2009-02-22

商店街放浪記4 じゃんじゃん横町2 小池康生

商店街放浪記 04 新世界 じゃんじゃん横丁2

小池康生


じゃんじゃん横丁である。
昔は労働者が呑んだくれる町であったが、今や、カップルや家族連れで溢れ、わたしは戸惑うばかり。この町で呑んでいた男たちは、どこへ追いやられたのだろう。

新世界の数ある商店街のなかでも、ここ、じゃんじゃん横丁には独特な雰囲気がある。いや、あった。

通天閣側からじゃんじゃん横丁を抜けると、国道にぶつかる。
そこがまさに地下鉄「動物園前」駅。
その国道を右手に下ると、釜ヶ崎。そのまま国道を渡ると、動物園前商店街を経て、飛田新地に続く。
飛田新地を説明したものかどうか迷うが、やめておく。
なんでも書けばいいというものではないだろう。
書けばその町が、別の客層に荒らされることもある。

まぁ、お察しのような町、いずれにしても、じゃんじゃん横丁を抜けると、さらにディープなポイントに繋がるのだ。

<通天閣界隈><釜ヶ崎><飛田新地>、<食>と<労働>と<性>、そのジャンクションとして、じゃんじゃん横丁があるというのは、わたしの勝手な解釈。

今から30年ほど前――自分で書いていても驚くが――十代後半、平凡な映画青年がひとりで歩くには、結構、緊張感のある町だった。

かといって、友達とぞろぞろ歩くにことには、強烈な格好悪さを覚えた。
だから意地でもひとりで歩く。
男たちが皆ひとりでいるから、自分もひとりでいる。そういう暗黙のルールを感じていた。

警戒心や驚きを表に出さす、よそ者(もん)という空気を放たず、視線をきょろきょろさせず、町を味わう。少し粋がった服装でナメられないようにして。
わたしより年長の人に聞くと、昔は、昼間から道端で殴りあいの喧嘩が起こって、もっともっと危険な空気が漂っていたという。

それが、がらりと変わった。

阪本順治監督、赤井英和主演、『どついたんねん』『王将』『ビリケン』の新世界三部作や、NHKのドラマ『ふたりっ子』の影響などで、一般にも知られるようになったからだろうか。
大阪城や海遊館やUSJだけで飽きたらない人たちのために、下町情緒を味わわせる町として、新世界を案内する人が増えたのだろうか。

『八重カツ』の前に、1時間2時間はかかろうかという行列。嘘でしょ。隔世の感であり、自分がこんな言葉を使うことにも隔世の感がある。

今や町全体が、串カツタウンの趣き。横浜にカレー博物館、ラーメン博物館などというものがあったが、それに伍する串カツ版とも。

横浜のラーメン博物館などは、ビルのフロアに映画のセットのようなもので昭和を醸し出しているが、新世界は青天井で、しかもホンマもんの昭和の町並み。まさに下町博物館的要素もある。

しかし、新参の串カツ店には、おかしなものもある。
店頭に掲げた写真に、これが新世界の串カツかいな、というものがあるのだ。
なにが違うと言って、新世界の串カツは、溶いた粉を一度付けるだけで、そのまま、油に投入するのだ。

普通のカツは、小麦粉を付け、卵を付け、パン粉を付け、三段階を踏むが、新世界の串かつは、溶いた粉に素材を付けるだけ。だから揚がった衣はつるつる。この衣にどんな秘密が隠されているのか。独特の甘味と軽やかさがあり、たまらないのである。

しかし、新参の串カツ店が、店頭に掲げている写真を見ると、串カツにとげとげしくパン粉が見える。あんな串カツなら家庭でも作れる。つるつるのあちあちのあまあまの串カツ、それが新世界テイストなのである。

基(もとい)。
もっと大事な話がある。

男の話である。
朝から酒を呑み、道端で倒れていた男たちはどこへ行ったのだ。

日本全国を見回して、男のための商店街なんていうものがあるだろうか。
しかも、ひとりという単位で楽しめる商店街である。
他人と交わることなく寛げる町。孤独感にさいなまれる男が、孤独を感じずに済む町である。
これはとても重要なことで、ひとことで言えば、自意識から自由になれるということではないだろうか。

キタやミナミの群集の中にいると、孤独感を感じ、自意識過剰になったりするが、新世界に来ると、気が楽になる男は多いと思う。格好をつけなくて済む。他人を意識しなくて済むのだ。

自意識は、年齢に関わらずやっかいである。
自意識は、ちっぽけなものにも思えるが、マイナスの感情が層を成すと、いつか恐ろしいほどのお化けにもなりかねない。新世界じゃんじゃん横丁界隈は、男を自意識から解き放つ。ひとりぼっちでいる自由。まわりが自分の神経を刺激しない平穏。こういう町を持つ都市というのは、構造的に深いと思うが、そこへカップルや家族連れが押し寄せ、ありゃまこりゃまの状態なのだ。

そのことに、最初、義憤を感じたが、何度かこの町を訪れ、あることに気づいた。

かつて、じゃんじゃん横丁にたむろしていた男たちの行き先として動物園前商店街を想定していたが、そこへ行ってみると、驚くほど廃れていた。シャッター商店街に近い状況である。

そうだ。二十歳のわたしが五十を越えたのだ。当時、あの商店街にいた中高年は・・・。この町の人口が減っている。界隈の肉体労働者は激減しているのだ。

だから、新世界界隈は、さびれていて当然なのである。
それが、通天閣の足許だけはカップルや家族連れのおかげで賑わっている。
結構なことなのだ。

激変した光景に驚くが、変わるべくして変わったのだろう。
労働者は減ったが、通天閣の足許の商店街は、じゃんじゃん横丁を含め生き残ったのだ。

しかし、映画館が建物ごと数館失われたことと、町の客層が変わったことには、大事な悪場所を失ったという思いがなくはない。

通天閣の足許は、観光化されたが、裏道をさまよえば、男が干渉されず、かつ自意識から開放される場所はまだまだあるだろう。

そんな一画を見つけても、ナイショである。
間違っても彼女や家族を案内してはいけない。

さて、俳句。
季節の違う句の引用はためらわれるが、今回は、どうしてもこの句。

朝顔の双葉のどこか濡れゐたる  高野素十


(一週置いての次回に続く)
 

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