2008-11-23

ひたすら数えてみました  「や」「かな」「けり」の頻度 さいばら天気

ひたすら数えてみました「や」「かな」「けり」の頻度 ……さいばら天気


前から気になっていたことがある。まずは、この一部分。攝津幸彦インタビュー(*1)から。

(聞き手・村井康司)さきほど定型は守りたい、とおっしゃってましたけれども、攝津さんは切れ字を割と多用されているんじゃないかと思うんですよ。たとえば『現代俳句文庫22・攝津幸彦句集』の400句中、「や」が出てくるのが54句ありまして、「かな」が61句、「けり」が26句。これはたぶん現代の俳人の中では多いほうじゃないかなと思うんです。

これに攝津幸彦がどう答えたかは『攝津幸彦集』(邑書林2006年)の巻末に転載されたインタビュー全篇を読んでいただくとして、切れ字の頻度ということ。パーセンテージにすれば、「や」13.5%、「かな」15.3%、「けり」6.5%。3つを合わせると35.2%。3句に1句は「や」「かな」「けり」のいずれかの切れ字が入っていることになる。これが、実際のところ、聞き手の村井氏の言うように他の俳人に比べて「多い」のかどうなのか、気になっていた。

で、数えてみた。

まずは、攝津幸彦『鳥の子』(1976年)。上記、現代俳句文庫はカウントされているが、自分でも数えてみなくちゃというわけで、260句を見ていく。

38句(14.6%)、36句(13.8%)、「けり」12句(4.6%)、計86句(33.1%)

『現代俳句文庫22・攝津幸彦句集』とほぼ同様のパーセンテージとなった。数字的には予想どおりで道草くっちゃったのか、というと、そうでもない。成果もあった。攝津幸彦の場合、句末に、多くの俳人が「よ」という切れ字を用いそうなところを「や」で締めるパターンが多く、それで「や」の句数が増えることが、数えてみてわかった。

  かくれんぼうのたまごしぐるゝ暗殺や

ここでことわっておかねばならない。「や」と近い用法の「よ」はカウントしない。ただただ機械的に「や」「かな」「けり」を数えた。

他方、句末が「けり」と「なり」等とで、どう違うのか、私にはあまりわからない。「なり」は切れ字とはされないようだが、「思ひけり」と「思ふなり」で、前者が切れて終わり、後者が切れていない、という解釈で、果たしていいのか悪いのか。そのへんの判断は私の力に余るので、ただただ字面で「や」「かな」「けり」を数えることにする。

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さて、ここからが比較。まず何を数えるか。手近にある句集のなかから、「や」「かな」「けり」の多そうな今井杏太郎『海の岬』(2005年)。309句。

「や」11句(3.6%)、「かな」39句(12.6%)、「けり」26句(8.4%)、計76句(24.6%)

「なりにけり」がよく出てくるのはイメージどおりで、「けり」頻度が8.4%と攝津幸彦に比べて多いが、「や」「かな」は意外に少ない。

 

次は波多野爽波『鋪道の花』(1956年)。323句。

「や」23句(7.1%)、「かな」23句(7.1%)、「けり」10句(3.1%)、計56句(17.3%)

少ない。攝津幸彦のおよそ半分。

 

次はちょっと目先を変えて、小川軽舟『現代俳句の海図』で取り上げられた10人の作家の、小川軽舟選50句。

詳しくは、下に掲載した表組を参照。

最も頻度が高かったのは、岸本尚毅で50句中28句(「や」10句、「かな」12句、「けり」6句)。じつに56%の句に「や」「かな」「けり」のいずれかが入っている。

最も頻度が低かったのは櫂未知子で、50句中6句(「や」1句、「かな」3句、「けり」2句)。

10人全体だと(500句中)、「や」37句(7.4%)、「かな」54句(10.8%)、「けり」46句( 9.2%)、計137句(27.4%)。

10人を合計して何の意味があるのか?と問わないでいただきたい。もとより機械的に切れ字の頻度を数えることにそれほど意味があるわけではない。

攝津幸彦は、昭和30年前後生まれの10人の作家の平均より切れ字頻度が高いが、岸本尚毅ほどには高くない、ということになる。一方、爽波は、ずいぶん切れ字が少ないんだなあ、とも。

 

この流れなら、小川軽舟も数えてみたくなるのが人情というもの。『手帖』(2008年)収録の384句を数える。

「や」96句(25.0%)、「かな」50句(13.0%)、「けり」32句(8.3%)、計178句(46.4%)

頻度はかなり高い。今回数えたなかでは、岸本尚毅とともにツートップといったところ。

特徴としては「や」が25%と高頻度。中七の末尾に「や」が来るパターンが多い(これは結社「鷹」の外見的な特徴のようにも思っている。こんどいちど藤田湘子をカウントしてみよう)。

  ことば呼ぶ大きな耳や春の空
  泥に降る雪うつくしや泥になる

 

ただただ数えるというこの作業、意外におもしろいのだが、キリがないので、そろそろ最後にする。

高浜虚子「七五〇句」。1951年から1959年までの作品。

「や」37句(4.9%)、「かな」55句(7.3%)、「けり」18句(2.4%)、計110句(14.7%)

爽波よりもさらに少ない。これは「想像どおり」という人もいれば、「意外」と思う人もいるだろう。

 

結論的には、攝津幸彦は「や」「かな」「けり」を現代の俳人に比べて多用するほうであり、さらには、虚子、爽波と比べて、倍ほど(!)も多用する、ということになる。

時間のムダ? そう読者は思われるかもしれないが、数えた本人からすると、そうでもなかった。カウントの作業はおのずと速読となる。いずれの俳人、いずれの句集・句群にも、ふだんミディアムテンポで読むのとはまた違ったものを味わうことができた。

また、「や」「かな」「けり」に絞ってある程度の数を読むことで、俳人ごとの句の骨組や口調が、これまで自分が理解していたのと違うかたちで、また確認するかたちで、すこし理解できた面がある。

たとえば前述のように、小川軽舟『手帖』、多くの句に登場する「や」の、これまでよく言われるところの二物衝撃とは趣を異にして「柔らかな切れ」をもたらす感じ。また、カウント数はここに挙げなかったが、西野文代『それはもう』(2002年)。掲載しなかった理由は、「や」でもよさそうな箇所を「よ」その他で処理していること。そのことによって、独特に柔らかな口調を生み出している。ちなみに『それはもう』は「かな」がたいへん少ない(349句中たったの4句)。この数字も西野文代の俳句が口調として伝える空気と無関係ではないと思う。

まあ、しかし、「ものはためしに」という程度の馬鹿馬鹿しい作業であることには変わりなく、「や」「かな」「けり」の出現頻度で、なにかたいそうなことを言うつもりはまったくない。それでも興味をもたれた方は、誰かの句集をカウントしてみてはいかがでしょう? あるいは今年の週俳・落選展に出品された13作品を。あるいは御自分の句を。



(*1)攝津幸彦インタビュー「できあがった瞬間、全く無意味な風景なそこにある、という俳句が書きたいんです」(『恒信風』第3号1996年・『攝津幸彦選集』邑書林2006所収)


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