tag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post842777679893199161..comments2024-03-25T12:03:13.555+09:00Comments on 週刊俳句 Haiku Weekly: 【句集を読む】文彩は快楽ぞ、ゆめ溺るな 岡田一実『記憶における沼とその他の在処』 堀下翔Unknownnoreply@blogger.comBlogger7125tag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-89300923194326201772018-10-15T13:40:32.197+09:002018-10-15T13:40:32.197+09:00三島さん、きかさん
再度のお返事ありがとうございます。
三島さん>私と三島さんとの間には『記憶沼...三島さん、きかさん<br /><br />再度のお返事ありがとうございます。<br /><br />三島さん>私と三島さんとの間には『記憶沼』が〈ある水準に達している句集〉かどうかという認識が大きく異なると思しく、〈ある水準に達している句集〉であるという前提に立った三島さんの反論には応えにくいという思いがあります。〈下手くそだからそうなのかというと、もちろんそうではなく、作者の旺盛な俳句的冒険によって既成の表現から一歩も二歩も踏み出して「こなれない」〉とのことですが、既成の表現から踏み出して言語を異化することの効果は私とて承知していますし、芭蕉の例には肯じます。しかし、『記憶沼』のすべての句がそれに成功しているとは思いがたいということです。異化の手さばきが無遠慮な句集という印象を私はぬぐうことができません。ただし「人知れず不明を恥じ」る謙虚さに欠けているというご批判は、今後も含めた文章の執筆態度の問題として、甘んじて受けようと思います。仰ってくださりありがとうございます。<br /><br />きかさん>〈「浮く」という語彙である時点で「を」を使うのに文法上の支障を感じない〉とのこと、私の認識としては正確には「海を浮く島」という表現がありうるのかという点ですが、とまれ、これを許容する言語感覚があるのかと知り、いささか勇み足であったと恥じるばかりです。なぜこれがありうるのかということは、今後も日本語に触れながら考えていこうと思います。<br /><br />かさねがさね、コメントありがとうございました。<br />horishitahttps://www.blogger.com/profile/12936668868616686490noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-36253283464451910412018-10-14T23:07:42.378+09:002018-10-14T23:07:42.378+09:00翔さん、ご返事感謝。
まず、私が重要だと思うのは、「浮く」という語彙である時点で「を」を使うのに文...翔さん、ご返事感謝。<br /><br />まず、私が重要だと思うのは、「浮く」という語彙である時点で「を」を使うのに文法上の支障を感じない事です。移動を示唆する言葉ですから。科学的にどうだの、喩だの、絵だの、そういう事とは関係ないと思います。(「を」が最適かどうかという問題とは別です)<br /><br />第二に、「比喩であることを明示する表現が句中になければ解釈が困難に陥る」と書かれている点ですが、「に」でも「を」でも、島が科学的に「浮く」ことはないので(翔さん曰く「島はたゆたいませんから」)、島が「浮く」とあれば喩か絵かなのは(とりあえず、科学的に浮いているなどと主張していないことは)明快だと思います。すなわち、島が「浮く」とあればそのままの科学的な意味でないのは、大半の読者に伝わると思います。(句は酷くなりますが)「海を浮く」でなく「空を飛ぶ」でも、比喩である事を明示する表現は要らないと思います。なお、喩か絵かどちらかという問題は残りますが、私はどちらでも良いと思います(喩の方が壮大で好きですが)。<br /><br />ですから、これらの点では「こなれない表現」だとは思いません。その上で、「を」がよいのか、「に」がよいのか、それとも別の表現がよいのか、という問題になります。私が同じ内容を句にするなら別の表現をとるでしょうが、それは翔さんが挙げられた理由で「こなれない表現」だと思ったからではありません。<br /><br />私自身は三島さんが怒っていた理由とは無関係に、翔さんのこの句の解釈で気になったので(「を」と使ったこと自体はそんなに「こなれていない表現」ではないと弁護したかったので)コメントした次第です。もちろん、貴見は尊重しております。また、貴文章は全体的には面白く読めましたし、勉強にもなりました。<br /><br />三島さんが怒っていた理由については、(私も)翔さんにしてはやや不用意な書き方だと思いましたが、その点については、お二人の間で話が進んだようですので、私が付け加えることはないです。<br /><br />お二人とはまたリアルでお目にかかりたく。<br />よき一週間をお過ごしください。きかhttps://www.blogger.com/profile/14548462455291600619noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-39570485308858794872018-10-14T19:20:43.121+09:002018-10-14T19:20:43.121+09:00 お返事ありがとうございます。逐語的に反応してもすれ違いになりそうなので、自分のことばで返信します。... お返事ありがとうございます。逐語的に反応してもすれ違いになりそうなので、自分のことばで返信します。「こなれない」というならこの句集は巻頭の一句目からそうとう変です。<br /> <br /> 火蛾は火に裸婦は素描に影となる 一実<br /><br /> 対句であり同じ結語に着地しながらも「火蛾は火に/影となる」と「裸婦は素描に/影となる」とで「影となる」のありようが全然違う、という…。それが、じゃあ、下手くそだからそうなのかというと、もちろんそうではなく、作者の旺盛な俳句的冒険によって既成の表現から一歩も二歩も踏み出して「こなれない」のですから、私だったらこれはもう断然、作者に付き合います。俳句の表現というのは練り上げたら、こなれるものなのでしょうか。本句集の場合、作者が積極的にこなれないように練り上げているような気がします。<br /> 動詞によって、直前の助詞として「を」を取り得なかったり、「に」を取り得なかったりすることは、ふつうの日本語として承知しています。が、ことは俳句です。いくつかの句で作者は意図的に「を」と「に」をあえて取り替えるようなやり方で、言い尽くせないなにかを表現しようとしています。「海を浮く破墨の島や梅実る」もそんな一句です。芭蕉が倒装法で「鐘消えて花の香は撞く夕べかな」や「海暮れて鴨の声ほのかに白し」をものしたときに通ずる気合いをそこに感じます。芭蕉が「花の香は消えて鐘撞く夕べかな」ではなくあえて「鐘消えて花の香は撞く夕べかな」と詠んだように、「海に浮く破墨の島や梅実る」ではただの叙述に過ぎないと、あえて「海を浮く破墨の島や梅実る」としたのではないか。それは、俳句的な逸脱ですから、もはや日国に載っているとか載っていないとか、そういうステージではありません。作者にとってと同様、読者にとってもこれまでの経験を総動員しないと説明しようのない何かです。それをあえて説明したのが、4:22のコメントです。単に空間的な位置関係から逸脱した浮遊感。そこに私は時間的な浮遊感を感じ取りました。<br /><br /> ある水準に達している句集について、もし自分の読解が及ばなければ、私なら「納得できない」とその句を批判するのではなく、まず人知れず不明を恥じます。「同じ認識を持った読者からは私の眼が疑われます」という自信と沽券が入り交じった複雑な危機感は持ち合わせていません。今まさに繰り返し読んでいる大好きな句集の中の句が、「日本語の用法としては疑問が残る、こなれない表現は、多からぬ割合ではあるが散見される」と、ばさばさ斬られて行くのが偲びなくコメントさせて頂いたのが、発端です。失礼致しました。三島ゆかりhttps://www.blogger.com/profile/12968538118319981226noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-26941332577552781792018-10-14T16:29:47.912+09:002018-10-14T16:29:47.912+09:00三島さま、きかさま。
コメントありがとうございます。
まず争点にある〈海を浮く破墨の島や梅実る〉...三島さま、きかさま。<br /><br />コメントありがとうございます。<br /><br />まず争点にある〈海を浮く破墨の島や梅実る〉(一実)の解釈について確認です。三島説では「破墨の島」を水墨画中の「島」と理解し、きか説では隠喩と理解し、大元の私の文章においては、どちらか確定できないため確定はせず、という立場でした。三島説は〈単なる空間把握ではなく、描かれたときからそうあり続けた眼前の水墨画の歴史さえも、この「を」は静かに奥深く表現しているように感じました。時間の経過は「梅実る」という季語の選択にも響き合っています〉とのことで、「空間」と「歴史」(時間)との両方を表明するのが「を」である、ということかと思います。「梅実る」の位置は、水墨画の近くで、という光景ということでよろしいでしょうか。一方きか説の場合、現実の島と解釈することによって「海」の動きに対して「を」がありうるのだ、との主旨だと理解しました。<br /><br />三島説の場合、「空間把握」として「海を浮く」が成立する根拠が不明瞭です。きかさんのように語に即した解説をお願いいたしたいところです。また「歴史」(時間)の表現としての役割も「を」は果たしているのだ、という点についてですが、たしかに格助詞「を」には時間の経過を表す用法があります。しかしそれは、<br /><br />*万葉集〔8C後〕一〇・二一三九「ぬばたまの夜渡る雁はおほほしく幾夜乎(ヲ)経てかおのが名を告る〈作者未詳〉」<br />*源氏物語〔1001〜14頃〕須磨「はかばかしうものをものたまひあはすべき人しなければ、知らぬ国の心地して、いと埋れいたく、いかで年月を過ぐさましと思しやらる」<br /><br />における「夜」「月日」のように、時間に関わる体言を受ける場合のことではないでしょうか。あるいは、日国で「移動動作が成り立つ空間的な状況や周りの状況を表わす」と定義づけられる用法において、その移動に掛った時間を、読者側が感じ取るということは可能かもしれません。やはり、「空間把握」の「を」の用法として「海が浮く」がありうるのだという根拠を知りたいです。そのうえで再検討したいと思います。<br /><br />きか説においては「浮く」が持つ不定的なニュアンスが一つの論点になっていました。〈「浮く」になぜか「とどまっている」という元来無いニュアンスを覚え〉とのことですが、私のこの解釈には、「浮く」に時制や相が差し挟まれていないという点が大きく関わっています。日本語の用言に時制や相が付属していない場合、それが恒常的なものであるという意味になることがあります。この性質が見える古語を現代語に訳す際、「~シテイル」と表現することが多々あるわけです。なお「浮く」にはおっしゃる通り不定的のニュアンスがありますが、このニュアンスを含まない、「物事が奥底の方から表面に出てくる。また、ある基準より上の状態にいく」(日国「浮く」[二])の用法があります。この語義をとってきかさんご指摘の通り科学的に理解したのが私の訳出です。律儀に訳すと「島が海面に出てきている」になりますが、私の文章自体の文脈上、「出てきている」を「とどまっている」と意訳したという次第です。それほど畏まった文章ではないので大丈夫だろうという判断ですが、いささか筆が滑ったのは事実かもしれません。この点についてはお詫びし、辞書的な訳出である「島が海面に出てきている」に訂正したいと思います。なお、この語義で解釈する場合、「島」が現実であろうと水墨画であろうと問題ないというのは確認させていただきます。<br /><br />もう一点きか説について、前後が逆転してしまいましたが、〈2その「動いている」説を支持しているのが「を」であり、その動きを効果的にしているのが「破墨」の喩。つまり、「を」であるからこそ、動きを一層感じなくてはならない〉という、「を」がありうるという根拠の部分について触れます。この解釈では「浮く」が〈ぐらつき、たゆたっている(ように見える)イメージ〉と位置付けられていますが、いみじくも〈(ようにみえる)〉という表現をお取りになっている通り、島はたゆたいませんから、比喩であることを明示する表現が句中になければ解釈が困難に陥ると思います。むろん、隠喩という可能性はあるわけですが、私の文章が話題にしているのは「こなれない表現」についてですから、伝達性の低い比喩は「こなれない」の部類に入るでしょう。ただしこれは個々の言語感覚や詩歌の解釈の技量の差異にすぎませんから、私はそう判断する、と申し上げるのみです。きかさんの解釈はありうべきものとして当然尊重します。<br /><br />また三島さんの二つ目のご投稿にある〈淑気満つ球と接する一点に〉の解釈についてです。〈例えば初日の出がまさに水平線から顔を出さんとする荘厳な瞬間、そのとき観るものの意識において淑気がどこにあるか…〉とのことで、初日の出という光景を想定しなかったのはお恥ずかしい限りですが、この解釈において「満つ」がいかなる光景として解釈されているのかいまひとつわかりません。「意識」の中で、すなわち感覚的に「淑気満つ」という感慨を得たということでしょうか? この解釈が〈「に」がふさわしい想定〉であるところの理由、すなわち「一点に満つ」という言い方が成立する理由も判然としません。<br /><br />長々と書いてしまいましたが、三島さんがおっしゃりたかったのは、むしろ〈練り上げられた句集中の作品に対し「つまらない言葉遣い」として一蹴することなど到底できません〉〈「俺に理解できない句は作った奴が悪い」と言っているようにしか見えません。「ゆめ溺るな」という上から目線の態度で句に接していて楽しいのでしょうか〉という、私の文章の態度の問題ではないかと思います。これは誤解です。「俺に理解できない句は作った奴が悪い」とは深読みが過ぎるのではないでしょうか。また、『記憶沼』を〈練り上げられた句集〉とは言い切れないという私の認識は、ご理解いただけなかったでしょうか。<br /><br />宗田理の『ぼくらの七日間戦争』には、教師が「鉄は熱いうちに打て」を「鉄は熱いうちに叩け」と言って読者の失笑を誘うシーンがあったかと思います。日本語には、長い歴史の中で培われてきた語と語の慣用的なつながりがあります。自立語同士の結びつきや、ある自立語に対してどの付属語がありうるのか、といったつながりです。件の二例はこの点において「こなれない」と私が判断したものです。判断の妥当性については、諸々の辞書や索引類を手掛かりに万全を期したつもりです(このコメントがそうであるように、反論に応じないというものでもありません)。むろん、こなれていなければ誤りというつもりは全くありません。私は文中に一度も「誤り」であると断言はしていないはずです。ただ、こなれているかどうかです。加藤郁乎のごとく、日本語の用法を破壊することで詩化を図ろうとするタイプならこのような形の句集評は書きませんが、句集を通読する限り、岡田さんはそのタイプの作家ではなくむしろ、既存の文彩技術を現代俳句に活かそうとする、温故知新の志向があるように見受けたので、その価値観に寄り添って草しました。<br /><br />〈「ゆめ溺るな」という上から目線の態度で句に接していて楽しいのでしょうか〉とのことですが、楽しかろうはずはありません。しかしこの句集評において、文彩技術の高さを指摘するにあたって、それが成功している句だけを取り上げたとしたら、私にとって納得のできない句がある以上、同じ認識を持った読者からは私の眼が疑われます。納得のできない句を取り上げないとすれば、句集評自体の発表を控えることになります。それには惜しい句集だったということです。<br /><br />ただし、仰る通り表題は「上から目線」と取られてしかたのないものだったかもしれません。「溺れ」ていない句を鑑賞する都合上、それに対置されうる「溺れ」ている句の存在を示唆するというのが本文の構成ですが、表題を額面通りに取れば「溺れ」ている句をあげつらうような意図に見えます。熟慮が及ばずお恥ずかしいです。「つまらない」についても同様です。これは「面白い句」との対句として出てきた言葉ですが、つまり比喩的な言い回しですが、額面通りの意味がおろそかになっていました。<br /><br />以上雑駁ながら申し上げます。もし回答に漏れたご指摘がございましたらすみません。<br />horishitahttps://www.blogger.com/profile/12936668868616686490noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-44227050487764448892018-10-14T13:11:45.321+09:002018-10-14T13:11:45.321+09:00きかさん、ありがとうございます。きかさんの読みと私の読みは「破墨」を喩として捉えるか本当に水墨画を見...きかさん、ありがとうございます。きかさんの読みと私の読みは「破墨」を喩として捉えるか本当に水墨画を見ているものとして捉えるのかで大きな違いはありますが、いずれにしても作品に書かれた通り読もうとしていることには変わりありません。<br /><br /> 現実社会での堀下翔さんと岡田一実さんの交流関係がどのようなものかは私は知りません。もしかすると思ったことをズバズバ言い合える関係なのかも知れませんが、堀下さんの記事だけ読むと「俺に理解できない句は作った奴が悪い」と言っているようにしか見えません。「ゆめ溺るな」という上から目線の態度で句に接していて楽しいのでしょうか。<br /> 「淑気満つ球と接する一点に」について「高く上がった何かのスポーツのボールだけが空にある気持ちのよい絵面」という想定で「に」について指摘されていますが、「に」がふさわしい想定をご自分で想像をめぐらしたりしないのでしょうか。例えば初日の出がまさに水平線から顔を出さんとする荘厳な瞬間、そのとき観るものの意識において淑気がどこにあるか…。そういう「に」がふさわしい光景を句から読み取ろうとしないのでしょうか。<br /><br />などと感じました、僭越ながら。三島ゆかりhttps://www.blogger.com/profile/12968538118319981226noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-91904655230865114792018-10-14T09:58:38.202+09:002018-10-14T09:58:38.202+09:00「海を浮く破墨の島や梅実る」という句の解釈が問題になっていますが、私の解釈も翔さんとは少し違います。...「海を浮く破墨の島や梅実る」という句の解釈が問題になっていますが、私の解釈も翔さんとは少し違います。以下、この句の良し悪しでなく、解釈上のポイントです。<br />1)「浮く」を「浮きあがってとどまっている」と解釈しているのが先ず問題。デジタル大辞泉にも「物が底や地面などから離れて水面や空中などに存在する」以外に「しっかり固定しない状態になる。落ち着かず、ぐらつく」「心がうわついている」という意味が載っているように、「浮く」に「とどまっている」ニュアンスは基本的にない。浮遊、浮動という言葉があるくらい。たゆたっていたり、ただよっていたりするニュアンス。海だから、なおさら。島そのものが大海原の波の上に移動し、ぐらつき、たゆたっている(ように見える)イメージを受ける。とど(止/留)まるのと反対。<br />2)そして、その「動いている」説を支持しているのが「を」であり、その動きを効果的にしているのが「破墨」の喩。つまり、「を」であるからこそ、動きを一層感じなくてはならない。<br />3)逆に、島を一か所に固定されたものとする科学的観点でこの句を解釈しようとすると、「浮く」になぜか「とどまっている」という元来無いニュアンスを覚え、「を」でなく「に」であるべきだと感じてしまうのだろう。これは解釈として疑問。<br />4)また、「浮く」であって「浮かぶ」でないところもポイント。どちらも揺蕩うイメージがある上、辞書にあるように「浮く」は「浮力などが働いて底や地面から離れて上へ移動することに表現の重点があ」って、「移動」要素が強い語彙であることにも注目。きかhttps://www.blogger.com/profile/14548462455291600619noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-6325915141711411690.post-26171596161327786162018-10-14T04:22:19.964+09:002018-10-14T04:22:19.964+09:00「海を浮く破墨の島や梅実る」の「を」ですが、何故「海に浮く」ではなくあえて日常聞かぬ「海を浮く」とい...「海を浮く破墨の島や梅実る」の「を」ですが、何故「海に浮く」ではなくあえて日常聞かぬ「海を浮く」という措辞を作者が選択したのかを読むのが鑑賞というものではないでしょうか。たった一音の助詞の違いですが、舌頭千転周到な選択により、単なる空間把握ではなく、描かれたときからそうあり続けた眼前の水墨画の歴史さえも、この「を」は静かに奥深く表現しているように感じました。時間の経過は「梅実る」という季語の選択にも響き合っています。<br /><br /> 私には、句会ならいざ知らず、練り上げられた句集中の作品に対し「つまらない言葉遣い」として一蹴することなど到底できません。三島ゆかりhttps://www.blogger.com/profile/12968538118319981226noreply@blogger.com