【俳誌を読む】
『俳句』2008年7月号を読む ……さいばら天気
●大特集・特別座談会・女性が担う俳句の未来 p59-
宇多喜代子・西村和子・津川絵里子・高柳克弘
角川学芸出版『鑑賞 女性俳句の世界』(全6巻・各2,800円)が6月に完結。それを記念の座談会。昨年だったか、いつだったか、大部の歳時記刊行の際に、歳時記座談会が掲載されたのと同様の企画。
司会に高柳克弘という「若い男性」をキャスティングした点、工夫というか「つかみ」を狙ったというか。野球で言えば……と起用法に譬えようとして、うまい例が思い浮かばなかった。なんにせよ、企画がこの種の采配を振るうのは、読者にとって楽しい。少なくとも落合監督じゃないということ。
さて、座談会。
俳句に限らず、なんの未来にせよ、どこかの誰か、なにかの社会集団に担っていただく未来など、ぞっとしない、大きなお世話だ、という方もいらっしゃるだろうが、そんなひねくれた人も、安心してよい。こうタイトルが付いているものの、話題が未来に及ぶことはほとんどない。
35頁と長大な座談会記録の流れをすべて紹介するのは骨が折れる。断片的にトピックを。
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高柳 台所俳句は俳句の敷居を低くしたという意味で大きな功績もあると思うのですが、一方で、女性俳句と言えば身辺詠だというふうにどうしても固定化してしまった。言葉の技術や修辞ということがおきざりにされて、素材として身近を詠めばそれですむという風潮が生じてしまったような印象があります。
課題についてまっとうな押さえ方だが、これに…
宇多 (…)それは句そのものがダメなんですよ。句のよしあしと台所俳句は本来、関係ないと思う。西村 そう。台所俳句でもいい句はいい句ですよ。
…と、ベテラン女流2氏が、課題として浮上させてくれない。沈めてしまう。
「いい句はいい句、ダメな句はダメな句」と個別に還元したら、傾向や範疇といった分析的な手順はすべて反故になってしまう。社会学者がえんえん人間について討議した末に、「いやあ、人それぞれということで」と結論するようなものだ。この手の司会者泣かせはここだけでないが、読んでいて、それほど不快なやりとりではない。おもしろい…などと言うと、司会の高柳氏に申し訳ない気もするが(お疲れさまでした)、年季の入った女性というのは、つくづく世界最強だなあ、と。
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身辺詠の話題では、さらに高柳氏が、三橋鷹女、中村苑子、飯島晴子といった「日常の世界の自分と、句の中に立ち現れてくるキャラクターとを明確に区別して虚の中に遊んだ作家」を評価すべき」とする場面。
高柳 そういう点からすると今の女性俳句は立子や汀女的な日常詠に偏りすぎているところがあり、多少の物足りなさを覚えてしまうことがあるのです。
これを受けて…
宇多 あなたがおじいさんになったらまた変わると思う(笑)。
西村 私も高柳さんくらいのときには立子の句の本当の魅力は分からなかった。
あはははは。出た、「この年にならないとわからない」発言。
これを言ってしまうと、世代の違う者同士が何かを語る意味がなくなる。日常会話ではついついやっちゃうこともあるが、座談の肝心なところで出すか?wの感。
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ほかにも、「女性らしさ」という「広範な意味で使われている批評語」(高柳)が「一体どういうことなのかを突き詰めていかないと批評としては鈍ってしまう」と、かなり重要で困難なテーマに切り込む場面でも、やはりそこから展開しない。
「宇多さんが師事された桂信子という作家はそのあたりを突き詰めた作家だと思うのですが」(高柳)と、まんなか高め、絶好の釣り球を投げ込むが…
宇多 いや女性を意識して作るなんて、桂先生が一番いやがってましたね。
…と、簡単に見送る。っていうか、えっ、そうなんですか? 桂信子。
宇多(続き) あの当時、「桂信子は女を売り物にする」という言葉があったんです。
はい、それ、聞いたことがあります。
宇多(続き) 「情けないわねえ」って言ってましたから。女だからこう作るということはないわね。自然に作ったらこうなっちゃったというわけ。
天然の「女性」性。だから、それも問題に含まれるはずなのですが?
西村 (…)桂信子の〈ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき〉、あれはまさに女性にしか出来ないけれど、その句がいいのであって、女性が詠んだからいいというのではない。
またもや句の個別へと話が帰着する。
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こんな具合で、「そこ、重要!」というところで話が展開しない。そのもどかしさは残るものの、エピソードが豊富で、過去の女流の名や句もたくさん登場し、楽しめる座談。
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思うに、女性俳句についての批評は、女性よりも男性の仕事なのかもしれない(逆に、男性俳句は女性の)。他者理解という文化人類学のスタンスは、俳句にも有効ではないか。いや、まじめな話。
女性と「女性俳句」について、当事者が見えないものが、他者の観察によって見えるかもしれない。当事者は、作品(句)の内側からモノを言いがちになる。批評は、外からの観察(他者の目)から始まるものだと思うのだが。
●名句合わせ鏡(7)「極楽の文学」とは 岸本尚毅 p118-
昭和10年代の俳人と戦争にまつわる話題から、著者が最近読んだという『暗闘~スターリン、トルーマンと日本降伏』(長谷川毅)、『昭和陸軍の研究』(保阪正康)に触れ、次のように論考を締める。
俳人が戦争を詠ったことは事実です。しかし俳句が詩であればあるほど、「昭和陸軍」的理不尽さ、無体さは句から洩れ落ちます。五七五の韻律にのせて詠うこと自体が、たとえ戦争を詠っても、そこに慰藉の契機を孕みます。俳句は本質的に「極楽の文学」なのです。 俳句に詠えるのは戦争の一部です。だからといって私は俳句が思想的に無力だとは思いません。俳句は「極楽の文学」であることによって、俳句に詠いようのない「地獄」の存在を示唆するのですから。
時機としては、8月号のほうがふさわしいテーマだった。8月になると毎年うじゃうじゃと、戦争を回顧する句が湧いて出る。それらのうち多くが「慰藉」に安穏ととどまることで、「思想的に無力」などころか、有害でさえあると、私自身は考えているので。
この記事の本旨から逸れるが、引用された虚子の一文。
人は戦争をする。悲しいことだ。併し蟻も戦争をする。蜂もする。蟇もする。(『俳句への道』)
つくづく食えない人だなあ、と笑ってしまった。これほど虚ろな「悲しいことだ」という文句は、めったにお目にかかれない。もちろん間違ったことは言っていないし、「悲しいことだ」に嘘はないのだろうが、笑えるほど酷薄。
●入門特集・酒を詠む面白さと難しさ p124-
最初の最初に次の一文。
栄養摂取を目的とせずに体内に入れるものは総じて旨い。指を折ればまずタバコとお酒。(清水青風)
このご時世、こんなにあけすけに享楽主義的なセリフを聞けるのは、とてもうれしい。「まず」と来たから、他にも旨いものが指折り出てくるのかと期待したが、それはなかった。このひと(清水青風さん)は、掲げる句も、めんどうなところのないオツな句ばかり。
●第三回「角川全国俳句大賞」選考結果発表! p204-
俳人8氏および審査委員会による選考で各賞が決定。今年2月15日までの応募総数は20,316句。これだけたくさんの句を読むのだから、大変です、審査の先生方は。
シャープ賞が「扇風機一台ニーチェ同好会」(兵庫・木村修)。
なるほど、と。
で、俳句にも触れます。
●阿部完市「陸橋」21句 p34-
どこにいても陸橋にいても難解
さんくと・べてるぶるぐしかし文語
きつねいてきつねこわれていたりけり
ひらがな表記(掲句の他に「ぽたーじゅすーぷ」「いらん」「ぼすぽらす」等)の意匠を含め、ストーンド stoned(行っちゃってる感)。とても愉しめました。
●山田露結「傷口」8句 p245-
月裏を知る蝙蝠と思ひけり
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2008-06-29
『俳句』2008年7月号を読む さいばら天気
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2 comments:
僕は読者としては、女性が作る俳句、作者の「私」が句の芯にいる俳句、を読むのが好きなんですね。その「私」は作者の本音なのか、作られたものなのか、いずれにしても作者個人の存在が強く感じられるから、女性の作る俳句は、すごく読み応えがある。
一方で、僕が作りたい俳句は、言葉で現場だけを再現、あるいは作り出し、その言葉だけで出来た現場で、読者が思考の赴くままに遊べるもの。
僕の俳句は、女性の読者が読んでみて遊べる俳句になっているだろうか? 作者としてはそこがとても気になる。男性読者の反応はある程度予測できても、女性読者の反応は予測できないから。
天気さんの言われるように、女性の俳句は男性が、男性の俳句は女性が批評する、という視点は、大切だと思うです。
自分の俳句は異性にどう読まれているか、俳句の作者はもっと気にしていいかもしれません。
民也さん、こんにちは。
読者の性差を意識するという作者の態度(男性/女性に読んでもらいたい、という態度)は、これまでなかったようですね。それが必要かどうかは別にして。
私の記事は男性/女性が対称であるような書き方になっているかもしれませんが、非対称というのが実態かも。よく言われることですが「男流作家」という言い方はない。manが男性および人間をさす事情と似ている。
ジェンダー論をやるつもりはありませんが、俳句において「女性」という社会的カテゴリを設けることは、男性によりも意味があるのでしょう、きっと。
そのうえで、当事者(女性)が語ることの多い「女性と俳句」というテーマを、女性以外(例:男性)が「他者理解=異文化理解」という脈絡で読んでみても成果があるかも、という話でした(当該箇所)
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「作者が句の芯にいる俳句」という部分、含蓄です。「表」ではなく「芯」という意味でも。
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