでしょうか。
読み手は鴇田の句を「おもしろい」と感じることは可能だと思うけれども、それには努力が必要です。いいですか、鴇田の句を「おもしろい」と思うには努力が必要なんです。読み手にいちいちおもしろさを理解する努力を強いる句など、クソにたかる蠅のクソ以下です。

久:個人的な感想でいうと、佐藤文香の句は、読者としてはいろいろ実験的で多面的なおもしろさがあると思うのに、選者としてはある程度文学的というか、うまくいえないがある程度方向性を絞って選んでいるような気がする。その方向性の一つが、鴇田智哉なんだろうな、と思うわけです。

獄:その点は同意です。『天の川』を読んでいても、この人はごちゃごちゃ書かれている俳句が嫌なんだろうなと思いました。そんな好みはクソくらえですけどね。

久:もうひとり福田若之くんについて、獄舎氏は彼の「書き留めておこういなびかりのふるえ」「針で傷くらやみをほたるにくらやみをほたるに」などを評価していて、『自生地』から「作者は傷ついているのではないか」と鑑賞しているわけですが、多くの論者が指摘する福田若之俳句の「青春性」と通底すると思う。あえてナイーブさを見せつける、みたいなところ、私は小説でやられると苦手で、村上春樹とか読まないタイプなんですが、俳句の短さだと結構許容できるところがある。
福田くんについてはどう評価しますか。

獄:福田若之の俳句を語るときに「青春性」などといった使い古されたくだらない言葉を用いている時点で自分には俳句を語るセンスがないと「論者」どもは自覚すべきです。
私に言わせてみれば福田の句は「青春性」なんてもんじゃない(ナイーブさは確かにありますただそのナイーブさを「青春性」などという程度の言葉で表現することしかできないのは笑えます)。福田の句から浮かぶのは、道路でたまに見る、血と汚れにまみれた鳥のイメージ、つまりもっと生々しく、どろどろした、気持ちの悪いもの、一般的には嫌なものです(私はそういうものが大好きですが)。こないだ読み返しましたが、39ページの「犀の屍骸をあばくジャッカル噴き出す蠅」この句は最高です。犀というのは福田自身であるような気がする。その屍骸をジャッカルがあばくわけですが、その過程で犀にたかっていた蠅どもが去ってゆく。不思議と、犀はこのジャッカルを長い間求めていた(いる)ように読んでいて感じます。なぜブログでこの句について書かなかったのだろう。読み落としていました。

久:なるほど。それは、獄舎氏のように同世代の作家だからこそ強く感じるところかもしれない。俳句界の「おじさん・おばさん」たちは、その「嫌な感じ」をさらけ出してるところをふくめて、ナイーブさ、青春性と言ってしまうのだと思う。それを、ここまでむき出しで俳句へ殴りかかっていくような感じは、平成以降の書き手では彼しかいないような気がして、貴重だと思っています。

獄:俺もいますし、俺はいつか福田を粉砕します。宣言ついでに、この対談は公開されるのだから、この場を借りて福田に伝えておきます。「福田よ、『オルガン』を捨てたほうがお前は伸びる」

久:たしかに青春性という言葉の軽薄さは気をつけなければいけないけど、私なんかが感じるのは、深夜アニメ見ているときのような罪悪感とか、ふわふわした感じ。獄舎氏の感想と、重なってるのか重なってないのかわからないけど。

獄:重なりません。「深夜アニメ」というのがよくわからない。ただ、久留島さんのそのとらえかたは面白いです。いつかその「罪悪感とか、ふわふわした感じ」を詳細に言語化してください。(それから、「おじさん・おばさん」などと優しい言い方をするから、ジジババ共は自分が時代遅れであるという自覚を持たなくなる。「青春性」などというテキトーな言葉に依存し、テキトーなことばかり述べる年上の俳句関係者に対してはもっと厳しい目でみてください。)

久:では最後に改めて。獄舎氏が目指している俳句の方向性、自句でもよいし、先行句でもいいけどいくつか、実例を示してもらえますか。自分なりに「できた」と思う句でもよいし「こういう句がいい」というリスペクトでもいい。

獄:目指しているものがある程度達成できていると思うのは、「灰燼乃地」からは
尿で毛虫殺し真夏の孤児は今日を飛ぶ
書物地獄に蠅は交尾し首吊る偉人
券売機前に娘の伸縮飯吐く俺
「毒存在紀」からは
涸れたビルにゲロのみが灯でそれを跨ぐ
生肉のように顔面ゆるみ米喰う火葬場
テトラポットに痰くれてやり穢の熱気
虫ども複眼でとらえているか糞と教会
が挙げられます。私の俳句の方向性について、ここで種明かしをするのは、読者を甘やかしすぎだし、怠慢で勉強不足の現代俳人たちに調べものをさせるいい機会だと思うので、また、「オルガン」の連中のように哲学用語などを用いあいまいな言葉でマウンティングをとりつつ一方的に創作について語ることは絶対に避けたいので、ヒントだけ与えておきます。〈ヒント:今年のワールドカップ開催国の、とある都市出身の思想家で、1970年代に没した人物。大江健三郎に影響を与えた。〉
その思想家のある理論は多くの作家に影響を与えたのですが、我が国にはあまり浸透しませんでしたし、俳句ではほとんど語られません。その理論を私は大江作品を通じて知り、その思想家の著作を読み始めました。現在、私はその理論を俳句で実現するため、悪戦苦闘しています。なぜその理論が必要かというと、インターネットに浸された、また、ネット等のメディアと現実とのギャップで地獄を見ている同時代人の内部に血を送り込まなければならないと思うからです。特に私の同年代や年下の人間は、時代のなかで苦しみ、一部はマンションから飛び降り、電車に飛び込み、あるいは、公共の場で刃物を振り回し人を殺しています。文学ごときでそれらをどうすることもできないのは自明ですが、それでも、それらのことを意識して俳句を作る。創作をする。私は死ぬまでその連続に生きます。

久:久留島の推薦句は、
日直日誌特記事項に雪が降る 塩見恵介
こういう日常を詩化できる句は俳句のひとつの理想だと思うし、
歩く鳥世界には喜びがある 佐藤文香
のように「喜び」を正面からとらえられる句にも希望を感じる。
一方で、ふだんは暢気な西村麒麟が「かぶと虫死なせてしまひ終る夏」と詠む切迫感、
私には絶対詠めないけれど「溺死たとへば最後に腐る胃の獅子唐 吉田竜宇」の屈折
した言葉の存在感、「コンドルは飛んでゆく菜の花ゆがく 中山奈々」の浮遊感も、
現代俳句の貴重な可能性だと思う。
一応自分の句もあげておきます。
きつね来て久遠と啼いて夏の夕 久留島元
 天の川すべて狸が化けたもの
 大いなる才能の無駄芒折る

獄:久留島さんが挙げた俳句はどれも、一定以上のクオリティは確保されている句ですが、「現代俳句の貴重な可能性」などと大げさなことを言うなと思います。ただ吉田竜宇に関して、彼の作品を最初に見たのは、第五回芝不器男俳句新人賞の一次選考通過作品だったのですが、驚きました。言葉の選択、並べ方、それが産み出す効果、計算しつくされています。一読し、私は彼のような逸材をこれまで見逃してきたことを恥じました。彼が今回受賞しなかったのは不思議でしかありません。芝不器男賞も波郷賞のように形骸化し、堕落し、無意味化してしまったのだと思います。選考委員の連中はただ自分の好みの(もっといえば、自分の価値観に隷属してくれる)俳人を探すことに終始し、力のある新人を俳句界に送り出して既存の俳句界に衝撃を与えることの意義を見失ってしまったのです。嘘だと思うならホームぺージで受賞作を読めばいい。見事につまらない作品ばかり選ばれています。

獄:「現代俳句の貴重な可能性」というワードに関して、10・20・30・40代の俳人に言いたいことがあるので言わせてください。

獄:今ある俳句、それにまつわる権力、そういうものを疑わなければ、AIを搭載した「學天則」のようなマヌケなロボットしか俳句を読まない未来が待っている。だから、俺たちが、これからの時代、〈俳句〉を捨てずに生きてゆくのであれば、現代の俳句と俳句界の構造を徹底して破壊しなければならない。年上の俳人にゴマを擂って若手同士で賞を奪い合うことはほどほどにして、結社の主宰も週刊俳句も角川俳句も賞もなにもかも跳び越えて、自由に暴れ、ジジババ俳人権力者をも巻き込んで混乱を起こさなければならない。ただ混沌のみが俳句を未来につなげる。そういう思想を基本的にもっておけということです。特に30・40代の俳人は、ケイスケ・ホンダのような、意識を高く持ち、能力のある俳人を何人生み出すことができるか、どうやったら生み出すことができるか、そのシステムを常に考えろと思います。仲良く知り合いと句会でワイワイして、それだけで満足するなといいたい。世界≪で≫詠むな。世界≪を≫詠め。

獄:最後に、久留島さんが挙げていただいたご自身の句について
下手くそです。一句目、「来て」が無駄です。二句目、「すべて」がわざとらしいです。天の川の把握も大雑把すぎます。三句目、上五中七の推敲不足です。久留島さんは、俳句は向いていないので研究に専念し、一生懸命働いてください。詩がド下手なインテリは学術研究に適しています。応援しています。

久:うーん、私は先に言ったとおりいろいろな方向を試したいから、下手だから作るなという言い方には肯えないな。まあぼちぼち続けたいと思います。
対談、というかインタビューみたいになったけど、お相手ありがとう。党派性については、人が集まれば党派は生まれるし、作家が自分の目指す方向を推すのは当たり前で、子規も虚子も、高柳重信もそうやって俳句史を動かしてきた面があると思う。だからその点を衝いても、ありがちなゴシップ的記事にしかならないと思います。
獄舎氏にはゴシップ的な賑やかしでなくきちんと作品批判をやってほしかったので、(あちこち聞き苦しい脱線が多かったけど)意見を聞けたことはよかった。ご苦労さまでした。

獄:党派性批判について、また、聞き苦しい脱線や茶化しが多かったことは気をつけます。今回の対談によって、『現代思想』のテーマ風に言えば「マスターベーション化する俳句の世界」が明らかになったと思います。なんの金にもならない、しかも、「週刊FUCK俳句」ごときに掲載されるという屈辱的な対談でしたが、久留島さんの粘り強い返答に苦しめられたのがいい思い出になりました。これからもお互い、AIに粉砕されないように駄句を生産し続けましょう。ご苦労様でした。

8 comments:

菅原慎矢(第五回芝不器男賞齋藤愼爾奨励賞) さんのコメント...

いち早くオンラインに対応し、既存の総合誌とは段違いのフットワークの軽さを誇ってきた「週刊俳句」は、2000年代以降の俳句界に強いインパクトを与えてきた。結社誌・同人誌による縦割り関係が張り巡らされている俳句界において、掲載作品に明確な方向性をあえて出さなかったことが、結社等への所属意識の薄い若手を中心とする広範なネットワーク形成に重要な役割を果たしてきたことは、否定のしようがない週刊俳句の貢献であろう。一方で、週刊俳句の編集方針には不明点もある。具体的には、掲載俳句作品については編集部(西原天気氏と上田信治氏が中心という認識で良いだろうか)の依頼によるという形態の不透明さである。この点に対する忌避感こそが、高田氏の行動の背景にあるのではないか。

換言すれば、週刊俳句とは、編集部が掲載作家を選ぶという点で、俳句アンソロジーと類似した場と言って良いだろう。こう考えると、たとえば明確に個人名義で「天の川銀河発電所」を編纂した佐藤文香氏の覚悟ある立ち位置と比べて、週刊俳句編集部のポジショニングは曖昧である。今回の件では、西原氏が下記のツイッターコメントを残している「道義ってものを理解できないお子ちゃまを相手にしちゃダメってことです。これ、なんにでも言えることだから、メモね。」望んだものではないかもしれないが、アンソロジー編集者には権力が付与されてしまう。そのことに対する自覚はあるのだろうか。権力側がこのような不用意な言葉遣いをしていることに、筆者としては不快感を抱く。

一方で、高田氏の行動を考えてみよう。最先端を走る芸術家にとって、無理解な既存の枠組みを逃れ、自由な自作発表の場を得ることは不可避の闘いである。官展への批判から生まれたアンデパンダン展がなければ、現代美術はどれほど不毛なものになっていただろう。今回の高田氏の行動には、現状の場を否定し、新たな場を模索する明確な闘争意識が見られ、筆者はこれを無条件に支持する。この点が見えずに高田氏を批判している人は、すでに週刊俳句編集部に認められて、権力の内部に取り込まれているのではないだろうか。いったん自問してみて欲しい。

対談の内容について付記すると、久留島氏が高田獄舎作品に対して自らの評価を下していないことが目に付いた。実作者との対談である以上、まずは無心に作品に対峙することが、評論家としてあるべき姿勢なのではないだろうか。高田氏は、言葉の強烈さから来る好悪の別はあっても、現在まず議論されるべき作品を残している作者であるだろう。先日行われた芝不器男賞シンポジウムでも、彼の代表作とされる「コンビニの世紀コンビニで母殺され」について、そのメッセージ性の浅さを表健太郎氏と私が批判し、松本てふ子氏・田中惣一郎氏が弁護するという不思議な図が展開されていた。作品でインパクトを残しつつある実作者としての高田氏に向き合わず、扇動的な行動のみをクローズアップした対談を行うことには、どのような意味(意図)があったのだろうか。

久留島元 さんのコメント...

コメント欄のトラブルがあったようで、気づくのが遅くなり失礼しました。
かなり時宜を逸しましたが、コメントいただき恐縮です。一部「週刊俳句」に対するご意見なのか、今回の編集を担当した久留島に対するご意見のか、対談に対するご意見か、わかりかねましたが、お答えできる範囲でお答えします。

「週刊俳句」が一種のアンソロジーだというのは意外なご意見ですが、それなら全ての雑誌はそうなのではありませんか。ともに「編集の力を楽しむ」読み物ではありますが、ふつう、雑誌はアンソロジーとは呼びませんし、また、雑誌の編集権はすべてクリアに、透明になっていることはありえません。
角川俳句の特集でだれが起用されるか、巻頭が宇多喜代子か鷹羽狩行か、それは角川の編集会議に入らないとわからないでしょうし、編集部が編集会議のすべてを読者にさらすような義務もありません。
さらにいえば「週刊俳句」は「記事の募集」を常に掲げており、その点、圧倒的に透明です。作品募集はありませんが、これはもう無料だと思うとどんどん投稿する人がいるから制限をかけているだけでしょう。

「週刊俳句」における党派性、権力性については、私も以前、『関西俳句なう』をめぐってやりとりをしたことがあり、私自身が、人一倍その点を強く批判してきました。http://sorori-tei-zakki.blogspot.com/2015/05/blog-post_3.html
むしろだからこそ、「丸ごとプロデュース」という形で違う視点からの編集・プロデュースを試みたのですが、私の書いた「後記」はお読みいただけたでしょうか。


さてそのうえで、今回の高田獄舎氏の態度で私が不快に思ったのは、「週刊俳句掲載のため対談を申し込んだのにも関わらず週刊俳句以前に自分のブログに掲載した」からです。わかりますか。高田獄舎が自作発表の場を自分で開拓するのは自由です。勝手にすればよろしいし、実際に、勝手にやっている。インターネットはその点、無制限です。週刊俳句にこだわる必要など何もない。
しかし、週刊俳句という媒体掲載を承知しながら、しかも久留島の発言・編集の入った記事を、勝手に公開した。自分ひとりの作品ではありません。他人の記事を勝手に掲載してよいという態度をとる作家を、誰が信じますか。誰がそんな作家の作品を大切に扱いますか。彼は自分で自分の作家としての矜持を踏みにじったのです。私が指摘したのはその点のみです。高田氏は現在、私の主張を受けいれ、ブログでの記事を削除しています。しかし菅原さんはその点をご理解いただけていないようなので再説しておきます。

次に、久留島が高田氏に対談を申し込んだ理由についてですが、確かに私は高田氏の作品を評しておらず、改めて読み直すと対談相手に不誠実な態度だったかもしれません。ただ、高田氏の頭ごなしの否定に対してそのまま応じることが必要かどうか、躊躇った結果あのような態度になったことはお含み置き下さい。
いま読むと特定の語群に頼っている観があり、低迷期の永田耕衣をなぞったような書きぶりに思えますが、「テトラポットに痰くれてやり穢の熱気」などの実体感には見るべき処があるように思います。
正直なところ、高田作品は「インパクトがある」けれども私自身の志向とは違い、私の「関心」は彼の評論スタイル、すなわち「扇情的な行動」にありました。その具体的な内容を知りたかったわけで、対談においてその目的は達せられ、「鴇田俳句への批判」「俳句世間の閉鎖性」への批判が公開されました。当たっている部分もあり、やや的外れとも思う点もあり、賛否は別として議論や考察の契機となったと思います。
高田氏が私に向かって「研究しろ」と浴びせたように、作家であっても作品より言論を評価して悪いはずがありません。私は彼の「言動」に注目し、言論の場を与えた。しかし彼はその機会を自ら投げたのです。
菅原さんが高田獄舎を作家として遇し評価するのはご勝手ですが、今回、彼はそれ以前の幼稚な考えで行動しているように思えました。それは作品評価とは別です。彼が今後作品を発表する機会があるなら、そのとき改めて作品評価に臨みたいと思います。

高田獄舎 さんのコメント...

1、週刊俳句を、資本も組織も運営している人の数も大きくことなる出版社発行の雑誌と同じ次元で扱うのはおかしい。それから、ここで菅原氏が問題にしているのは、週刊俳句のアンソロジー的な「仕組み」の話だ。

2、例のテロリズム的〈横取り〉行動については久留島氏の言う通りで、「基本的に」肯定することはできないものだと私も思う。反省は全くしていないが。

3、〈、高田氏の頭ごなしの否定に対してそのまま応じることが必要かどうか、躊躇った結果あのような態度になったことはお含み置き下さい。〉
これは作品を評さない理由にはなっていないだろう。まあ久留島氏の隠された目的(上に書いてあるけど、対談のまえに教えてほしかったが)を考えれば、彼が無理に評する必要もないんだが。

というか思ったけど、菅原氏のコメントが先に掲載されたのは私のブログ「愚人正機」である(菅原氏は週刊俳句に反映されないから私のブログに送って週刊俳句より先にこちらで公開した)のだが、それがなんで後になって週刊俳句に掲載されているのか、しかも無断で、しかも勝手に(あれ、誰かさんと同じことをやっているね)。週刊俳句のコメント欄に反映させるにしても、私に一言あるべきではないかな? この場合、どっちが〈横取り〉になるのかな?みんなでかんがえましょうw

菅原慎矢 さんのコメント...

久留島さん、高田さん、コメントありがとうございます
自分自身が最近俳句をはじめたばかりの初心者なので、過去のWeb上の論争には勉強になる部分が多いと感じています
後から来る人のため、今回の議論の関係リンクを以下にまとめさせていただきます

この対談に対して(twitter以外で)はじめに反応したのが佐野波布一さんのブログ
http://sanova.site/?eid=283
それに対して久留島さんが反論し、
http://sorori-tei-zakki.blogspot.com/2018/07/blog-post.html
佐野波さんが再反論、久留島さんが再々反論(同一ブログにつきリンク略)したところで、
佐野波さんのamazonレビューが全削除されました。ここら辺の経緯は佐野波さんのブログにあります
他に青本瑞季さんのnoteがあります。
https://note.mu/aomiz/n/nfba473177605
青本さんのように、高田さんの露悪的な姿勢は批判しつつも、島宇宙批判は真摯に受け止める、というのが、(週刊俳句に対してのアンビバレントな姿勢を表明している久留島さんも含めて)多くの人の態度なのかな、と思います。個人的には高田さんの姿勢も芸術家として何ら問題はないと思いますが、この点に関しては、また議論が深められそうな話題が出たときにでも続きをやりましょう。

ただ一点だけ、どうしても気になる点があります。佐野波さんのamazonレビュー削除のきっかけは誰が作ったのでしょうか。久留島さんなのでしょうか。(もし違っていましたら陳謝させていただきます)

久留島元 さんのコメント...

獄舎氏
その後は貴君のブログもあまりチェックしてませんが、お元気でなによりです。
このコメント欄についてはシステムトラブルだそうなので過去の投稿が遅れて反映されているものと理解しています。

菅原氏
島宇宙的性格については、実際のところそれ自体を批判してもあまり意味はなく、その結果生じる批評の低迷やなれ合い、「ではどういう欠点が無視されているか」まで論じなければ批判たりえないと思います。「島宇宙だ」「内輪だ」といえば即悪いことのように思うのは浅慮でしょう(もとより俳句グループは同人誌やいちHPという小さな集まりなので)。その点今回、獄舎氏が「オルガン」を一律に考えることなく、鴇田句と福田句に関し所感を公開する機会となったのはよかったと思います。

レビューしか発表を持たないとブログでのたまっている佐野波布一なる人物の一連の狂乱について、私はAmazon会員でもなく、彼のレビュー削除について一切関知していませんし、するつもりもありません。もとより私一人が動いてどうにかなるはずもありません。以上、誤解のないよう、この点は強く言っておきます。

匿名 さんのコメント...

久留島氏は自分のブログ「曾呂利亭雑記 」2018年7月15日で、
彼の吐いた悪口に対して佐野波布一氏が説明要求をしたところ、

「俳句に対する評価に関してではなく、このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあいは、これきりにしたいと思います。以後、私はこの件について沈黙しますので、ご寛恕願います。」

と書いて、正面きった論争から逃げ出しておきながら、
上記コメントのように当人のいないところで、明らかに悪意を丸出しにした佐野波布一氏への誹謗を行っています。
彼が自分の書いたことに責任を負わず、虚言を弄する人物であるのはもちろん、
裏で敵の足を引っ張ることを厭わない人物でもあることがよくわかるのではないでしょうか。

逃げるなら文句を言うべきではありません。
文句を言うなら逃げるべきではありません。

匿名 さんのコメント...

久留島氏は研究者であるはずですが、客観的な視点がまったく感じられません。
彼が「オルガン」のスポークスマンのような活動をしていることに原因があると思います。
それは上の対談において、
「残っていく人だけが評価に値する「作家」」と語ったそばから、
軽率にも現在形の「作家」である鴇田智哉氏を「最強の文体」などと言ってしまうことを見ても明らかです。
(そもそも「文体」に強い弱いなどありえるのでしょうか。
鴇田の文体に安井浩司や夏石番矢以上のものがあるとしたら、汎用性の高さくらいではないでしょうか。
つまり、誰でも鴇田の真似はできるという点に尽きます)

「多様」という言葉で拙い俳句を肯定できる土壌を作ろうとする態度にも、特定の立場への肩入れを感じます。
このような立場の人が「オルガン」を批判する高田氏との対談企画をしたことには、
いったいどのような意図があったのか、いぶかしく思わざるをえません。
上記の久留島氏のコメントでは、本企画の動機が高田氏の俳句への興味ではなく、「扇情的な行動」にあったことが明かされています。
つまり彼が依存する「オルガン」を批判する人へのゴシップ的な興味であり、
このような動機でなされた企画に生産的なものがあるはずはないと思います。

「オルガン」の俳人を批判した佐野波布一氏への敵意も同様です。
ここで俳人でもない人物が久留島氏に批判されているのは、久留島氏に「オルガン」の批判者を排除したい意図があったことを示しています。
佐野波布一氏のAmazonレビューが全削除されたことを「一連の狂乱」などと久留島氏は書いていますが、
彼一人が狂ったように騒いでいるかのような書き方にも事実を隠蔽する意図しか感じられません。
たとえ千葉雅也氏の抗議が影響して佐野波布一氏のレビューが削除されたにしても、
千葉氏の言論弾圧行為を「オルガン」の俳人たちや関悦史氏がリツイートによって応援したことは周知の事実です。
「オルガン」の俳人が積極的に言論弾圧に関与しているにもかかわらず、それを彼一人の「狂乱」としてすまそうとするのは、
久留島氏が敵味方の二分法によって、肩入れする「オルガン」の行為を免罪したかったからとしか感じられません。
島宇宙に住んでいるのは、他ならぬ久留島氏だと感じた次第です。
雑文失礼いたしました。

桑名 さんのコメント...

島宇宙化の問題としては、外部からの批判に対して過度に防衛的になり、批判の内容に基づく議論すらせずに排除するようになることでしょうね。
で、まさにそれが起こっているのではないかというのが一連の問題提起でありましょう。