吉岡実の詩における無気味な言語 ……佐原怜
吉岡実(1919〜1990)の詩を読むことは、ある種独特な体験である。私は吉岡の詩を読むといつもそこにスリルを感じるのだが、いざ彼の詩について語ろうとすると困難が生ずる。その理由は何だろうか。
本論では、吉岡実の詩を幾つかとりあげながら、彼の詩、そしてその言語の特質について簡単に論じてみたいと思う。
まずは吉岡実の第一詩集『静物』(1955)から一篇、「過去」を引用したい。「静物」とは言うまでもなく、花や果物や器物などを描いた絵画のこと。
過去
その男はまずほそいくびから料理衣を垂らす
その男には意志がないように過去もない
鋭利な刃物を片手にさげて歩き出す
その男のみひらかれた眼の隅へ走りすぎる蟻の一列
刃物の両面で照らされては床の塵の類はざわざわしはじめる
もし料理されるものが
一個の便器であっても恐らく
その物体は絶叫するだろう
ただちに窓から太陽へ血をながすだろう
いまその男をしずかに待受けるもの
その男に欠けた
過去を与えるもの
台のうえにうごかぬ赤えいが置かれて在る
斑のある大きなぬるぬるの背中
尾は深く地階へまで垂れているようだ
その向うは冬の雨の屋根ばかり
その男はすばやく料理衣のうでをまくり
赤えいの生身の腹へ刃物を突き入れる
手応えがない
殺戮において
反応のないことは
手がよごれないということは恐しいことなのだ
だがその男は少しずつ力を入れて膜のような空間をひき裂いてゆく
吐きだされるもののない暗い深度
ときどき現われてはうすれてゆく星
仕事が終るとその男はかべから帽子をはずし
戸口から出る
今まで帽子にかくされた部分
恐怖からまもられた釘の個所
そこから充分な時の重さと円みをもった血がおもむろにながれだす
吉岡が詩集に『静物』と名づた理由は、この一篇からも感じ取れるのではないだろうか。
ほそいくびをした料理衣を着た男。尾の長いぬるぬるとした赤えい。釘の個所から流れ出す血……。
こうした物体は詩人の鋭い眼でしっかりととらえられているので、物体は「充分な重さ」−−異様な重量感を持ち、読者の心に沈みかかってくる。このことはすぐさま感じとれるのだが、この詩をどう受け取ってよいのかと考えると、急に何とも言い難くなる。
何か恐ろしいことが起こっているのは確かなのだが、その意味はわからない。作品世界が現実世界とどんな関わりをもつのかについては、この詩は禁欲的に黙しているからだ。だが現実世界と無関係だと言い切るにしては、作品世界はあまりに生々しい手触りを伝えてくる。
ある程度の解釈は成り立つだろう。
この詩が書かれたのは戦後十年も経たない頃だ。情景を取り囲む冬の景色は、荒廃した戦後世界を背景としていると言えそうだ。
赤えいが男に過去を与えるということは、戦争によって時間の流れが切断されてしまった詩人が、時間の全体性を再獲得しようとすることなのではないか。
……しかしこうした「人間的」な解釈は途中ではねつけられる。「意志がないように過去がない」男、「その男に欠けた/過去を与えるもの/台の上にうごかぬ赤えい」などの物体は、絵画であれば死んでいる(静物画のことを、フランス語で「nature morte死んだ自然」と言う)のだが、詩の中では生きているようでもあり死んでいるようでもある。
そんな物体が粛々と作業を執り行ってゆくさまは無気味で恐怖を感じさせる。こうした吉岡の詩の世界は、生きているもの中心で、意味が与えられている現実世界からすれば、言わばそのネガのような世界だ。
吉岡の詩が単一の解釈の網ではとらえられない理由は他にもある。
詩の中には、男が赤えいを切る光景だけではなく、蟻や便器や釘などの意味ありげな要素が多様にある。加えてそれら全体に展開をもたらす切断の動きがある。(吉岡の詩は、絵画的でありながらも時間の進行が含まれているわけだ)。よって詩の統一的な見通しは乱される。
こうした特質をもつ吉岡実の詩は、戦後の詩を考える上でひとつの考え方を呈示している。
「狭義」の戦後詩は、隠喩的な詩だというくくられ方がされることがしばしばある。それは、詩の言葉が、それとは示さずとも何か別のことを喩えているということだが、この言語の状態を、言語平面のすぐ裏にそれに対応した意味が貼り付いているとイメージできるのではないだろうか。
そのうえで、作品「過去」を、そのまま表象空間として考えてみたい。
台の上に置かれたエイは、静物画の中に描かれるオブジェ、つまり言語平面上で語られる対象と考えることができる。しかし赤えいを切っても、つまり言葉の裏を探しても、「吐きだされるもののない暗い深度」があるばかりで、それ固有の意味が見つかるわけではない。
意味を探そうとすると、それは赤えいの切り口からはズレた場所に探さねばならないし、かつ意味は言葉からは遅れてやってきて「おもむろにながれだす」のだ。つまり、詩の言葉が半ばは物体を描くだけのものでもあるが半ばは意味を伝えるものでもあり、その意味は伝えられるにしても、言葉に密着してはおらずに言葉とはズレたところから遅れてやってくるわけだ。吉岡の詩を読む時の奇妙な感覚は、こうした言葉の奇妙な宙吊りの感覚である。この点で吉岡の詩、とりわけ初期の詩は、何を喩えているのかが不分明な隠喩であり、「狭義」の戦後詩の言語パラダイムからは外れている。
吉岡実の詩は、『静かな家』(1968)や『神秘的な時代の詩』(1975)になると、以前の詩とはやや雰囲気が異なってくる。言語平面は緊密ではなくなり、絵画の平面に波が走るような感じになってくる。『静かな家』から一篇、「桃」を引用したい。
桃
或はヴィクトリー
水中の泡のなかで
桃がゆっくり回転する
そのうしろを走るマラソン選手
わ ヴィクトリー
挽かれた肉の出るところ
金門のゴール?
老人は拍手する眠ったまま
ふたたび回ってくる
桃の半球を
すべりながら
老人は死人の能力をたくわえる
かがやかしく
大便臭い入江
わ ヴィクトリー
老人の口
それは技術的にも大きく
ゴムホースできれいに洗浄される
やわらかい歯
そのうごきをしばらくは見よ!
他人の痒くなってゆく脳
老人は笑いかつ血のない袋をもち上げる
黄色のタンポポの野に
わ ヴィクトリー
蛍光灯の心臓へ
振子が戻るとしたら
カタツムリのきらきらした通路をとおる
さようなら
わ ヴィクトリー
この詩の「狭義」の意味を考えることは、もはやあまり可能ではないしあまり大きな意味をなさない。
吉岡の作品世界が積極的な統一性を形作らないようになったからだ。(それは「戦後」という概念でくくられうるような均質な風景の終わりと関連しているだろう。)
先に挙げた二詩集の時期は、一般的には吉岡の模索期あるいは停滞期だとして否定的にとらえられるが、私はそれは、この時期の吉岡を初期詩集のイメージでとらえようとするところから生まれる一面的な評価だと考える。吉岡はあきらかに別の次元に入りつつあるのだ。
この詩の意味は何かと考えるよりも、この詩はどう働くのかと考えたほうがよい。確かに初期と同じく陰惨・無気味な雰囲気は続いているのだが、もはやそれは現実世界のネガを形作らない。
言ってみれば脱世界的になったのである。
だが作品が読者と無縁になったわけではない。むしろ読者は積極的に詩に身を浸さねばならなくなったとも言える。初期作品のように、絵画を見るように詩から与えられるイメージを読者が受動的に受け取ることはもはやはできないからだ。
そして先に引用した詩には、以前にはなかったある運動性が感じられる。運動性といっても、リズムやメロディーといったかたちで詩に内在されている運動ではない。
「マラソン選手」や「回転する桃」といった運動を表わすものが詩の中に描かれてはいるが、描かれる運動だけでもない。詩行そのものが数行立っては倒れ立っては倒れする運動、イメージや意味や文体が小刻みに移り変わる運動だ。
「わ ヴィクトリー」のリフレインは心地よいリズムを作るリフレインではなく、不規則に差し挟まれる違和感である。何だろう、この「わ ヴィクトリー」という感嘆(?)の奇妙さは。つまり、読者の感性の規範が詩によって小刻みに相対化されることによって読者が詩に感じる運動性であるのだ。
「そのうごきをしばらくは見よ!」−−その時、詩の言葉は読者にとって、意味を呈示する通常の役割から変質して、あたかも自力で動くかのような見なれぬ存在となってくる。
見知ったものであるのに別のものでもある存在、本来動かないのに動くようにも感じられる存在に言語が変質するのだ。それはフロイト的に言って「無気味なもの」であろう。
そうした言語は不安や恐怖をよびおこすのだが、同時に独特の快楽−−スリルももたらす。私は吉岡実の詩を読んで時々「笑い」を感じることがある。それは別に面白い意味で笑うのでも、イメージで笑うのでもない。笑いにならない「笑い」だ。
ひとは、自分の言語−−ひいては世界−−に未知の震えが走る時、笑うのではないだろうか。
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2007-10-28
吉岡実の詩における無気味な言語 佐原怜
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