2009-03-22

五句テキスト02

ほ よ 羽田野令


ほよそろそろ転(まろ)びだしさう春まひる

体内に青を移せり春の水

山茱萸やうからやからの小声なる

それぞれの地表に木五倍子ふれにけり

花ミモザ行間をあふれてしまふ



詩歌は、口承のみの長い時代を経て、文字による筆記、木版での出版、版木から活字を組むことによる巨大化した媒体へと変化する中で伝えられてきた。出版に於いては文学も利潤追求の原理に則ってきたのが今までのところである。インターネットの出現によって、製本販売を経なくてもネット上に「本」を発信できるようになった。だが販売の利益がないという特徴ゆえ、人気小説家の載る売り上げのある雑誌は誰もこのネットの形にはしないだろう。俳句では雑誌に書くことで食べていける人は殆どいない様だから、この形が紙媒体にとってかわって主流になる日があるとするなら、俳句はその可能性に最も近いところにあるジャンルだと言えそうである。

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無防備の庭  野口 裕


地下牢の底に算木を沈丁花

篝火草無可有郷の時に暮れ

たんぽぽやパスポートに顔載せてある

チューリップアルファベットの三つ並び

はこべらにフォーカスあわせ雨の中



ただいま読んでいる本は、内橋克人とディケンズ。組み合わせに意図はない。たまたま。世界の名作を今頃読んでいるので分かるように、読んでいる量にすると大したことはない。このあと、立花隆の小林益川理論の話か、山本義隆の熱力学の話を読むか、あるいは佐藤勝の獄中記にするか。いずれにしろ、生活を召使いにまかせるほどの余裕はないので、仕事を含めての生活をしながら、本読んで考えながら、その合間にちょこっと俳句を考えている。週刊俳句に「林田紀音夫全句集拾読」でご迷惑をかけっぱなしだが、まだまだかかりそうである。なにぶんご容赦のほどを。

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水 源 中田八十八


卒業の日の屋上に上りけり

いつせいに風車鳴れ我去らば

白木蓮永久にこの眼を記憶せよ

蛇出て蛇の穴ではなくなりぬ

水源といふかなしさや春の奥



抽象画もいいなと思ったのは、カンディンスキーを見たときだった。意味なんか解らないし、何が面白いのかもよくわからないが、観ていて飽きない。それで十分だと思った。
言葉を越えたもの、論理で測れないもの、しかし極めて普遍的なもの。言語の体系を借りてはいるが、俳句ではそれが捉えられる。具体的な表現で抽象をよく捉えた言葉、非論理的だが具体的な感触の言葉、そういう言葉に触れたい。

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愛の洋菓子  中嶋憲武


しつしつとボクサーの息春の雪

シネラリア前衛俳句百句よむ

コサージュの揺れて卒業生らしき

亀鳴いて凡そその数五千とも

マカロンのぽろぽろこぼれ春ですよ



大変だ!と言って乳房を露わにした娘が、理性の大衆化と西銀河系の眠れぬ夜のために急いで部屋を出ていった。その事自体は免職の夜想曲ほど重要ではなかった。私はできるだけ陽気なふりをしながら、パラフィンの雨だれの可能性について考えてみる。それは多分、曇りがちの水半球だ。ゆっくりと蒸気のオルガンが立ち上がると、私は娘のことなど忘れ不在の光景へ立ち入ってゆく。そこで、あの後ろ姿、なまめく上製本の後ろ姿に出くわすことだろう。鳥たちは自らの迷宮について考えはじめる。メタフィジカルな花々は、幾分かの含羞を帯びつつ音楽を奏でる。あれかこれか、選択肢はいつも誤植のマズルカのなかにあり、忘却は北の港に碇泊している。

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