tag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post1089281495343394714..comments2024-03-25T12:03:13.555+09:00Comments on 週刊俳句 Haiku Weekly: 愚人正機 高田獄舎は何が気に入らないのか 高田獄舎✕久留島元Unknownnoreply@blogger.comBlogger8125tag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-61831497418806783682018-08-18T11:47:19.061+09:002018-08-18T11:47:19.061+09:00島宇宙化の問題としては、外部からの批判に対して過度に防衛的になり、批判の内容に基づく議論すらせずに排...島宇宙化の問題としては、外部からの批判に対して過度に防衛的になり、批判の内容に基づく議論すらせずに排除するようになることでしょうね。<br />で、まさにそれが起こっているのではないかというのが一連の問題提起でありましょう。桑名https://www.blogger.com/profile/14554578244765896616noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-29548372915397075672018-08-16T00:26:45.826+09:002018-08-16T00:26:45.826+09:00久留島氏は研究者であるはずですが、客観的な視点がまったく感じられません。
彼が「オルガン」のスポーク...久留島氏は研究者であるはずですが、客観的な視点がまったく感じられません。<br />彼が「オルガン」のスポークスマンのような活動をしていることに原因があると思います。<br />それは上の対談において、<br />「残っていく人だけが評価に値する「作家」」と語ったそばから、<br />軽率にも現在形の「作家」である鴇田智哉氏を「最強の文体」などと言ってしまうことを見ても明らかです。<br />(そもそも「文体」に強い弱いなどありえるのでしょうか。<br />鴇田の文体に安井浩司や夏石番矢以上のものがあるとしたら、汎用性の高さくらいではないでしょうか。<br />つまり、誰でも鴇田の真似はできるという点に尽きます)<br /><br />「多様」という言葉で拙い俳句を肯定できる土壌を作ろうとする態度にも、特定の立場への肩入れを感じます。<br />このような立場の人が「オルガン」を批判する高田氏との対談企画をしたことには、<br />いったいどのような意図があったのか、いぶかしく思わざるをえません。<br />上記の久留島氏のコメントでは、本企画の動機が高田氏の俳句への興味ではなく、「扇情的な行動」にあったことが明かされています。<br />つまり彼が依存する「オルガン」を批判する人へのゴシップ的な興味であり、<br />このような動機でなされた企画に生産的なものがあるはずはないと思います。<br /><br />「オルガン」の俳人を批判した佐野波布一氏への敵意も同様です。<br />ここで俳人でもない人物が久留島氏に批判されているのは、久留島氏に「オルガン」の批判者を排除したい意図があったことを示しています。<br />佐野波布一氏のAmazonレビューが全削除されたことを「一連の狂乱」などと久留島氏は書いていますが、<br />彼一人が狂ったように騒いでいるかのような書き方にも事実を隠蔽する意図しか感じられません。<br />たとえ千葉雅也氏の抗議が影響して佐野波布一氏のレビューが削除されたにしても、<br />千葉氏の言論弾圧行為を「オルガン」の俳人たちや関悦史氏がリツイートによって応援したことは周知の事実です。<br />「オルガン」の俳人が積極的に言論弾圧に関与しているにもかかわらず、それを彼一人の「狂乱」としてすまそうとするのは、<br />久留島氏が敵味方の二分法によって、肩入れする「オルガン」の行為を免罪したかったからとしか感じられません。<br />島宇宙に住んでいるのは、他ならぬ久留島氏だと感じた次第です。<br />雑文失礼いたしました。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-57915711349409663832018-08-12T08:46:19.567+09:002018-08-12T08:46:19.567+09:00久留島氏は自分のブログ「曾呂利亭雑記 」2018年7月15日で、
彼の吐いた悪口に対して佐野波布一氏...久留島氏は自分のブログ「曾呂利亭雑記 」2018年7月15日で、<br />彼の吐いた悪口に対して佐野波布一氏が説明要求をしたところ、<br /><br />「俳句に対する評価に関してではなく、このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあいは、これきりにしたいと思います。以後、私はこの件について沈黙しますので、ご寛恕願います。」<br /><br />と書いて、正面きった論争から逃げ出しておきながら、<br />上記コメントのように当人のいないところで、明らかに悪意を丸出しにした佐野波布一氏への誹謗を行っています。<br />彼が自分の書いたことに責任を負わず、虚言を弄する人物であるのはもちろん、<br />裏で敵の足を引っ張ることを厭わない人物でもあることがよくわかるのではないでしょうか。<br /><br />逃げるなら文句を言うべきではありません。<br />文句を言うなら逃げるべきではありません。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-59090990534583846332018-08-10T19:41:10.690+09:002018-08-10T19:41:10.690+09:00獄舎氏
その後は貴君のブログもあまりチェックしてませんが、お元気でなによりです。
このコメント欄につ...獄舎氏<br />その後は貴君のブログもあまりチェックしてませんが、お元気でなによりです。<br />このコメント欄についてはシステムトラブルだそうなので過去の投稿が遅れて反映されているものと理解しています。<br /><br />菅原氏<br />島宇宙的性格については、実際のところそれ自体を批判してもあまり意味はなく、その結果生じる批評の低迷やなれ合い、「ではどういう欠点が無視されているか」まで論じなければ批判たりえないと思います。「島宇宙だ」「内輪だ」といえば即悪いことのように思うのは浅慮でしょう(もとより俳句グループは同人誌やいちHPという小さな集まりなので)。その点今回、獄舎氏が「オルガン」を一律に考えることなく、鴇田句と福田句に関し所感を公開する機会となったのはよかったと思います。<br /><br />レビューしか発表を持たないとブログでのたまっている佐野波布一なる人物の一連の狂乱について、私はAmazon会員でもなく、彼のレビュー削除について一切関知していませんし、するつもりもありません。もとより私一人が動いてどうにかなるはずもありません。以上、誤解のないよう、この点は強く言っておきます。久留島元http://sorori-tei-zakki.blogspot.comnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-58608308357456770932018-08-10T13:11:15.605+09:002018-08-10T13:11:15.605+09:00久留島さん、高田さん、コメントありがとうございます
自分自身が最近俳句をはじめたばかりの初心者なので...久留島さん、高田さん、コメントありがとうございます<br />自分自身が最近俳句をはじめたばかりの初心者なので、過去のWeb上の論争には勉強になる部分が多いと感じています<br />後から来る人のため、今回の議論の関係リンクを以下にまとめさせていただきます<br /><br />この対談に対して(twitter以外で)はじめに反応したのが佐野波布一さんのブログ<br />http://sanova.site/?eid=283<br />それに対して久留島さんが反論し、<br />http://sorori-tei-zakki.blogspot.com/2018/07/blog-post.html<br />佐野波さんが再反論、久留島さんが再々反論(同一ブログにつきリンク略)したところで、<br />佐野波さんのamazonレビューが全削除されました。ここら辺の経緯は佐野波さんのブログにあります<br />他に青本瑞季さんのnoteがあります。<br />https://note.mu/aomiz/n/nfba473177605<br />青本さんのように、高田さんの露悪的な姿勢は批判しつつも、島宇宙批判は真摯に受け止める、というのが、(週刊俳句に対してのアンビバレントな姿勢を表明している久留島さんも含めて)多くの人の態度なのかな、と思います。個人的には高田さんの姿勢も芸術家として何ら問題はないと思いますが、この点に関しては、また議論が深められそうな話題が出たときにでも続きをやりましょう。<br /><br />ただ一点だけ、どうしても気になる点があります。佐野波さんのamazonレビュー削除のきっかけは誰が作ったのでしょうか。久留島さんなのでしょうか。(もし違っていましたら陳謝させていただきます)菅原慎矢noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-20416442216604346342018-08-10T01:13:03.395+09:002018-08-10T01:13:03.395+09:001、週刊俳句を、資本も組織も運営している人の数も大きくことなる出版社発行の雑誌と同じ次元で扱うのはお...1、週刊俳句を、資本も組織も運営している人の数も大きくことなる出版社発行の雑誌と同じ次元で扱うのはおかしい。それから、ここで菅原氏が問題にしているのは、週刊俳句のアンソロジー的な「仕組み」の話だ。<br /><br />2、例のテロリズム的〈横取り〉行動については久留島氏の言う通りで、「基本的に」肯定することはできないものだと私も思う。反省は全くしていないが。<br /><br />3、〈、高田氏の頭ごなしの否定に対してそのまま応じることが必要かどうか、躊躇った結果あのような態度になったことはお含み置き下さい。〉<br />これは作品を評さない理由にはなっていないだろう。まあ久留島氏の隠された目的(上に書いてあるけど、対談のまえに教えてほしかったが)を考えれば、彼が無理に評する必要もないんだが。<br /><br />というか思ったけど、菅原氏のコメントが先に掲載されたのは私のブログ「愚人正機」である(菅原氏は週刊俳句に反映されないから私のブログに送って週刊俳句より先にこちらで公開した)のだが、それがなんで後になって週刊俳句に掲載されているのか、しかも無断で、しかも勝手に(あれ、誰かさんと同じことをやっているね)。週刊俳句のコメント欄に反映させるにしても、私に一言あるべきではないかな? この場合、どっちが〈横取り〉になるのかな?みんなでかんがえましょうw高田獄舎noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-26293543425460711052018-08-09T00:32:55.961+09:002018-08-09T00:32:55.961+09:00コメント欄のトラブルがあったようで、気づくのが遅くなり失礼しました。
かなり時宜を逸しましたが、コメ...コメント欄のトラブルがあったようで、気づくのが遅くなり失礼しました。<br />かなり時宜を逸しましたが、コメントいただき恐縮です。一部「週刊俳句」に対するご意見なのか、今回の編集を担当した久留島に対するご意見のか、対談に対するご意見か、わかりかねましたが、お答えできる範囲でお答えします。<br /><br />「週刊俳句」が一種のアンソロジーだというのは意外なご意見ですが、それなら全ての雑誌はそうなのではありませんか。ともに「編集の力を楽しむ」読み物ではありますが、ふつう、雑誌はアンソロジーとは呼びませんし、また、雑誌の編集権はすべてクリアに、透明になっていることはありえません。<br />角川俳句の特集でだれが起用されるか、巻頭が宇多喜代子か鷹羽狩行か、それは角川の編集会議に入らないとわからないでしょうし、編集部が編集会議のすべてを読者にさらすような義務もありません。<br />さらにいえば「週刊俳句」は「記事の募集」を常に掲げており、その点、圧倒的に透明です。作品募集はありませんが、これはもう無料だと思うとどんどん投稿する人がいるから制限をかけているだけでしょう。<br /><br />「週刊俳句」における党派性、権力性については、私も以前、『関西俳句なう』をめぐってやりとりをしたことがあり、私自身が、人一倍その点を強く批判してきました。http://sorori-tei-zakki.blogspot.com/2015/05/blog-post_3.html<br />むしろだからこそ、「丸ごとプロデュース」という形で違う視点からの編集・プロデュースを試みたのですが、私の書いた「後記」はお読みいただけたでしょうか。<br /><br /><br />さてそのうえで、今回の高田獄舎氏の態度で私が不快に思ったのは、「週刊俳句掲載のため対談を申し込んだのにも関わらず週刊俳句以前に自分のブログに掲載した」からです。わかりますか。高田獄舎が自作発表の場を自分で開拓するのは自由です。勝手にすればよろしいし、実際に、勝手にやっている。インターネットはその点、無制限です。週刊俳句にこだわる必要など何もない。<br />しかし、週刊俳句という媒体掲載を承知しながら、しかも久留島の発言・編集の入った記事を、勝手に公開した。自分ひとりの作品ではありません。他人の記事を勝手に掲載してよいという態度をとる作家を、誰が信じますか。誰がそんな作家の作品を大切に扱いますか。彼は自分で自分の作家としての矜持を踏みにじったのです。私が指摘したのはその点のみです。高田氏は現在、私の主張を受けいれ、ブログでの記事を削除しています。しかし菅原さんはその点をご理解いただけていないようなので再説しておきます。<br /><br />次に、久留島が高田氏に対談を申し込んだ理由についてですが、確かに私は高田氏の作品を評しておらず、改めて読み直すと対談相手に不誠実な態度だったかもしれません。ただ、高田氏の頭ごなしの否定に対してそのまま応じることが必要かどうか、躊躇った結果あのような態度になったことはお含み置き下さい。<br />いま読むと特定の語群に頼っている観があり、低迷期の永田耕衣をなぞったような書きぶりに思えますが、「テトラポットに痰くれてやり穢の熱気」などの実体感には見るべき処があるように思います。<br />正直なところ、高田作品は「インパクトがある」けれども私自身の志向とは違い、私の「関心」は彼の評論スタイル、すなわち「扇情的な行動」にありました。その具体的な内容を知りたかったわけで、対談においてその目的は達せられ、「鴇田俳句への批判」「俳句世間の閉鎖性」への批判が公開されました。当たっている部分もあり、やや的外れとも思う点もあり、賛否は別として議論や考察の契機となったと思います。<br />高田氏が私に向かって「研究しろ」と浴びせたように、作家であっても作品より言論を評価して悪いはずがありません。私は彼の「言動」に注目し、言論の場を与えた。しかし彼はその機会を自ら投げたのです。<br />菅原さんが高田獄舎を作家として遇し評価するのはご勝手ですが、今回、彼はそれ以前の幼稚な考えで行動しているように思えました。それは作品評価とは別です。彼が今後作品を発表する機会があるなら、そのとき改めて作品評価に臨みたいと思います。久留島元http://sorori-tei-zakki.blogspot.comnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-17920569546688588922018-07-17T05:13:41.441+09:002018-07-17T05:13:41.441+09:00いち早くオンラインに対応し、既存の総合誌とは段違いのフットワークの軽さを誇ってきた「週刊俳句」は、2...いち早くオンラインに対応し、既存の総合誌とは段違いのフットワークの軽さを誇ってきた「週刊俳句」は、2000年代以降の俳句界に強いインパクトを与えてきた。結社誌・同人誌による縦割り関係が張り巡らされている俳句界において、掲載作品に明確な方向性をあえて出さなかったことが、結社等への所属意識の薄い若手を中心とする広範なネットワーク形成に重要な役割を果たしてきたことは、否定のしようがない週刊俳句の貢献であろう。一方で、週刊俳句の編集方針には不明点もある。具体的には、掲載俳句作品については編集部(西原天気氏と上田信治氏が中心という認識で良いだろうか)の依頼によるという形態の不透明さである。この点に対する忌避感こそが、高田氏の行動の背景にあるのではないか。<br><br />換言すれば、週刊俳句とは、編集部が掲載作家を選ぶという点で、俳句アンソロジーと類似した場と言って良いだろう。こう考えると、たとえば明確に個人名義で「天の川銀河発電所」を編纂した佐藤文香氏の覚悟ある立ち位置と比べて、週刊俳句編集部のポジショニングは曖昧である。今回の件では、西原氏が下記のツイッターコメントを残している「道義ってものを理解できないお子ちゃまを相手にしちゃダメってことです。これ、なんにでも言えることだから、メモね。」望んだものではないかもしれないが、アンソロジー編集者には権力が付与されてしまう。そのことに対する自覚はあるのだろうか。権力側がこのような不用意な言葉遣いをしていることに、筆者としては不快感を抱く。<br><br />一方で、高田氏の行動を考えてみよう。最先端を走る芸術家にとって、無理解な既存の枠組みを逃れ、自由な自作発表の場を得ることは不可避の闘いである。官展への批判から生まれたアンデパンダン展がなければ、現代美術はどれほど不毛なものになっていただろう。今回の高田氏の行動には、現状の場を否定し、新たな場を模索する明確な闘争意識が見られ、筆者はこれを無条件に支持する。この点が見えずに高田氏を批判している人は、すでに週刊俳句編集部に認められて、権力の内部に取り込まれているのではないだろうか。いったん自問してみて欲しい。<br><br />対談の内容について付記すると、久留島氏が高田獄舎作品に対して自らの評価を下していないことが目に付いた。実作者との対談である以上、まずは無心に作品に対峙することが、評論家としてあるべき姿勢なのではないだろうか。高田氏は、言葉の強烈さから来る好悪の別はあっても、現在まず議論されるべき作品を残している作者であるだろう。先日行われた芝不器男賞シンポジウムでも、彼の代表作とされる「コンビニの世紀コンビニで母殺され」について、そのメッセージ性の浅さを表健太郎氏と私が批判し、松本てふ子氏・田中惣一郎氏が弁護するという不思議な図が展開されていた。作品でインパクトを残しつつある実作者としての高田氏に向き合わず、扇動的な行動のみをクローズアップした対談を行うことには、どのような意味(意図)があったのだろうか。菅原慎矢(第五回芝不器男賞齋藤愼爾奨励賞)noreply@blogger.com