杉山久子
『猫の句も借りたい』 を読む 山口優夢
まるで短編映画のような句集だ。ひとつひとつの句に猫の出てくるシーンが描かれる。猫が歩く、恋をする、おとなしく抱かれる、目を輝かせる、人の手に掴まれる。「猫の句も借りたい」というタイトルから察せられる通り、この句集は「猫」をコンセプトに作られていて、すべての句に「猫」という言葉が入っている。作者の飼い猫であったみーのことを詠んだ句が多いようだ。
しかし、このフィルムの主人公は「猫」、ではない。どの句にも、句の向う側に、猫を見つめている作者が見える。主になるのは、猫そのものよりも、どちらかと言えば彼女の猫に対する思いの方なのだ。短編映画のようだ、と思ったのは、一句一句に物語性があるということよりも、彼女が猫を思う心が、時間とともにたゆたいながら流れてゆくのをはっきりと感じるからではないかと思う。だからと言って、句に表立った表現として彼女の心情が描かれているわけではない。にも関わらず、彼女の抱いている、猫への優しい思いが、読んでいる我々にかぶさってゆきながら句集が進んでゆくのを感じる。それは、一句一句をバラバラにして読んだときとはまた違った情感を生んでいるのだ。もちろん、これは一句がないがしろにされず、丁寧に作られたうえで実現されている「句集」というものの魅力の一つであろう。
そこで、この稿では句集をその構成要素である句まで分解し、注目すべき句を一つ一つ見てゆきながら、それが句集全体の物語の中でどのように彼女の心を映し出す役割を担ってゆくのかを考えてゆく。その作業を通じて、僕が短編映画「猫の句も借りたい」の中に見た情景を語ってゆきたいと思う。句集の流れを再現するために、句を挙げる順番は、なるべく句集中での順番通りになるように努めた。
猫呼びに出てみづいろに春の月
冒頭に置かれた句である。最初のシーンでは、まだ猫は出てこない。彼女が猫を呼びながら舞台に上がる。猫との邂逅の一瞬前の場面、春の月のみずみずしさが、これから始まる物語をことほぐように美しく浮かび上がる。「猫」と彼女の関係は既にして何らかの形に築かれているものであるのだろう。この句には「猫」はまだ出てこないが、やがて猫とは出会えるであろうという確信というか、猫への信頼めいたものが「春の月」を見上げる彼女の心に宿っている。
句の表現に注目すると、「みづいろに」の「に」が、句の動きというか、うねりというか、そういうものを巧みに表していて、楽しい。「みづいろの」では軽やかさが減殺されてしまっていただろう。
猫の髭土にふれゐる原爆忌
髭が土に触れているということから、猫の顔がずいぶん下にあるのであろうことが分かる。つまり、この猫はおそらく土の上で丸まっているのだろう。しずかでのびやかな一瞬。しかし、そこに「原爆忌」という季語が置かれることによって、そのしずかな一瞬をことごとく奪い取ってしまう原爆の脅威が幻想されてくる。あるいは、ヒロシマのあの日、ナガサキのあの日にも、この「猫」と同じように髭を土に触れさせて目をつむってのんびりしていた猫がいたかもしれない。そんなことを考えると、彼女はきっとたまらなくなって五七五を作らざるを得なくなってしまうのだ。
原爆忌という重みを、猫を通して感じてしまうところに、彼女の猫への限りない愛情がかいま見える。
瓜の花ひらきて猫の誕生日
猫の毛の銀のさざなみ冬に入る
流星やシャンプーの香の猫の胸
猫への愛情、ということで言えば、これらの句にそれがよく表れている。猫を愛していなければ、猫の誕生日なんて考えもしないだろう。彼女はきっと、こののち、瓜の花が開く季節になるたびに猫の誕生日を思い出すのだろう。「銀のさざなみ」と、時には美しく表現してあげたり、「シャンプーの香の猫の胸」という、一瞬の肉体と肉体の触れ合いで感じた感覚を書きとめておいたり、これらのことは、彼女と猫がかけがえのない楽しい時間を一緒に過ごしたのであろうことを感じさせる。
この「猫の胸」の句を読むと、自分が猫の前脚を両手で持ち上げて、その胸に鼻をすりつけているような気分になるから不思議だ。猫がすぐそこにいる、その存在感の確からしさが頼もしい。そう、頼もしい、と思う分だけ、今度は「流星」という季語の儚さに、より一層、身を切られる思いがする。
爪研がぬ猫となりたる雁のころ
ひぐらしを聴く盲目の猫抱いて
猫が、老いてきていることがうかがえる。これまではずいぶん自由に動き回っていた猫が、今や目を悪くして人の胸に抱かれている、守られている存在になっているのだ。抱かれた猫のことよりも、決然と猫を抱き、守っている彼女を思い浮かべる。彼女は何から猫を守っているのか。もちろん、それは、忍び寄る死の気配から。
猫去りし膝月光に照らさるる
百合の実のつめたさに猫とむらひぬ
猫の死後木の実まさをに降りつのり
月光の句は、おそらく冒頭の春の月の句に対応している。猫が登場する直前、そして退場した直後、それはどちらも静寂な月の光が支配する世界であった。猫は夜に生まれ夜に還る。手の届かないところから手の届かないところへ。シャンプーの香りを嗅いだその一瞬の確からしさだけを手元に残して。
「猫の死後」の句に、彼女が喪失感のしずけさに包み込まれてゆく時間の長さを思う。この句には猫は登場しない。従って、彼女の気持ちも行為も何も描かれない。ただ、「猫の死後」という時代が訪れて、「木の実まさをに降りつのり」という情景が眼前に存在している、それだけだ。彼女は動けない。何も考えられない。どこにも行けない。彼女はいま、からっぽなのだ。
銀色の猫くるバレンタインの日
大いなる猫につまづく雛の客
「猫の毛の銀のさざなみ」という句から察するに、彼女の猫は銀色だったのであろう。でも、「バレンタインの日」にやってきた「銀色の猫」は、すでにして弔いを済ませた「彼女の猫」ではない別の「銀色の猫」だ。それが分かってしまうだけに、我々は彼女とともに喪失感の中を未だ漂っているしかない自分を発見する。
そして、この「雛の客」、実は彼女自身なのではないだろうか。誰か猫を飼っている人のうちにあがる際、大きな猫につまづいてしまった彼女。その猫は、他の家の、自分がもともと飼っていた猫とは似ても似つかないもの。彼女はその「大いなる猫」(きっとふてぶてしいデブ猫なのだろう)をじっと見つめて、ぽんぽんと軽く頭でも撫でて離れていったであろう。ここまで来れば、もうそろそろ、彼女は大丈夫だ。
対岸に波たちあがる猫の恋
鳥帰るスーツケースの上に猫
「対岸に波たちあがる」という力強い表現、恋猫のすさまじい様子にリンクしていて、感じるものがある。猫たちはたくましく生きている。その生命力こそが、彼女を勇気づける唯一のものであった。
スーツケースが暗示する旅立ちの気分は、前向きに生きていこうとする彼女そのものだ。この、スーツケースの上の猫は、きっと、彼女が飼っていた、彼女の猫、だ。まぼろしの猫、幽霊の猫なのだ。前向きに歩きだす彼女の幸せを祈るように現れ、ふいにスーツケースから飛び降りると雑踏の中へ消えてゆく・・・。それが彼女と猫の、本当の別れの姿なのだった。
僕がこの稿で挙げたこれらの句がもたらす情感は、もちろん、今、ここで僕が読んだとおりのものではないかもしれない。殊に、一句として見たときにはもっと全然違う読み方のできる句が多い。たとえばだれが一句だけ見た時に「スーツケースの上に猫」の「猫」をまぼろしだと思うであろう。
しかし、句集という句の流れを読むとき、そこにある一人の人間の猫への思いをくみ取るとき、句は断片となり、集まってひとつの物語を語りだす。長編映画のように複雑な物語の筋があるわけではなく、筋は単純でも一つ一つのシーンに胸打たれるような、そういう短編映画として、この句集は我々の心を慰めてくれる。そしてまた、彼女自身も、彼女の猫に会いたくなったときにはこの句集をひもとくだろう。これは、そんな幸せな句集だと思った。
『猫の句も借りたい』
杉山久子著
出版社◆有限会社マルコボ.コム(2008年第一刷)
80ページ・ソフトカバー
15cm×15cm
ISBN 978-4-9901404-9-6
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2009-05-10
15『猫の句も借りたい』 を読む 山口優夢
Posted by wh at 0:34
Labels: いつき組プロデュース, 山口優夢
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