2008-11-30

「僕」の鎮魂 『まぼろしの鱶』を読む 山口優夢


【第一句集を読む】
「僕」の鎮魂 『まぼろしの鱶』を読む


山口優夢








僕の忌の畳を立ちて皆帰る


1 鎮魂

生の向こうに死が透けて見えている。

彼の作品では、死ということ、あるいは、滅びるということおよびその周辺が繰り返し繰り返し描かれる。そして、ほとんどの場合、滅びるのも、死ぬのも、彼自身ではないのだ。「死や滅びの周辺」とは、つまり、彼以外のものが死んだときの彼自身の視線や行動、という意味である。

いつせいに柱の燃ゆる都かな
戦亡の友いまあがりくるよ夏の濱
新しき小鳥のむくろ私す

「いつせいに柱の燃ゆる都」のイメージは、巨大なものの終焉の美しさだ。都を包み込むような大火か、あるいは空襲か。僕には、都中の柱がいっせいに自ら燃え出した幻想を描いているかのように思える。屋根や壁や家の中身が全て燃えつくし、灰になりつくしたあとでも、柱たちは黒こげの無様な姿を晒し、立ち続けるのだろう。その、シュールで凄惨なイメージ。

しかし、今燃え上がっている、この都を見ている彼は、一体何をしているのだろう? 彼にはどうすることもできない。いや、彼でなくても、誰であっても、人間にはどうすることもできない状況なのだ。それに直面した彼はただ呆然と見つめるしかない。彼にできることは、滅びゆくものをただ見据えることだけなのだ。彼は逃げない。目を背けない。何の感情も浮ばない冷徹で悲しい目をもって、彼は炎を見続ける。

その視線は、波の合間から夏の濱に上がってくる戦亡の友を迎える彼の目に通じる。全身ずぶ濡れで、海藻を身に絡みつけ、戦闘服と鉄兜を未だに纏い、遠い遠い南の果から確実に歩一歩と浜に上がりつつある戦亡の友。彼は、砂浜に体操座りをして、そんな彼(あるいは、彼等?)の姿をぼんやりと見つめ続ける。彼はなつかしさで胸いっぱいになって彼等に駆け寄ることもなければ、自分だけ生き残った後ろ暗さから逃げ出してしまうということもない。友は死に、自分は生きている。その現実をただ引き受けるのと同じように、彼は体操座りのまま、こちらにやってくる戦友をじっと眺め続ける。鉄兜のために表情の見えない戦友を。

あるいは、死んで間もない小鳥の骸を自分のものとして扱うということ。生きていれば抵抗して羽ばたくであろう小鳥も、今となっては弄ばれるままに身を任せている。そうやって小鳥を弄っている彼自身の眼差しには、やはりどこか乾いた悲しみに裏打ちされた冷徹さが感じられないだろうか。もしくは、誰もが直面する死の現実に対する、無言のため息。

それはおそらく、鎮魂、ということである。

落椿浮び立つたる水の上
秋風や炭になりゆく鰯の尾
廃花壇ゴム風船落ちとぶ気なし
廃館のガラスの破片みな三角

滅びゆく何かを、朽ちてゆく何かを、終わりゆく何かを、壊れゆく何かを、彼は正確に描写する。「浮び立つたる」「炭になりゆく」「飛ぶ気なし」「みな三角」これらのちょっとした観察、確実な描写こそが、彼の鎮魂歌であった。ここに挙げた句のように、人間以外のものに対してもその鎮魂は行なわれるのだ。

雪降れり人のゆきかひ十字なす

鎮魂のための十字、と読むのはあまり深読みに過ぎるだろうか。降りしきる雪の中、彼は人間たちを少し高いところから眺め下している。やがて死ぬ運命にある彼等が、彼等自身の鎮魂を行なっているのだ。

新宿ははるかなる墓碑鳥渡る  福永耕二

こんな作品を思い浮かべてみてもいいのかもしれない。人間が自分たちの手で自分たち自身のために書きこむ墓碑銘。


2 戦争

砲撃てり見えざるものを木木を撃つ
そらを撃ち野砲砲身あとずさる
戦車ゆきがりがりと地を掻き進む
鉄条網これの前後に血流れたり

たとえばここに挙げた、戦争に取材した句群にも、先述した彼の「死」に対する眼差しが見えないだろうか。彼は戦争を嘆いたり、あるいは勇んで鼓舞したりしない。何の感情も判断も倫理も差し挟まずに、戦闘場面を描く。「見えざるもの」の不可解さと「見えざるもの」を撃つ大砲の不気味さ。「あとずさる」野砲、「地を掻き進む」戦車の圧倒的な物質感、存在感。流れる血の感触と、「鉄条網」のしずけさ。

しかし、ここで描かれているのは、実は「戦争」などではない。非常に複雑に編みこまれた人間関係の中にある戦争の事情(あるいは、そのことを「大きな物語」と言ってもいいかもしれない)を、これらの句は一切無視している。どの句にも一人も人間が出てこないのだから。描かれているのは、「破壊」である。人間の死によってのみ贖われる「破壊」。それは、あるいは戦争の非人間的な一断面とも言えようが。

誰かの「死」や「滅亡」に対して静かな悲しい眼差しを向けた彼だからこそ、死へ向うための「破壊」を見る目にも、同様の静謐がたたえられているのだ。だから、ここには何の感情も、賛美や批判すら、描きこまれない。これらの句は、個人の死に対する鎮魂と同じ冷めた温度で書かれている。

夜の虹ああ放射能雨か灰か
原爆資料館内剥き脱皮手套
鯉ひらめく片身に片目爆心地

破壊。人類が経験した破壊の中で、最大級のものは、しかし、彼の精密な描写を拒む。原爆は、砲身があとずさったり、戦車が掻き進んだりするような時間性をまるで持たない。一瞬なのだ。柱の燃ゆる都、と詠むことすら許されないほどに一瞬の大量破壊。それは、ドラマをすら生み出し得ない。だから、彼は「夜の虹」を幻視したり、「資料館」や「爆心地」で破壊を後から詠んだりするしかないのだ。

夜の闇に浮ぶ七色の虹があるとしたら、それは美しいというよりもグロテスクだろう。手套を脱ぐのに使われる「剥き」という一語の違和感、「片身に片目」の生々しさ。たとえば今、鯉を裏返したなら、その半身は爆発によって綺麗に裂かれ、消え去っているのかもしれない。原爆に関しては、そのような身体感覚によってあとから比喩的に描かれるしかなかった。

出征ぞ子供ら犬は歓べり
訓練空襲われ物欲しく木に登り

一方、これらの句は、彼には珍しく、戦争に対する彼の距離がはっきり書き表されているものだ。「出征ぞ」の句は、「は」の限定に明らかな作為があり、彼自身の戦争に対するネガティブな感情が見て取れる。また、訓練空襲と言うと、

訓練空襲しかし月夜の指を愛す  西東三鬼

を思い浮かべる。「訓練空襲」と上五に持ってきて、中七下五でその意味性を裏切ることにより、戦争の中での個人を主張するという句の構造も、この二句は共通して持っているようだ。ただ、彼の句の「われ物欲しく木に登り」という言い回しに見られるどうしようもないみじめさは、三鬼の句の耽美なエロティシズムとははっきり異なる。生きていることの、そして、何かに憧れるということのみじめさだろう。自らのみじめさをさらけ出すことによって、戦争への強烈な皮肉を描き出し得ている。


3 若さ

木に登る、というのは、空に対する憧れだろう。「物欲しく」、みじめなまでに空に憧れる、そんな若さがこの句集のところどころに描かれている。

かもめ来よ天金の書をひらくたび
少年ありピカソの青のなかに病む

「天金の書をひらくたびかもめ来よ」ではなく、「かもめ来よ」と、一番最初に呼びかけの言葉が書かれることに注目したい。ここから、「天金の書」が中心なのではなく、あくまで「かもめ」を呼び出すことが一句の眼目なのだと分かる。そのためのツールとして、「天金の書」が使われるのだ。

「書をひらくたび」かもめよ来い、ということは、天金の書のどこを開いたとしても来て欲しい、いつでも何度でも来て欲しい、ということだ。なぜ彼は「ひらくたび」そのことを願わなければならないのだろう? 彼は、天金の書を所有できても、それをひらくたびにかもめを呼び出すことができても、かもめそのものを所有することはできないからだ。何回呼び出しても、かもめはいつまでも希求される。永遠に抱き続けるしかない憧れ、という若さそのものとも思えるテーマが、倒置法と「ひらくたび」という措辞から見えてくるのだ。「少年あり」の句にも、絵の具の青色が満たす世界の中で狂気に陥る少年、というのは、求めても何かを得ることのできない若さを見て良い気がする。

この二句は、彼自身の若さ(と読めるもの)が詠まれているが、むしろ、句集中に多いのは、彼以外の他者の若さについて言及したものである。

外を見る男女となりぬ造り瀧
その青年のもの美女の顔平手打ち
若者よ抱きあふ固きところ骨

この三句、こうして並べてみると、一組の男女の関係の推移を表しているようで面白い。「外を見る男女」は、直接的には若いとは書かれていないが、初対面のような若者同士ならではの初々しいはにかみようが伺われる。見合いの席なのだろうか。二人で外を見ている、その視線の先にあるものが造り瀧だというおかしみ。あるいは、しらけ。

二句目は、なんだかおかしな句だ。痴話喧嘩なのだろう、「平手打ち」を食らわせたとしても、結局はその美女は「その青年のもの」なのだ。なんだ、馬鹿馬鹿しい。「夫婦喧嘩は犬も食わない」と言ったところか。

そして、「若者よ」の句には、戦慄させられる。はにかむばかりだった出会いの頃、諍いを起こしていた頃を通過して、抱き合い、求め合うようになった彼等の体の中に、白く硬い骨という「死」の象徴が埋め込まれているという現実。それだけでも十分面白いのだが、さらにこの句は、「若者よ」と彼が第三者的な視点から呼びかけている形になっているところに瞠目させられる。「若者よ」と言うからには、彼自身は若くないのだ。

ほかの二句についてもそうだが、自分も通ってきた道である「若さ」という恥ずかしいものを、外側から、あの、しずかな悲しい目線でじっと見つめている。戦亡の友を迎えるのと同じ、あの眼差しだ。これらの句は、謂わば、彼等の未来に対する鎮魂、とでも言うべきだろうか。

野火たかる若き冬木の油火よ

若さという激しさゆえの悲劇をも、彼はしずかに見つめている。


4 海

寒流がまたも聞えてくる晩だ
爆笑のすぐやむ船の奥処かな
いつ使ふ消火器と斧船老いたり

彼の、滅び行くものに対するしずかな眼差しについては、この稿の中でたびたび言及してきた。のみならず、「鎮魂」というキーワードを使って、その眼差しを言語化することに努めてもきた。では、この句集においては彼自身はどのように描かれるのだろうか。「物欲しく」木に登るような、天金の書を開いては「かもめ来よ」と求めるような、そんな若さとは別のアプローチは、この句集の中に存在していないのだろうか。あるとすれば、そこに現われるのは彼のいかなる姿なのであろうか。

それに対する僕自身の回答は、彼の海に関する句を見てゆく中で得られることと思う。「寒流」の句は、「寒流」の寒々しい音を思わせる上に、「晩だ」という口語調の言い切りがきっぱりと決まっている。「またも」から、彼は海に近しい人間なのだろうと推察できる。「爆笑」の句の遠い灯りのなつかしさのような、奇妙なさびしさ、「いつ使ふ」の句の船に対する目線からは、彼が船乗りであることが予想される。その予想は、次の句によって真であることが証される。

暑き船内生きてビキニを避けつつあり

沖に原爆太陽ふせぐ指に骨

しかも、これら二句は、彼が船乗りであることを示唆している以上に、船乗りとしての彼と核爆弾との距離感を端的に明示している。彼にとって、原爆やビキニは、一般の人以上に自分の生活のテリトリーに近いものなのだ。先述した原爆の句に比べて緊張感と肉体性が増しているのも、頷ける。ねばつく暑い空気の中で生きている彼、太陽の強い逆光によって浮かび上がる指の中の細い骨。彼が、今自分は生きていること、そのことを強調するほど、彼自身の死が裏側から透けて見えてしまう。

そのような逆説的な状況の中で、彼自身の生を力強く活写しているのは次の句であろう。

すれちがふ戦艦我等稼ぐなり

ここには、戦争を尻目に、自らの生きてゆく活力を見出す力強さが伺える。戦艦に比べて、彼の乗る商業船はちっぽけで弱いものであろう。戦艦に乗る乗務員が「国を守る」という大義名分に酔いしれているのとは違って、彼等はただ自分の利益のために船に乗っている。どちらが重要で意義深いか、といわれたとき、戦艦の決死の覚悟の方が高邁に見えることであろう。でも、彼等には「我等稼ぐなり」の矜持がある。この「なり」という切れ字が示す凛とした決意表明は、美しい。

今まで言及してきた他者の死へのしずかな目線とは違う、彼自身の生活の場である海での生を力強く詠んだ作として、この句は特異な地位を占めると思える。


5 自らの死

もう少し、彼の自分自身への言及と思える句を拾ってみる。

共に泳ぐ幻の鱶僕のやうに
我多く精蟲となり滅ぶ夏

共に、自分自身と、それを表象するような動物とが抱き合わせで描かれている。自分を仮託する動物として「鱶」「精蟲」という両方とも「泳ぐ」ものが持ってこられている点が、彼が船乗りであることを思い合わせたとき、まずは興味深い。

「共に泳ぐ」の句は、実に奇妙な構造となっている。「僕」は「鱶」と一緒に泳いでいるが、その「鱶」は実在しない「幻の鱶」で、しかも、その「幻の鱶」は「僕のやうに」泳いでいるのだ。おそらくは、「幻の鱶」は彼自身の幻影であり、だからこそ「僕のやうに」その鱶は泳いでいるのだろう。まるで水中に鏡があるように、「僕」には僕の姿がゆったりと巨大な鱶として見えている。「共に」と言っているにも関わらず、そのようなシチュエーションはなんと孤独な時間なのであろう。暗くしずかな海の中に、彼が彼自身の幻影と共に泳ぐ、そして、彼は一体どこへ行こうと言うのか。

その答えとして考えられるのは、次の「精蟲」の句であろう。つまり、彼もまた、彼が見送って行った、過去に滅び去った多くの者たちのごとく、「滅び」に向って泳いでゆく者なのだ。彼は未来を託すべき、しかしそれだけでは不完全な多くの精蟲となり変わり、そして、生み出された彼等は一つの卵に出会うこともなく、全て死んでゆく。「我」が卵子と出会うべく精蟲になるにも関わらず、そのままあっけなく滅んでしまう、この皮肉、この悲しみ。

彼の生は、海の上で力強く全うされる。そして、彼の死は、彼自身によって、この句集の中で既に鎮魂されているのだ。彼は他者の死を見つめるそのしずかな目をもって、彼自身の死を他者の目からしずかに描いてゆく。

ここで、巻頭に挙げた、

僕の忌の畳を立ちて皆帰る

の句に立ち戻る。見様によっては、

死にたれば人来て大根煮きはじむ  下村槐太

との類似が思われもしよう。どちらも、人の死という事態に対する周囲の人々の反応を描いているからだ。しかし、槐太の句が「人来て」であるのに対し、彼の句が「皆帰る」となっていることは大きな違いである(あるいは、「僕の忌」というのは「死にたれば」と違って死んだ直後を必ずしも指さないという相違点ももちろんあるが、ここではあまり踏み込まない)。

「僕」の忌日にどれだけ多くの人間が集まろうとも、結局は、皆、帰るのである。自分たちの家へ。そして、自分たちの生活へ。死んだ人を偲ぶというささやかな非日常を楽しんだあと、適当なころあいを見計らって、皆、自分の生活へ戻ってゆく。そのときには、彼等の頭の中からは死んだ者の姿は綺麗に消え去っていることであろう。

死んでいった者は忘れられる。そのことは、そもそも「僕」自身が、死んでいった者たちを忘れ去っていったことによって既に実感しているのだ。それはなんとも信義にもとるように思える。死んでいった者たちへの後ろ暗さが思われる。しかし、それは残された者にとっては余りにも自然なことで、逆に、四六時中も死んだ者のことばかり思って生きてゆくことは不可能に近い。死んでいった者は忘れられる。余りにも当たり前のそのことを、彼は自分が死者の立場に成り代わることによって、切実に描いてみせたのだ。この句は、他者による彼への鎮魂、あるいは、そのような彼への鎮魂の限界を示しているのだ。

私のお墓の前で泣かないでください(『千の風になって』唄・秋川雅史)

もしも僕がいなくなったら
最初の夜だけ泣いてくれ(『旅立つ日』唄・juleps)

ポップスなどを聴いていると、自分の死に言及した歌詞が時折見受けられる。誰かの死を周囲の人がどのように受け止めるか、ということは、俳句に限らず文藝一般にとって一つの重要な主題であろう。しかし、ここで挙げた上記の二つの曲の歌詞は、正直、僕にはピンと来ないところが大きい。そもそも、自分の死に対して「泣かないで」とか「泣いてくれ」とか周囲の人に求めるのは、尊大で、感傷に溺れているだけの態度のように見えてしまう。

たとえば僕が死んだら
そっと忘れてほしい
淋しいときはぼくの好きな
菜の花畑で泣いてくれ(『たとえば僕が死んだら』唄・森田童子)

こちらの歌詞は、まだ上記よりも好ましい。確かに「泣いてくれ」という言葉は入っているが、基本的なラインは「そっと忘れてほしい」というところにある。それに、少なくとも、「最初の夜だけ」という限定よりは、「淋しいときは」という限定の仕方の方が、人の死に対している悲しみというものが正直に表出されているように僕には思える。

そうは言っても、森田童子の歌詞も彼の句に及ばないところがある。「そっと忘れてほしい」という希求にすら、感傷があふれてしまうのに対し、「皆帰る」という把握は、望むと望まないとに関わらず、皆自分を忘れてゆくのだということが前提されている。彼はそのことに絶望しているだろうか?僕には、そうは思えない。それはそういうものなのだと、しずかに受け止めているように思える。

誰もが自分の死にあたっては何かを望まざるを得ないだろう。自分の死の向こう側には自分は何も出来ない。絶対的に不可能な未来があり、だからこそ、そこになんらかの希求をしてしまう、ある種の若さのようなものは、彼のこの句には一切見受けられない。それは、若さを内側から描くことを終え、外側から見るようになったのと関係があるのだろうか。彼は他人の死をしずかに受け入れたのだから、自分の死にも何も望まず、それをあるがままに受け入れるしかなかったのだ。

彼自身が他者の死に敏感であり、他者の鎮魂のことを考え続けてきたからこそ、このような幻景が浮び出てしまうのだろう。あるいは、自分の鎮魂を切実に考えることが、他者への真の鎮魂を行なう一つの道程であったとも言える。

生の向こうに、死が透けて見えている。

そのさびしさを、逃げることのできないさびしさを、彼は句の上に留めようとする。彼の、滅びに対するしずかな眼差しは、その裏に沈む多くの感情を表に出さないことでさらなる深みを見せる。そのような彼の思いは、俳句という詩形式と幸福な出会いを果たしたのだと言えよう。あるいは、俳句が、彼の中からそのような感情を掘り出して見せたのだろうか。少なくとも僕は、「僕の忌」ほどに自分の死を冷徹に見つめた詩を、俳句以外で見たことはない。

作者は三橋敏雄(1920-2001)





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